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5 シベリア抑留体験
シベリア抑留者座談会

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 満州へ

司会 今日は、満州やシベリアでの体験を思いだしながらお話し頂ければ幸いです。まず、玉城さんが満州へ行かれた経緯をお聞かせ下さい。
玉城 私は嘉手納の農林学校卒業後、昭和十八年四月、安里さんと一緒に軍属として関東軍司令部の経理部へ就職したんです。関東軍司令部の中には何部何部ってたくさんありましたからね。
司会 経理といったらいわゆる調達ですか?
玉城 はい、貨物廠がありましたから。本来は、関東軍野戦貨物廠六四五といいました。それで私達は一緒に那覇港から出航して、満州に着いても司令部貨物廠の中で一晩過ごしました。私は新京で働くことになっていたので、そこで安里さんと別れました。
司会 安里さんはどうでしたか。
安里 僕らが農林学校を卒業したのは、昭和十七年十二月。本当は昭和十八年の三月に卒業すべきなのですが、当時の日本は人手が足りなくなっていたので、「早く出せ」ということで、このような中途半端な時期に卒業したわけです(昭和十六年十月十六日、「大学学部等の在学年限又は修業年限の臨時短縮に関する件」が公布され、修業年限が三か月短縮された)。
 そして玉城さんと「仕事どうする」と話し合って、普天間にあった職業紹介所へ行ったんです。何も考えていませんでしたよ。学校を卒業して「とにかく何かやりたい」という意気込みだけはあるという感じでした。
司会 新垣さんが、満州へ行かれた経緯は。
新垣 私は熊本で半年間の軍事訓練を受け、満州の牡丹江に派遣されました。二年程した頃、私は伝染病を患いしばらく隔離されていました。完治後は元の部隊に戻るつもりでしたが、その時には、既に元の部隊が南方に派遣されたため、上官のはからいで航空隊下士官養成所に入りました。その後新京の第二航空軍に入り、終戦時は南満州の大連飛行場にいました。
司会 軍属として満州へ行った安里さんと玉城さんは、向こうで召集を受けますよね。
安里 私は、関東軍経理部の黒河出張所で軍属として仕事をしておりましたが、昭和二十年の五月二十二日に現役兵として牡丹江野砲兵一二四連隊へ入営しました。
司会 黒河というのはどの辺りですか。
安里 私が二か年間近く住んでいた黒河というところは、現中国東北部の黒竜江省北端にあってソ満国境線となっていた大きな河「黒竜江」沿いの街でした。
司会 玉城さんが召集されたのはいつ頃ですか。
新京六五四部隊玄関にて、右が玉城※※、左は鹿児島県出身者(昭和二十年三月、水澤少佐撮影)

玉城 昭和二十年二月、当時私は十九歳でした。それ以前は二十歳からの召集だったんですが、人が足りなくなったから、十九歳から繰り上げ召集することになったんですよ(昭和十八年十二月二十三日、兵役法が改正され、徴兵年齢が満十九歳と一年繰り下げられた)。その時は朝鮮人も一緒だったな。鹿児島からも二人いましたがね。つまり最初は軍属として行ったが、徴兵で兵隊になったんです。
安里 それ相当の月給がもらえる陸軍雇員から一銭五厘の値打ちしかない陸軍二等兵になりましたよ。

