第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦
読谷山(北)飛行場の建設
玉城栄祐


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はじめに

 読谷山村への飛行場建設は、戦中から戦後の現在に至るまで、村民の生活を大きく規制していると言っても過言ではない。飛行場が造られることになったため、飛行場の地上勤務及び空中勤務の航空部隊が配備され、それらを掩護(えんご)するために高射砲部隊が進駐してきた。そして、米軍にとっては空襲や艦砲射撃を加える場合、航空機や高射砲という迎撃能力をもつ部隊が集中していることから、当然に読谷山村を重要な攻撃目標として、激しくしかも徹底的に攻撃、破壊することになった。村民は旧日本軍が進駐してから終戦に至る間に直接、間接の損害を被(こうむ)ることになった。
 米軍は上陸の初日午前十一時三十分に飛行場を占領し、三日目からは戦闘機が使用して本島南部を攻撃し、本土攻撃への発進基地にもしたのである。そして、マッカーサーは日本への進駐の途中、昭和二十年八月二十九日に読谷山村内の飛行場に降り立っている。これらは、戦後の読谷を暗示する出来事であった。読谷飛行場では朝鮮戦争のころまで米軍機が離発着しており、村域の約八〇%を米軍基地が占拠していた。村民は現在でも約四五%の米軍用地をかかえ、日常的に基地と隣り合わせの生活を余儀なくされている。そのため、土地の計画的な利用を阻まれ、村勢の発展を阻害している側面がある。それらは元をただせば、旧軍飛行場に起因しており、未だにその戦後処理さえなされないなど現在にまで課題を引きずっている。

1 読谷山村への飛行場の建設計画

 防衛庁防衛研修所戦史室著『沖縄・臺湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』(以下『航空作戦』と記す)によれば、
 「航空部隊機動の見地から、沖縄、臺湾を通じ有力な航空路を開こうとする着想は、早くから陸軍中央部に生じていたが、十七年末ころにおいても、沖縄にはいまだ陸軍の飛行場はなかった。十七年末、陸軍航空が南東方面に転用され、南方への補給航空路の開設に関連し、不時着用の飛行場として、沖縄に陸軍飛行場新設の必要が起こり、昭和十八年夏、陸軍航空本部経理部が直轄工事として、沖縄北飛行場の設定に着手した」(二四頁)。
 そして、昭和十七年から大本営陸軍参謀として国内航空一般についての主務者であった神直道中佐(当時は少佐、第三十二軍航空参謀として昭和二十年三月沖縄に赴任)も次のように証言している。
 「昭和十八年頃より、日本本土防空及南方航空路強化の必要上、読谷村に飛行場を設定することを決定し、頭初、航空本部之を調査した。当時の調査官は陸軍大尉木村正雄、陸軍中尉天野]彦(共に建技将校)で(中略)作戦開始後、松原少佐、木村大尉、天野中尉は共に戦死した」(昭和四十二年十一月四日付、厚生省援護局調査課長宛に神直道氏が回答した文書より)。

