読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第五節 海外での戦争体験

5 シベリア抑留体験
シベリア抑留者座談会

<-前頁 次頁->

 作業前後の人数確認

司会 その金鉱掘りですがね、鉱山の坑夫としては朝からですか。
新垣 朝から、一日八時間。
司会 休みはなしですか。
新垣 休みなし。
司会 食事はどんなものでしたか。
新垣 昼食はなし。朝食べてそのまま。
安里 あのね、シベリア労働というのはね、八時間というのあるんだけどね、この八時間というのは、作業現場に着いて仕事始めて終わるまでが八時間なんだよ。お昼の休憩時間は入ってないんだよ、八時間の中には。
 あそこの兵隊は、算数が分からないもんだからね。最初に、衛兵は収容所から一〇〇人なら一〇〇人連れて出ると、一〇〇人連れて帰らんといかんわけさ。ところが、まず出る前、まだ真っ暗な早朝に五列に並ばせて数えるわね。それを行ったり来たりしてね、数え切れないわけさ。何回も何回も出発の時に人数を数えなおすわけです。
 そこですでに三〇分から四〇分ぐらい、寒いところに、ずっと立たされているわけよ。仕事行くんじゃないよ。立って人員合わせ。それが終わってから五、六キロの道のりを、作業場まで歩いて行くわけさ。
司会 朝は何時頃ですか。
安里 六時起床だからね。とにかく真っ暗なんだよ。それでも朝は元気あるからまだいいよ。八時間の作業ノルマを終えてまた帰ってくるでしょ、また歩いてくるんだよ、五、六キロを歩いてきてまた人数を数えるわけさ。特に冬の場合は、自分の部屋で暖をとるために作業現場から薪を担いできたんですよ、こんな薪をね、二、三担いで。それだけじゃなく、鋸も持つ、いろんな作業具を持つ、外套も着てね、もう着膨れしているんですよ。しかも多くの荷物を持つ。疲れてはおる、重くはある、滑りはする、そして収容所へ着いたらまた一時間ぐらい立たされるさ。人数数えるのに五列に並んで。特に帰りは泣いたな。

 収容所にいた人々

新垣 私なんか金鉱山から伐採に移って、そして四月になってから炭鉱でした。
司会 四月から炭鉱。なんていう所ですか。
新垣 チャイナゴールスカヤと言っていたけどね。
司会 なに地区ってわかりませんか。
新垣 地区はね、チタ地区だったか。地図にはチタはあるけれども、チャイナゴールスカヤはないね。
司会 今みたいにこんなにして地図があるわけでもなんでもないですからね。大平原の中をどこか動かされたって、自分のいる場所もわかりませんものね。
新垣 とにかく磁石でも、持ってるのはみんな取り上げられたからね。逃げるといって。
司会 あー磁石まで。
新垣 炭鉱行ってからは少しはよかった。
司会 その炭鉱では男ばっかりですか。
新垣 男ばっかり。
司会 最初にいた女性たちはどうなってるんですか。
新垣 この人達は何か、看護婦に採用するということで、病院あたりへ連れてゆくという話でした。私達と来たのは四〇人余りだったかな、しかしこの女の人たちがその後どうなったのか全然わかりません。
司会 ソ連の鉱夫も一緒に働いていたんですか。
新垣 ええ、一緒に。
司会 その人達は戦犯だったのですか。
新垣 いいえ戦犯ではなく、捕虜の監視もしながら仕事もあっちこっちする人達です。
玉城 白系ロシア人がいたな。
司会 白系ロシア人ですか。
玉城 満州に逃げた連中でしょ。
安里 ロシア革命で共産党に反対した反国民側ですよ。満州に逃げてきた人たち。その人達が向こうに引っ張られていった。
司会 ああ、その人々も一緒に。