 終戦

玉城 私は召集を受けてからは虎林にいましたが、そこはロシアとの国境付近でシベリアが見えていました。そこには関東軍はほとんどいなくて、ただ、兵舎の守備みたいなかっこうでした。中国戦線に参加しているという感じは全くなく、戦争が始まったのもわかりませんでした。
 突然、ロシアの部隊が国境を越えて来たので、私たちは追われて、牡丹江からずっと朝鮮方面へ、山の中を逃げて行ったんですよ。
 途中から、日本は負けたから早く出て来なさいというんだけど、「うそだ」といってそのまま逃げ続けました。ちょうど朝鮮との国境近くで捕まったんです。夕方頃でした。
司会 玉城さんが捕まったときは、交戦もあったんですか。
玉城 ぜんぜん。僕らはまた少ないもんだからね、向こうは多いでしょ、戦闘したんじゃかなわないですから。
新垣 満州では、一軍、二軍、三軍と部隊配置がされていましたが、日本軍が沖縄や南方方面で負けはじめたので、満州の主力部隊が次々に南方へひっぱられたんです。現役兵や若い方々がどんどんフィリピンなどの作戦にかり出されました。南方へ行く途中の船も、バンバンやられていました。当時満州にいた関東軍の兵隊はできるだけ満州に残して、現役の兵隊、若い方々は南方へ、激戦地へと向かわせていました。
玉城 満州はほとんど召集兵でしたね。
新垣 関東軍特別演習といって昭和十六年に召集されたのですが、その時に召集されたのがほとんどですよ。
安里 私が軍属として働いていた昭和十八年頃は、国境の街・黒河には国境守備隊が布陣していました。黒竜江を隔ててソ連軍の陣地も見えていました。こちらは相手陣地めがけて、一〇センチ榴弾砲が砲口だけ出して埋められて並んでいました。その後ろには高射砲がずらっと並んでいました。
 しかし、その大砲など使わずに、昭和十九年頃には兵隊はほとんど南方へ移動して兵舎は空っぽになり、構築した陣地は少人数の兵隊が守っていました。
玉城 いつ頃、ロシア軍が国境から入ってきたかな。
安里 戦記によりますと、昭和二十年八月八日の夜中から九日未明にかけて国境線を突破し満州に侵攻していますね。
新垣 牡丹江に入ってきたのは十二日だと言っておったけれどもね。
安里 とにかく、八月十五日が無条件降伏ですから、一週間で日本は手をあげてるんだよ。
新垣 国境の場所によって、入って来た日が違いますから。
安里 そして、指揮系統も乱れとったんじゃないですかね。
新垣 それはもう。ほとんど戦闘らしい戦闘はなかったですね。
安里 こっちが交戦の態勢を整えないうちにソ連軍は入って来ているわけでしょう。
新垣 しかし、官舎にいた日本軍将校の奥さん連中は、それまでに朝鮮を通して日本へ帰しているわけだからね(軍人家族の避難列車は八月十一日午前一時四十分に新京を発車している)。
司会 その時、残された方々が中国で孤児になっているのですか。
玉城 あれは軍人家族ではなく、満州開拓移民の人達がほとんどです。チチハル、ハルビンなど、みんな開拓団が入っていましたからね。
司会 では将校達の家族は、優先的に帰っているんですね。
新垣 そうです。私は終戦の頃、南満州大連の飛行場にいましたが、二十年の八月一日に国から入隊命令がきたので、私は部隊本部に申告に行ったんです。あれは八月十三日だったでしょうか、部隊本部からの帰りに乗った汽車の中で、満州の人が「ロシアと日本の間で戦争が始まるそうだが、あんた方、それわかっているか」と言うのです。私は何も知らなかったので「そんな話があるのか」と聞いたら、「満州国ではそういう情報が入っているよ」と言っていました。
 部隊に帰ったけれども、部隊ではそんな話は誰も聞いてなかったんです。そして十七日になると、支那から来た虎部隊という戦闘部隊がうちの事務所の無線所にきて、そういう情報があるのだがここにも情報がきているか、と言って確認しに来ていました。「何も聞いていないからそんなことは無いだろう」と話していました。
 そうして四、五日経った頃だったでしょうか、まちがいなく、日本国は無条件降伏したんだという情報が入っているということが判ったんです。それから私の部隊の仲間も虎部隊の連中も、毎日、酒を飲んで騒ぎだしましてね。
司会 負けたということで。
新垣 はい、飛行機も戦闘機が一二、三機あったのですが、もう自棄になってみんなで打ち壊していましたよ。
司会 終戦を知った時どう思われましたか。
安里 その時には「沖縄も玉砕した」と聞いて、親も兄弟もいなくなる、親戚もいなくなる、みんないなくなる、もうこれで終わりだな、としか思わなかったよ。
新垣 しかしよく生きてきたよな。
玉城 誰も生きているとは思わなかったね。