2 飛行場用地の接収

土地接収の通告と説明会
 関係者に何の前触れもないまま、読谷山国民学校南側の読谷山野(ユンタンザヌー)と呼ばれた広大な畑地に、青い竹竿の赤旗が立った。それは昭和十八年四月二十七日のことであった。たまたま字座喜味の山城氏宅で娘がなくなり、四月二十六日に都屋東の墓地へ野辺送りをした際、赤い旗は立っていなかった。しかし、翌二十七日の墓参りに参加した多くの人たちは、赤旗が立っているのを見て、不思議に思ったという。地域ではその日から赤旗のことが話題になった。事情を知らない人々は、不安な気持ちで旗のことをいぶかしがるのだった。
 一週間ほど経って、字事務所からの連絡で住民が国民学校に集められた。その時に初めて、赤い旗が飛行場予定地の境界を示すものであり、集められた人たちは接収予定の地主であることが分ったのである。まさに晴天の霹靂であった。説明には二人の軍人が沖縄県警察部の高嶺保安課長を伴って来た。軍人は緊迫した戦況を説明した後、地主たちに土地の提供を示達した。接収面積は、三百六十町歩に及ぶ計画だということであった。
 沖縄県議会企画総務委員会における「返還に関する陳情」の説明資料には、「この地域は土質といい、広さからいっても飛行場用地として最適地である。わが国がこの戦争に勝利するための飛行場建設である。飛行場の設定計画を変更する事は絶対にない。日本の軍隊に二言はない。こういう次第であるから、諸君の土地を提供してもらいたい」と記され、軍隊口調で命令するような話し方であった。
 その説明会に参加した字楚辺の上地※※は、「飛行場を造ることに賛成しない者は、国民ではない。非国民として扱われるから、そういう覚悟で協力を願いたい、と言われた。自分たちはこれに対して、戦いに勝つためには飛行場を造らねばならないのだというふうに思い、だれ一人として意見(反対)が言えなかった」と述懐している。
 また、家屋敷と畑の全部を強制接収されることになり、祖父に代わって出席した大字喜名小字西原の当山※※は「一億一心、火の玉となって勝ち抜かなければならない。戦勝の暁には土地を返してやる、と話していた。帰宅して、戦争が終われば土地は地主に返すと言っていたから落胆しないで、と祖父を慰めましたよ」と証言している。
 なお、強制立退きさせられた戸数は、喜名四七戸、座喜味八戸、楚辺六戸、伊良皆四戸の計六五戸であった。
 いずれにせよ、関係地主にとっては、これからの生活のことを考えると、極めて深刻な話であった。当然、会場は重苦しい雰囲気になった。当時の社会情勢は、軍の計画に反対する者は「非国民」であり、協力しない者は「国賊」並に扱われかねない時代であった。地主たちは表立って反対や要求が言えないだけに、その苦悩は胸のうちに重く積もっていった。大勢の家族を抱え、畑地と家屋敷の全財産を接収されたために、生活が立ち行かないことを悲観して発狂する人も出た。
土地接収された人々
 沖縄北(読谷山)飛行場に土地を接収された地主は、六六四名であることが確認されている。それらは畑地を接収(大部分の人が該当)された人々、畑と家屋敷を接収され立退きした人々、当時は海外在住で飛行場が造られたことを戦後引き揚げて来て初めて知った人々のような三つのケースに分けられる。それぞれのケースの人たちに証言してもらおう。
のケース 池原※※(字楚辺)