 収容所での食事

司会 食事や水はどうしていたんですか。
玉城 水は雪を溶かしてね。
新垣 水は心配ない。雪があるから。
司会 朝の食事というのはどんなものだったんですか。
新垣 朝は、普通四〇〇グラムの黒パン一切れ。
玉城 よくけんかしおったな。分けるのに。
新垣 パン一切れで一食分。四〇〇グラムが基準のようだけれども、しかしこれもソ連側の幹部連中がピンハネして、直接わたるのが二〇〇グラムぐらいですね。
玉城 それと何だった、塩鱈(しおだら)だったか。
安里 にしん。
玉城 にしんか、これとパンとをくれるわけだからな。
司会 あの塩辛いやつですね。
安里 食事は、入所当時の場合の食事と、一年たって、二年たって、僕ら四年いたけれどね。だんだん良くなっていたな。一番悪かったのは入所当時の一九四五年から四六年にかけてですよ。
玉城 一番多いのは、コーリャン(高粱)の粉をね、水で炊いてさ。
司会 コーリャンとは何ですか。
玉城 トージン(モロコシ・外観はトウモロコシに似ている。茎の高さは二メートルほどになる)。あれは満州の馬糧を運んで来たんじゃないかな。
司会 馬の餌ですか。
安里 馬糧ですよ、あれ。
新垣 あれは食べられたもんじゃないな。
安里 そのコーリャンやトウモロコシが主食でしたが、これをかたく炊かないわけよ。
新垣 おかゆみたい。
司会 粉の量が少なくて水が多いんですね。
話者全 そうそう。
司会 行ったじきは人もたくさんいたもんだから食料事情が悪いわけですか。
安里 そうそう。
司会 二年目三年目には少しづつ良くなっていきましたか。
安里 あー良くなっていた。
玉城 しかし「働かざる者は食うべからず」というのはノルマでわかりましたよ。ノルマを達成しないとね、ほんとにおかゆ状のものをくれるんだな。ノルマを達成したやつは少しかたいものをくれたんだよ。
新垣 ノルマを達成しなければ、その分食事が減るんですよ。
玉城 量が決まってるわけでしょ。ノルマを一〇〇パーセント達成した人は固いご飯。しかしおかゆがほとんどでしたね。
司会 ご飯って米はあったんですか。
安里 米なんかないよ。僕は入所当時はね、朝はコーリャンの皮のついたやつ、脱穀はしてあるよ。してあるけど、要するに玄米状の、まだ皮のついてるやつを炊いてもってきていたよ。こんなして上げたらポトポトしておちるさ。底の方は実があるけど上の方は水さ。それをかき混ぜながら飯盒に配るわけよ。これが飯盒の三分の一ぐらいだったか。あんたがたそういう経験ない。
玉城 あるよ、みんな。
安里 飯盒の三分の一ぐらいかな。とにかく朝はそれを食べて、昼食用のパンはもらったけどひもじいから、朝少し食べてしまっていくらか持っていく、そのパンはまた作業場の山に持っていって。そしてお昼時間になったら雪を溶かして水を飲んでから、これぐらいの(手で小さく示しながら)パン食べてそれで帰ってくる。また晩になったら、とうもろこしの粉のおかゆとかコーリャンのおかゆを食べて。
司会 朝は黒パン二〇〇グラムぐらい、帰ってきたらノルマ達成した人は少しは、ちょっと固めのコーリャンのおかゆをですね。
新垣 だから栄養失調がだんだん多くなってきた。
司会 タンパク質はさっきのにしんの塩漬けだけですね。野菜というものは無いんですか。
新垣 いや、あることはあったよ。うちなんかの場合はキャベツが多かった。
司会 毎日あるんですか。
新垣 ええ、だから炭鉱から帰るときに、もう暗くなるから、道のそばにあるキャベツをね、根元から盗ってきて。
司会 冬はないでしょ、夏だからあるんですね。
新垣 これをジャンパーの下に隠しておいて、それで部屋帰ってから飯ごうにね、塩入れて炊いて食べおったさ。
玉城 結局ね、むこうから配給するものが少ないからね、それにいろいろ工夫して、塩入れて煮て多くしたりしたわけさ。
新垣 いや、配給だけではどうしても少ないからね、食べるのが。なんとか仕事の行き帰り、食べる方法ないかなーということをいつも考えているわけ。炭鉱あたり行くと、向こうの女の人々がね、歯、金歯、これを買うから抜きなさいというわけさ。あるいは国旗をパンと換えようとか、タバコと換えようとか、それで自然にもうしまいには持ってるものはほとんどない。
司会 住民との接触はできたんですか。
新垣 ああできましたよ、仕事現場ではね。特に私は通信隊にいたということで、電話線の取り付け工事を頼まれたことがあって、そんな時はその家の奥さんから大きなパンを貰ったこともありますよ。