 捕虜になる

新垣 私は八月三十日に奉天に集合という命を受け、新立屯という駅に集合して、そこから汽車に乗って奉天に行く予定でした。それが新立屯の駅に着いて一時間程したら、駅構内にソ連の戦車部隊がどんどん入ってきて、ずらーっと並んでいるのです。
 もう汽車は出るはずもなく、そのままそこで部隊全員が捕虜になりました。裸の者はそのままで、何も着けることができなかった。男たちは八列に並ばされて、前から通るロシアの兵隊には前ポケットに入っているものを、後ろからは後ろのポケットに持っているものを全部ひっくりかえされて、財布から万年筆から何もかも取られました。
司会 新垣さんの部隊は何人おられたのですか、また武器などは持っておられなかったんですか。
新垣 拳銃や鉄砲は汽車に乗せてありましたが、それには手をつけるなということで、もう何にも持たずに、裸のまま、夏でしたからね。それでその新立屯駅のホームの倉庫で四〇日間抑留されました。
 うちの航空無線の連中が二八人と、虎部隊が全部でしたから、合わせて四〇〇人がここで捕虜になったんです。そのまま、女の連中はその場で散髪、男みたいに散髪して、戦闘帽をかぶせていました。
司会 女性というのは軍属ですか。
新垣 軍属も駅の近くの日本人もそこに連れてきてあったんです。そういう様子を見せられて、これはいかんなーと思いましたが、もうどうしようもできない。
 そこから今度は奉天に集合だということで、向こうへ行ったら、もうたくさんの日本人が奉天に集められていました。
 私達は一〇〇〇人程でまとまって、そこから牡丹江に移されて、牡丹江からソ連国境の黒河まで連行されました。
玉城 みんな一緒(同じ様な状況)だね。
新垣 黒河に移されて、そこで二週間程過ごし、そこから川を渡ってシベリアへ。
玉城 私達は、牡丹江に集結してから汽車に乗せられて、バイカル湖を通って行って、タイシェットから何百キロか奥にある収容所に行きました。
安里 牡丹江からはハバロフスクの収容所へ行った者が多いな。
玉城 ハバロフスクをもっと越えたんじゃないかな。

 シベリア連行

司会 どんな汽車ですか。
玉城 貨車だったよ。
新垣 で、棚があってね。
玉城 トイレする場合に戸開けてさ、前から二人がつかまえておって、汽車は走りながら。
司会 走りながらですか。
玉城 シベリアに入るまでは、いつも前から二人の人に引っ張ってもらって。
新垣 ひどかったよ。
司会 一両にどれくらい入るんですか。
安里 一両に五〇人ぐらい入ったんじゃないか。
新垣 そうとう入っているね。
司会 ほとんど立ったままですか。
玉城 貨車は二段式の棚で上段、下段に詰め込まれた。
司会 ぎゅうぎゅう詰めですね。
安里 それから、窓はないわけさ。
司会 行くときは、まだ夏だったわけですよね。
新垣 いや、私の場合は捕まったのは夏ですが、川を渡ってシベリアに入る頃はもう、十一月、十二月ぐらい。
玉城 そうでしたね。シベリアに入ったらですね、今のサウナみたいなところにつっこまれてね、すぐに、その晩。
新垣 雪も積もっていた。
玉城 着る物も何もなかったよ。
新垣 しかし、ソ連は非常に早い時期から収容所への輸送をやっていましたね。終戦になってもう九月から「ダモイ」と言って騙していましたよ。
安里 人数が多くて、輸送の関係もあるもんだから。
司会 ああ、一度に全ての輸送ができないから、それで新垣さんだと四〇日ぐらい駅で待機させられたり。
新垣 待っておった。普通、一隊一〇〇〇人ぐらいだったんじゃないかな。
安里 捕虜集結地で一〇〇〇人単位で編成された作業大隊毎に輸送列車に乗せられたね。
 ソ連の将校や兵隊たちは口々に日本人捕虜に対して「スコーラ・トウキョウ・ダモイ」(早く東京へ帰る)「トウキョウ・ダモイ」と叫んでいたので、帰国する復員列車のつもりで乗車しましたよ。
玉城 「帰す」と言わなければ、みんな逃げるからね。だから汽車乗ってもバイカル湖を通っているとね、「日本海が見える」と、そう言っている人もいたんだよ。バイカル湖なんていったら海と同じだからね。
安里 国境を越えてソ連に入ってからも皆帰国だと思っていたね。太陽の位置から考えて汽車の進行方向が西へ向かっていても迂回して日本へ帰ると信じていた。
新垣 反対方向だってわかるから。
玉城 途中から逃げたのもおったよ。汽車から跳んでバイカル湖越えていってから。しかし逃げた連中は捕まってきておったな。シベリアに。
司会 あ、捕まって。
安里 運が良かったね、殺されないで捕まったほうがよかったよ。
司会 黒河から、黒竜江を船で上がって行ったんですか。
新垣 いえ、汽車でした。
安里 黒河の対岸ブラゴベシチェンスクからシベリア入りですね。
司会 もう、シベリアといえば見渡す限りの平原ですか。
新垣 そう、印象に残る山って見たことないね。
安里 新垣さんはそういうところを通っているんだ。私達は森林地帯に連れていかれて伐採までさせられて、みんな山でしたよ。
玉城 いや、これ伐採したんだから平坦なんだよ。
安里 ああ、日本の山のように標高の高い山はなかったな。
玉城 あ、高い山ね。
安里 うん。そういう山はない。もうずっと、ずっと地平線までなだらかになっている。
玉城 シベリアは松、モミとかが非常に多いでしょ、あれらは針葉樹だから、夏場でも冬場でも青々としていたよ。
司会 冬になると気温はやはり寒くなりますでしょう。
新垣 はい、寒くなる。私達がおったところなんかは、冬場は夜が長かったが、夏場は日が暮れなかった。夜といっても、四時間しか暗くなかったよ。
司会 白夜ですね。
安里 新垣さんどこですかね。
新垣 私がいちばん最初に行ったのは、トランスワーレというんですがね。日本語では地獄谷といっていました。
司会 トランスワーレ。
新垣 地図にはないはずです。トランスワーレは、私も色々と調べましたがありませんでした。また向こうの兵隊に聞いても、そういうことは知らんと言うんだから。しかしそこは、我々が連れて来られるまでは、ソ連の囚人が作業していた地域だったそうです。