 飛行場を造るという話を聞かされ、読谷は大変なことになった。農民はこれから先どうやって生きていくのか、と心配でした。他の地主たちも不安、動揺し、会う人ごとに飛行場の話でもちきりでした。私は三六〇坪と四二〇坪の二筆を所有し、小麦作りをしていた。
 八月十八日から字喜名にあった村役場で農作物の補償と、家屋の立ち退き料が支払われた。補償金は等級別に一坪当たり一等三十五銭、二等三十二銭、三等三十銭だった。補償金は小麦や大豆が高く評価され、イモやキビは安くみられた。その後、農地を失った人は、昼は日当三十銭で飛行場造りの労務に従事し、夜になると食料買い出しに遠く中城まで出かける人もいた(『琉球新報』昭和五十一年十月二十八日、「三三年目の証言」より要約)。
のケース 当山※※(字座喜味)
 私の家は飛行場の真中にあった。家の周囲に約二千五百坪の畑があって、そこにイモ、キビ、大豆などを作り、のどかな農村生活を送っていた。一帯に赤い旗が立ち始め不思議に思っていたが、数日後に飛行場をつくるとのうわさが急に広がった。どうして小禄飛行場があるのに読谷にまで造らねばならないのか、地主間でささやいていたら間もなく測量が始められた。そうして畑は奪われ、家は立退きさせられた。引越し補償金は取ったが、土地がなくなり路頭に迷った。やむなく山間地に家を建てることにしたが、材木や石垣など馬車人夫を使い移転したため建築資金は運賃についやし、牛まで売ってやっとつくった。年配の人には精神錯乱をきたす人も出た。あの悪夢は絶対に忘れられない。飛行場建設に際しての用地の接収方法は地主の意思を無視した強制的なものであった。これ以上、国策の犠牲に甘んずることはできない。我々が生きている内に、先祖が残した土地を取り返さなくては罰が当る(『琉球新報』昭和五十一年十月二十七日、「三三年目の証言」より要約)。
のケース 当山※※(字伊良皆)
 私は昭和十三年五月十六日に南洋テニアン島に移民し、戦後の二十一年八月に沖縄に引き揚げてきました。その間、沖縄との音信の交換がなく、沖縄に帰って初めて読谷村に飛行場が造られており、私の土地も飛行場に接収されていることを知りました。そういうことであるので、私は自分の土地を国に売ったということは絶対になく、土地の売買代金は一銭たりとも貰っていません。もし、国が買収したというのであれば、次の諸点について証拠書類をもって納得のいく回答を戴きたいと思います。なお、私の土地は字伊良皆呉屋原の畑千三百五十五uと畑九百二十五uの二筆でありました。一、買収契約の相手側の住所・氏名と年月日。二、土地代金の受取人の住所・氏名、支払い金額とその年月日(昭和五十四年五月十八日、沖縄総合事務局長への質問書より要約)。
神直道航空参謀の証言
 「その頃は軍事優先の情勢であり且飛行場設定は緊急を要したので多数の地主の意志を聴取する暇もなく且坪当り土地単価を決定することもしなかった。土地単価は後日決定することとし取り敢えず、地上耕作物の補償、民家立退料を支払うこととし、飛行場の緊急整備に着手した。(中略)参考事項(中略)本飛行場が将来、陸軍として不要となった時は読谷村地主に優先的に返還する旨を口頭で約束している」(前掲 神直道氏回答文書より)。
 なお、飛行場用地の強制接収についての以上のような経緯から、関係地主は昭和四十八年六月十二日に字座喜味で読谷飛行場用地所有権獲得期成会を結成、そして昭和五十一年二月十四日には全地主(六六四名)を網羅して読谷飛行場用地所有権回復地主会を結成し、読谷飛行場についての戦争の後始末、戦後処理を求めて政府に対して要請活動を続けている。