 強制労働・ノルマ

司会 先ほどの伐採作業ですが、その木をどうしたんですか。
玉城 鉄道工事や家造りに使われていたみたいね。
司会 何という木ですか。
玉城 僕らが切ったのは松とかモミとかね。
安里 伐採というのは大変な作業だよね。
玉城 大きな木を切ると大きな音がするよね。バサーっと。
司会 倒れるときに。
新垣 倒すのはよっぽど頭つかわんとね。
司会 倒れる方向を考えて。
安里 立木を切り倒すには、例えば南側に倒そうとすれば、地表から三〇センチメートル位上部の根本の南側から立木に直角に鋸を入れ二〇センチ位切る。切り口の上部を∠状に斧で削り取るんです。
 次に、先に鋸を入れた位置から三〇センチ位上を北側から立木に直角に鋸を入れて木が倒れるまで切り進んでいくわけです。計算通り倒れてくれればいいんだけれど、場合によっては思わぬ方向へ倒れて、はねたりすると大怪我するわけですよ。
新垣 別の木の枝にひっかかったりね。
司会 木の高さはどれぐらいあるんですか。
新垣 ああ、高いよ。二〇メートルぐらいあるんじゃない。
司会 そんなに。
安里 針葉樹の原生林だから一〇メートル以上まっすぐに伸びていたよ。
新垣 まっすぐ、杉みたいさ。
玉城 白樺の水をよく飲みましたね。樹木を朝のうちに削っとってね、作業帰ってくるまでには水が一杯しておった。甘いんだねあれ。
司会 傷つけると水がでるんですか。
玉城 そう。松葉湯はよく飲まされた。お茶の代わりに松葉よ、松。
司会 松の葉っぱがお茶みたいになるんですか。
安里 苦みなかったか。
玉城 にがい。
安里 賃金もらったことあります。
玉城 ううん、ない。
安里 僕らは一九四八年頃はいくらかもらった。それでなにか買った覚えがある。
玉城 渡慶次の國吉※※さんの話だとね、彼は修理工だったんですよ。だから彼のような技術者はね…。
安里 旋盤工とか特殊技術者はね、優遇されていた。しかしね、そうでないものにはノルマっていうものがあって、これがもうめちゃくちゃなんだよ。
玉城 二人一組のノルマは、一メートルの長さに切った丸太を一メートルの高さに積み上げて、幅三メートルだからな。
安里 それだけだったか。
司会 それで材木の重量はどれぐらいになりますか。
新垣 一トン以上はあるだろうな。一立方メートルの材木が三つ分だからね。
玉城 今だから言えるんだが、痩せてるさーや。あれ切るの本当に大変だったよね。
新垣 (手で示しながら)こんなに積もっている雪を二人でかいてね。

 体力の限界まで

司会 人間は痩せるとすごく体力がおちたでしょうね。
新垣 大変ですよ、体力は減退して。
玉城 爪が伸びなかったんですよね。
新垣 伸びない。
司会 爪まで栄養がいかないということですか。
新垣 栄養が無くて伸びない。
玉城 おもしろいよ。
司会 栄養で。作業ですり減ったのではなくて。
玉城 うん、そうじゃない。栄養で。
司会 じゃ髪の毛も。
新垣 だからやはり、爪や髪が伸びるのは栄養があるから伸びるのであってね。
安里 また靴下がね、むこうはこういう(足元を示しながら)靴下がなくて、ティーサージ(手拭)みたいなやつを足に巻くんです。
新垣 ふろしきみたいな物もさ。
玉城 いやー、これではもたんよ。
安里 足に布を巻くのも上手になっていたけどな。むこうの人もそうしていたんだから。
玉城 そういえば向こうの言葉で、靴はパチンキといいおったな。
新垣 しかしあのような布を巻いただけの靴下などではね、絶対もたない。
司会 寒くて。
玉城 手袋でもこんな指がそれぞれ入るようなやつではだめよ。ボクシングのグローブみたいに二つに分かれているやつがあるでしょ。あれだよね。一つずつではもうだめ。

<-前頁 次頁->

読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第五節 海外での戦争体験