 シベリア強制収容所

新垣 そのトランスワーレというところは、シベリア北方の金山だったんです。だから金鉱石を掘る作業をしました。地下一〇〇〜一二〇メートルに潜ってね、全部坑道で。
司会 シベリアでも、北の方がまた条件は悪かったんですか。
新垣 そうでしょうね。十二月から一月までの三か月間はそこにおりました。三月になったら、また、今度は木の伐採。木を一メートルの長さに切って、それを一メートルの高さに積んで、三メートル幅までやるという作業を二人でやりました。
玉城 一日のノルマですね。
新垣 二人でだよ。
玉城 しかし、冬はまだ大丈夫でしょうな。夏場になると。
新垣 冬だからできるんだって、夏なんかもう、水が出るんだから。冬は氷を割るように木がポンと折れるさ。松の木はもう凍っているからね。
司会 あー冬の方が作業しやすいわけですね。
新垣 だから、わざわざ寒いとき、冬の季節に合わせて。
司会 切れるというより折れるんですね。
新垣 折れるんです。
司会 だいたい一日の生活はどんな感じですか。
新垣 ああいう状況は、生活とは言えませんね。掘っ建て小屋で、夜にはドアの前で二人ずつ交替で不寝番。非常に寒いから、防寒用で二重ドアになっていましたがね。
司会 寝ないで、ドアの前に立っているのですか。
新垣 そう。絶えず雪かきをしないと翌朝ドアが開けられないからね、雪が積もって。そういうところだったんです。だから最初行ったときには、周囲には丸太が三メートル置きに立てられていて、その間に鉄条網をずーっと張ってあるけれども、その上を越えていった。つまり、雪が上まで積もっていて、入るときには鉄条網の上とも知らず雪の上を歩いたわけ。
司会 積雪で。
新垣 それで三月の中ごろなると、雪が溶けてきて宿舎の周辺のことが全部見えますよね。宿舎の周囲には丸太がずーっと立てられていて。私達が逃げないように立てられたものだと、雪がとけて次第に見えてきたわけです。

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