3 飛行場建設工事への県民の協力

 ところで、飛行場の建設工事はどのように進められていったのだろうか。次に、飛行場建設の工事の進捗について見てみよう。防衛庁防衛研修所戦史室著『沖縄方面陸軍作戦』(以下『陸軍作戦』と記す)には次のような記述がある。
 「多大な住民協力 航空基地設定に充当された飛行場大(中)隊は元来飛行部隊に対する補給、給養及び飛行場整備などに任ずる部隊であって、基地設定用の器材は装備されていない。従って、円匙(えんぴ・スコップ)、十字鍬、もっこ、馬車などの原始的器具を利用するほかなく、多数の一般住民の労力に依存しなければならなかった。一般住民は食糧増産を要する苦しい状況下に献身的に協力した。各飛行場とも平均三〇〇〇名の民間人夫を雇傭することを目途にして計画推進された。人夫及び荷馬車の雇傭は各町村に割り当て一〇日〜一カ月交代制で行なわれ、緊急設定のため作業時間は一日一一時間にも及んだ。雇傭賃金は支払われたが問題は食糧にあった。自宅からの通勤者はまだよいが、遠くからの泊り込み作業員の食糧取得は特に困難であった。このため、軍は六月五日から食糧諸品の補給を開始した。主食(米)は一日四〇〇グラム(通勤者は一三五グラム)が支給された。雇傭人夫のほか、婦人会や学生など多数の勤労奉仕もなされた(四〇、四一頁)」。
と記されている。
 次に、飛行場の建設工事のために住民が動員され、どのように作業が進められたかを体験者の証言等で具体的に見ることにする。
国場※※氏(北飛行場設営工事責任者)の証言
 北(読谷山)飛行場の建設工事は、陸軍航空本部から国場組が請負って進められたが、現場における当時の設営工事管理責任者は『読谷村誌』の中で次のように語っている。
 「読谷飛行場の工事予算は二千三百万円という。予算規模だけからいっても、沖縄では歴史上かってないケタ外れの大工事だった。面積も東洋一といわれ、七十三万坪で、二千米の滑走路が東西と南北に二線が敷設され、飛行場の周辺には戦闘機の誘導路が張りめぐらされ、(中略)工事建設に動員された人員は、一日七千人、文字通り人海戦術そのものの大工事だった。一日の荷馬車の動員台数が二千台を越え、特に読谷飛行場一帯は石灰岩が多かったので、石工だけでも一日七百人が動員されていた。北飛行場の工事に地元読谷村からかり出された労務者は、五千人から六千人ぐらいで、荷馬車は百二十台前後だったと記憶している。(中略)読谷村では軍労務の調達は各字へ割当てていた。読谷村では、村あげて献身的に協力していたが、我が家の仕事を投げうってかけ参じてもらったものだ。読谷飛行場に参加した建設労務者の日給は、技術者が一円三十銭、一般が七十銭から八十銭、動員学徒が三五銭だったが(中略)一番の悩みは食糧を手に入れることだった。米を一人に一食当り、二合づつの四合と、一食は芋というのが主食の支給状況だったが、(中略)十々空襲前後は一人当り、四合の支給量も三合にへらさざるをえなくなった。野菜や芋はトラック四台を使って、北は国頭村から南は摩文仁まで、全島かけずりまわって、やっと間に合わすありさまだった(二二〇〜二二二頁)」。
砂辺※※(大木 明治三十八年生)の証言
 ―工事の手法―
 飛行場建設工事は五工区に分けられ施工されていた。
 一工区は、コーラル集積場で、上地の前の池を埋め立てることと掩体壕造りであった。二工区は滑走路北辺にあたり、整地して滑走路と掩体壕造り、三工区は滑走路の中間部周辺で、大宜味村出身の宮城工区長が整地および滑走路造り、四工区は飛行場用地南東端にあたり、与那原出身の運天工区長の下、整地と滑走路および誘導路造り、五工区は用地南西端を田場工区長の監督の下に滑走路および誘導路造りが進められていた。一工区の上地の前の池埋め立ては難渋していた。馬車を入れると車輪がめり込んだ(採録者 渡久山朝章)。
飛行場建設の工区図
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 自らも畑地約二〇〇〇uを接収されて、飛行場の建設工事に際しては作業班長として日当二円をもらっていたという松田※※は、その著書『我が想い出の記』の中で次のように記している。
 「読谷飛行場建設の軍の責任者は、天野少尉で、軍刀をつるし馬に乗って工事現場を巡視し、指示命令しており、工事請負者は国場幸太郎、現場責任者国場幸吉、現場係り屋我小樽・新地・當本・伊敷さん方十四、五名で、其の下に私たち作業班長がおり、人夫は、徴用で動員され、国頭・中頭・島尻と沖縄全島にまたがり、中学生も動員されており、最盛期には七〇〇〇人もの男女が動員されておりました。石工がおよそ七〇〇人、荷馬車七〇〇台、その内村内からは三〇〇〇人ほどの男女と一二〇台の荷馬車が動員されていました。工事は石工がダイナマイトで巌を割り、人夫はショベル・ツルハシ・ザル・モッコを使ってそれを運ぶというやり方で、水は、五〇〇メートル程離れた座喜味の川や一キロ以上も離れた伊良皆の佐敷川から荷馬車で運んで使用していました(二〇、二一頁)」。
比嘉※※、松田※※(姉妹、楚辺)
 「私たち二人は、トロッコで土運搬作業をしていた。一台いくらというふうに勘定し、一台運ぶ度に札を受け取っていた。受け取り月額四二円で、『二円はへそくりにしようね』と、二人でいつも相談するんだが、いざ母親に手渡すとなるといつも全額渡してしまった(『楚辺誌戦争編』三六六頁)」。

