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5 シベリア抑留体験

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 収容所での生活

 高橋によると、「当時の収容所の数は、分遣隊の作業場などを含め、千八百とも二千か所ともいわれている」(前掲書一二四頁)という。日本人捕虜は、そこで二年から五年(もしくはそれ以上)にわたり、過酷な労働を課せられた。凍傷や、危険を伴う作業での事故、絶望による自殺、栄養失調で死亡する者が後を絶たなかった。村内からも確認できるだけで、三人が収容所にて死亡している(後述の抑留者リスト参照)。収容所内の様子は、後述する体験談、座談会の中で、具体的に語られているが、出席者は「やぶれかぶれ、どうでもいいと思うわけさ」「捕虜は生きていても仕方ない。死んだほうがまだいい、という感覚」であったと語っている。マイナス四〇度まで下がる気温、栄養失調による死者が続出するような食事、ノルマを課せられた強制労働、凍土の上に建つ不衛生な丸太小屋での生活など、特に一九四五年から四六年にかけての初めての冬に死亡者が集中している。
 座談会の中で、収容所内でも日本軍の階級制が残っていたとの証言がある。部隊ごとに収容されたところでは、しばらくは軍人勅諭(その中では「下級の者は上官の命を承ること実は直に朕が命を承る義なりと心得よ」と、上官の命令を天皇の軍令権の発動と認め、絶対服従を義務付けられている)を唱えたり、皇居遥拝も行われており、年少の兵隊は靴磨きや薪集めなど上官に酷使され、上官が先に食事を多く食べてしまうようなことがまかり通っていたという。このような階級制が残る収容所での生活は、初年兵や現地召集兵が「よけいにまいった」と座談会では述べられている。『月刊Asahi』(朝日新聞社、一九九一年七月号)に掲載されている抑留者死亡者リストでも、初年兵と思われる年少者や召集兵と思われる年長者の死亡率が高くなっている。
 座談会の後日、補足調査を行ったが、そこで安里は、そのような階級制度が一九四六年の夏頃から廃れてゆき、新しい秩序が形成されていったと述べた。これは収容所内で湧き起ってきた「民主化運動」によるものであった。高橋は「このような民主化の要求、特に下級兵士たちの中に胎動してきた民主的要求を組織し、運動の羅針盤的役割を果たしたのが『日本新聞』である」(前掲書一三七頁)と述べている。これはソ連が自国の共産主義教育のために日本人捕虜に与えていた新聞で、一九四五年九月十五日に創刊され、一九四九年十一月の六五〇号まで発行されたものである(高橋、前掲書)。また玉城※※は、収容所内に県出身の徳田球一 と野坂参三 の写真が飾られていたと証言している。玉城は向こうで同県出身者なのに徳田球一を知らないということで叱られたという。

徳田球一
 沖縄出身の社会主義者。県立一中卒業後上京、沖縄差別を経験して弁護士の道に入り社会主義者らと接触をもつようになる。昭和十一年、堺利彦らと日本共産党を結成し、書記長になる。その後十八年間の獄中生活を経て一九四五年、党を再建し、後に北京で客死。

野坂参三
 日本共産党指導者、昭和六年から国内での共産党弾圧でソ連に亡命していた。

 しだいに捕虜の中から積極的に共産主義を学ぶ者が出てきて、一九四七年頃には民主化運動により廃止された日本軍隊の階級制に代わり、捕虜による選挙によってリーダーを決めるということになっていた。この頃には食料事情も待遇もかなりよくなってきていたため、死亡者は少なくなっていた。待遇がよくなったとはいえ、初年度と比較してということにすぎない。
 新垣は二年の収容所生活を終え、ようやく復員船に乗り、引揚港であった京都北部の舞鶴、長崎佐世保を経て沖縄に帰ることができた。しかし佐世保の引揚収容所で、沖縄の人が集まっていたが「シベリア帰りは見てすぐにわかりおった」と言う。南洋などからの引揚者は元気で肥えていたし、本土からの引揚者はお金もたくさん持っていたが、シベリア帰りは着の身着のままで、痩せこけていたのですぐに判別できたのであろう。生きていることだけでも不思議であったと当時を振り返る。
 一九四六年十一月に成立した「引揚げに関する米ソ暫定協定」に従って、翌十二月から抑留者達は引揚げを開始し、一九五〇年四月末までにほぼ帰国を完了した。
 厚生省援護局では「抑留者総数五七万五〇〇〇人、死亡者数五万五〇〇〇人」と公表している。

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