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5 シベリア抑留体験

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 復員とその後

 戦後、シベリアから読谷山村に一番初めに帰ってきたのは、波平の新垣※※であった。家族は「※※が帰ってきた」という知らせを受け、当然遺骨で帰ってきたと誤解し、ひどく悲しんだという。その直後、本人が歩いて家に来たのでみんな驚いて泣きながら「今の十分間に、一生分の悲しい思いと嬉しい思いを両方したよ!」と言ったそうである。
 その後、一人また一人とシベリアからの生還者が帰村した。しかし、彼らを待ち受けていたのは、「犯罪者同様の」警察による度重なる思想調査であった。本人のみならず、周辺の家族や知人への聞き込みが二年間も続いた。就職にもシベリア抑留経験者ということで、差別的待遇があるため、経歴からは常に削除せざるを得なかった。これにより様々な不利益を被ることになった。しかし国からの補償は何もなかった。
 全国抑留者補償協議会という民間団体が、国を相手に補償要求の裁判を起こしたが、一九八九年に東京地裁により棄却されている。その後一九九一年になって、シベリア抑留からの生還者の中には、内閣総理大臣よりの「慰労証書」と銀杯が送られてきた人もいる。

 


 『うるま新報』記事より

一九四六年十二月二十七日付
シベリヤで労務
満州からの日本人捕虜

 【上海十六日□ユピ】十六日上海に到着したイルクーツク版のブラウダ紙はシベリヤで鉄道及び道路建設に使役されている約二百万の欧州枢軸人俘虜と八十万の日本人俘虜につき次の□に報じている
 日本人とドイツ人、俘虜は目下シベリヤで鉄道や道路の建設に働いているが正にこれは中央アジアで握手しようとしていた両者の夢が思わぬ形で実現したものと云うべきであろう彼等が建設している鉄道は第四次五ヶ年計画中の最大の鉄道建設工事で西シベリヤクズネーフク重工業中心地を横断している。この鉄道の南と北に□つの公路が同様俘虜によって建設されている。新鉄道の西方終点はボルガ河左岸にあり、東方の終点はバイカル湖付近のタイシェットである。又ドイツ人日本人の俘虜はクラズノヤルスク、ミメシンズク、イルクーツク、における近代式建物の建設工事に使用されている。更に五万人の日本人俘虜がバイカル湖北方のボダイボ付近鉱山に雇われている。俘虜の中にはたくさんの婦人も交っており、娯楽方面では、□□の監視付きであるが比較的自由を得ており、映画、講演、ダンス、スポーツ等を楽しみ厳冬用の衣服、食料等も与えられ一日八時間労働で六ルーブルの賃銀が給与されている。

一九四九年十月十四日付
ソ連から十名帰る

 第三次ソ連引揚復員軍人十名は十二日qO号で那覇に入港、志喜屋知事、比嘉渉外、島袋官房、安次富社会事業部、船越情報部長らの出迎えを受け元気な顔で上陸。知事の激励の挨拶に帰還者代表から貴い体験を生かして沖縄復興に献身する旨、応え見違える郷土の変ぼうに目をみはりながら知念の収容所に入った。
 引揚者氏名 読谷村 安里※※(他九名省略)

一九四九年十二月二十一日付
ソ連引揚十三名帰る

 第七次ソ連引揚者はきのう、LST G009号で那覇港へ上陸。出迎えの志喜屋知事から激励の挨拶があって知念収容所へ向かった。引揚者氏名は次の十三名
 仲村※※(二十九)読谷(他十二名省略)

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