村外からの徴用人夫

比嘉※※(宜野湾市、当時十六歳)
 「私は昭和十八年、当時の国民学校を卒業して、その後すぐ徴用で読谷山(北)飛行場や嘉手納(中)飛行場、そして仲西飛行場の建設のため動員された。読谷山と屋良では十日間泊り込みで、掘った土をトロッコで運び、窪地を埋めるという人海戦術だった(『宜野湾市史 第三巻資料編二』四二頁)」。
宮平※※(宜野湾市、当時四十五歳)
 「最初の徴用は、読谷山飛行場の滑走路建設であった。その時、読谷山飛行場は工区別に施工されていたが、私たちのほうは第五工区で国場組が請け負っていた。私の職種は石工で、大きな石をくだいてバラスにし、それを滑走路の土台石として敷きつめるのである。宿舎は古堅国民学校に設けられていて、朝は七時に朝礼、その後、現場まで歩いていって五時頃まで仕事をした。徴用なので給料はなかった。
 その現場で怖かったのは、工事の総責任者である天野少尉だった。彼はいつも日本刀を腰にさげ、馬に乗って現場を巡視していたが、『なまけたら切ってやるぞ、一人や二人は切っても仕事には影響しない』と、すぐにでも切りつけるような意気込みでいうので、彼がくる時間になると、みんなびくびくしていた。(中略)読谷山飛行場で一カ月あまり働いていると、新しく徴用された人たちが来た。私たちは、その人たちが来ると嘉手納飛行場の建設現場にまわされた。ここでは、グリ石をトロッコで運んだり、あるいはその石を敷きつめたりする一般労務の仕事をさせられた。(中略)やはりそこでも金は一銭もはいってこないので、下宿代だけがたまっていった(前掲『宜野湾市史』一一一頁)」。
荷馬車隊の動員
 沖縄の歴史上かつてないほどの大工事と言われながら、その使用する機具がショベルやツルハシしかない中で、荷馬車の効用は顕著であった。次に荷馬車の使用状況等を具体的に見てみよう。
砂辺※※(大木 明治三十八年生)の証言―荷馬車組合―
 「私は読谷山の馬車組合長であったが、一九四四年(昭和十九年)六月、沖縄県輸送組合読谷山出張所長を命ぜられ、以後、配下の組合員たちと共に馬車もろとも徴用された。
 当時、荷馬車は村内で約六〇〇台あり、他村からのものを含めると約七〇〇台にも上った。
 飛行場建設に当たり、北谷以南の村の荷馬車は中飛行場(嘉手納の滑走路)に振り向けられ、私たち北飛行場建設に当たったのは村内の荷馬車の他に、大宜味、金武、石川からもやって来た。
 仕事は飛行場建設のための土運び、芝生運搬、バラス運搬が主なものであった。
 都屋からの芝生運搬は労務者が切った物を運ぶのである。一枚あたりの運搬賃は二銭であったが、一日三〇〇枚も運んだ者がいた。(中略)
 その他、喜名からは海軍部隊のガソリン運搬もあったし、伊良皆には屋我※※監督が率いる建築班があって、そこの資材運びもあった。(中略)
 水運搬は専任がおり、四角の木製水タンクを積んで飲料水を運んでいたが、大勢の徴用工たちの需要を満たすには焼け石に水であった。」(採録者 渡久山朝章)
比嘉※※(座喜味)の証言
沖縄県労務報国会嘉手納支部「会員手帳」(比嘉※※)
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 飛行場の工事は、小高い土山を掘り起こし、窪地に土を運んで埋める作業から始まった。表土が削られた後の土地の掘り起こしは難儀な仕事だった。私はそういう時期から飛行場の作業に出るようになった。初めは友人と二人で一台の馬車を使って土運びの作業をしたが、間もなく父親と組んでの共同作業になった。私たちの作業は強制力を伴う動員、いわゆる徴用ではなかった。仕事の内容と作業量によって日当が決まる仕組みだった。工区内における土運搬の料金は、距離も勘案されたが馬車一台分で三十銭ぐらいだったと思う。
 滑走路工事が始まると、石を砕いて造ったバラスの運搬作業がでてきた。石山は座喜味集落寄り南東側と字大木の北側にあった。そこでダイナマイト(ハッパと言った)で岩を裂き、石工や女性人夫たちが石を砕いて一寸、五寸のバラスを造っていた。荷馬車隊がそれを滑走路の工事現場に運んでいった。私たちはおもに大木の石山から第五工区の現場に運んだ。九円前後の日当になったのではないかと思う。
 その間に、父※※は昭和十九年一月ごろ屋号※※の※※さんの後を継いで、字座喜味の荷馬車組合長(三代目)になった。家庭的には、これから親子が協力していけばうまくいくと考えていた矢先だった。父が同年八月二十五日に佐世保海兵団に入団した。そして、明けて二十年一月五日に戦死公報が届いた。そこで、父が大事にしていた関係書類は、そのまま非常袋や証文箱に入れて大切に保管した。その中に「馬車日計表」や所有権証明書等が入っていたのである。
北飛行場建設工事の荷馬車人夫の日当
屋我班の第一号〜第四号の「馬車日計表」
これにより当時の賃金等が明らかになった
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 「馬車日計表」には昭和十九年「四月上旬ノ屋我(班)」として八枚、そして「屋我班昭和十九年四月下旬分」七枚、「越来馬車 第 建築工区昭和十九年四月下旬分」として一〇枚のメモがある。
 その中に「台数」欄と「単価」欄にそれぞれ数字が記載されている。そして、「備考」欄には馬車一台が運搬した材料名が記載されている。「単価」とは粟石や土運搬の一回あたりの手当てのことであり、「台数」の数字はその日の運搬回数を示している。従って、日々の日当はその日の「台数」と「単価」の数を掛け合わせた金額というわけである。「備考」欄に書かれた主な材料の「単価」を見てみよう。
 常庸七円
 雇用形態としては常庸とし、一日あたりの手当ては七円で計算されたということである。なお、その上残業した場合の運搬回数については「一回増ニ一分増」の手当てが支給された。
 粟石
 工区内 六〇銭 オキヒ(大きい石か)一円
 土
 工区内 三五銭
 別の班ではその運搬距離の関係か三〇銭もある。
 砂利  一円二〇銭
 砂   二円
 水運び
 常庸の人が専任で手当て七円の上に、残業手当を合わせて日当一二円六〇銭をもらった人もいる。
 嘉手納駅ヨリ杉板等運搬 三円
等々となっており、日当としては常庸が七円均一で、働きによって七円から十二円ぐらいになっている。その中で、新垣※※は最高一三円二〇銭を稼いだ日(四月三十日)もある。

4 軍の飛行場設定への取り組み

 沖縄守備軍が配備されて後、第三十二軍は沖縄方面に一三個の飛行場を設定していたが、その工事の進捗を防衛庁資料をもとに見ておこう。
北飛行場工事の進捗状況
 新たに戦闘序列を発令する第三十二軍組成のための現地視察班は、三月十五日、輸送機で所沢を出発し那覇に着陸、沖縄、伊江の飛行場を視察した。それによると、那覇は海軍の飛行場に目下千数百人の人夫を入れて拡張中である。北飛行場は陸軍航空本部経理部管理のもとに、地方の土木会社が請け負って工事中であり、滑走地区ができかけている。中飛行場、東飛行場はまだ全くの畑である。宮古島では海軍飛行場が既にできていた(『航空作戦』二九頁から要約)。
 陸軍は、従来一個の飛行場も設定しておらず海軍のものを利用していたが、南方作戦の進展に伴い航空部隊の機動用飛行場を考慮して、十八年夏ころから陸軍航空本部が徳之島、伊江島、沖縄北飛行場の設定に着手したものである。これら飛行場は、十九年四月現在完成しているものは一個もなかった(『陸軍作戦』三八頁から要約)。
 沖縄方面は昭和十八年以来、航空本部が主として、航空路飛行場として沖縄(北)ほか三個の飛行場を設定中であったが、伊江島(中)、沖縄(北)飛行場は航空本部から軍が作業を引き継いだ。作業担任部隊として第十九航空地区司令部、第五十飛行場大隊、第三飛行場中隊、要塞勤務第六中隊を充てた。但し沖縄(北)飛行場は、既に半分以上進捗していたので、依然、従来どおりの部署で作業させた(『航空作戦』三八頁から要約)。
『航空作戦』39頁より
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北飛行場の設定責任者は青柳中佐へ
 第十九航空地区司令部とその他の飛行場関係部隊が沖縄に到着した後も、なお北飛行場の工事責任者は天野少尉であったが、四月末から航空地区司令部が担当するようになった。これにより責任者は天野少尉から青柳中佐へ代わり、同中佐が南西諸島全域の各飛行場の設定作業を全般的に指揮することになった。
球九作命甲第三号 第十九地区航空地区司令部命令 四月二十五日
 一第十九航空地区司令官指揮下部隊ハ球作命甲第四号別冊「航空基地設定計画」中ノ(以下略)別紙第一ニ基キ爾今北(読谷山)飛行場ノ設定ハ予ノ指揮下ニ実施ス
 そして、北飛行場設定のために徴用人夫を六月に四〇〇〇人、七月に三〇〇〇人動員を予定し、そのための糧秣(食糧)確保の命令を次のように出している。
(第十九航空地区司令部命令より)
 十九航地作命乙第一号 第十九航空地区司令部命令 五月三十一日(摘録)
一、航空地区司令部ハ球作命丁第十号ニ基キ飛行場設定労務者ノ糧秣諸品ノ補給ヲ実施セントス
二、各部隊ハ別紙第一及第二ニ基キ飛行場設定労務者ノ糧秣ヲ受領スベシ
十九航地作命乙第一号別紙第一
 飛行場設定労務者用糧秣補給要項
一、補給開始日時  六月五日
二、補給基準日量

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三、(省略)
四、各部隊ノ実施スル輸送並ニ交付要領
 各飛行場ノ部隊毎ニ受領シ該部隊ヨリ労務者ニ直接交付(給養)スルモノトス
 交付(給養)実施ハ状況ニ適スル如ク各飛行場部隊毎ニ実施シ特ニ公平ヲ期スルモノトス
十九航地作命乙第一号別紙第二
補給基準労務者数

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 この表により、北飛行場では十九年六月に四〇〇〇人、七月に二〇〇〇人の動員を予定していたことがわかる。
飛行場の建設促進
 第三十二軍は六月下旬、沖縄方面各地に一三個の飛行場を設定中であったが、大本営はサイパン失陥後の情勢の変化を考慮し、作業の遅れている六飛行場の沖縄南(浦添)、沖縄東(西原)、伊江島西、宮古東、宮古西、徳之島南の各飛行場の工事を中止した。そして残る徳之島第一、伊江島東、沖縄北(読谷山)、沖縄中(嘉手納)、宮古中、石垣の各飛行場に作業力を集中して、応急の使用に支障のない程度にまで急造するよう指導した(『航空作戦』七八頁から要約)。
十九航地作命甲第二三号 第十九航空地区司令部命令 六月二十九日
一、緊迫セル戦局ニ鑑ミ軍ハ現行飛行場ノ設定方針ヲ変更セラル
二、(省略)
三、第三飛行場中隊長ハ東、南両飛行場ノ作業ヲ一時中止シ中隊ノ全力ヲ以テ北飛行場ニ展開シ該地勤務隊長ノ任務ヲ継承スルト共ニ該飛行場ノ誘導路、掩体、燃弾、防護施設ヲ促進スベシ 是等ノ施設作業ニ関シテハ北飛行場設定担任天野少尉ヲ指揮スベシ(中略)東及南飛行場設定用資材ハ別紙資材受授表ニ基キ中、北、伊江島飛行場ニ七月二日迄ニ移譲ヲ完了スベシ

5 北飛行場使用の状況

第二十五飛行団司令部の進出
 第二十五飛行団は六月上旬、第八飛行師団の隷下に転入され沖縄北飛行場に展開する事になった。飛行団の各戦隊は二十七日ころから南西諸島に前進を開始し、ほぼ七月一日ころ展開を完了して新任務についた。北飛行場には飛行団司令部とその指揮下の飛行第二十戦隊及び飛行第三戦隊が位置することになり、北飛行場は沖縄における陸軍航空部隊の中心地(海軍は小禄飛行場)となった。その任務は、鹿児島以南と石垣、基隆以北の船団護衛、東方海上哨戒、局地防空にあたった。当時の配備情況とその保有機数は次のとおりであった(『航空作戦』八九〜九三頁参照)。
 第二十五飛行団司令部  北飛行場
 飛行第二十戦隊  主力北飛行場
          三三機(一部那覇飛行場)
 飛行第三戦隊   主力北飛行場
          三二機(うち一二機宮古飛行場)
 飛行第六十七戦隊 主力知覧飛行場
          二九機(一部徳之島飛行場)
 第二十五飛行団の沖縄への進出に当っては、六月二十九日の十九航地作命甲第二三号の二において、「第十九航空地区司令部ハ軍命令ニ基キ兵力及資材ヲ転用シテ一部ノ既設飛行場並ニ附属設備ヲ急設スルト共ニ依然第二十五飛行団ニ協力セントス」とある。
 また、七月二十二日の十九航地作命甲第三九号の二において、「第八野戦航空修理廠第三独立整備隊ノ那覇到着ト共ニ予ノ指揮下ニ入ラシメラル依ツテ速カニ北飛行場ニ展開シ第二十五飛行団ニ密ニ協力スベシ」と命じ、その受入と協力について万全な体制を以って迎えていることがうかがえる。
 ところが、第二十五飛行団は比島作戦の推進のため九月二十五日、台湾に移動したが、飛行第二十三中隊(保有機一六機、実働一二機)は飛行団の台湾転進後も北飛行場にとどまった。
「防衛庁資料」より
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北飛行場へ部隊を輸送
 昭和十九年の半ばになると、沖縄の周辺海域における米潜水艦の活動が活発になり、沖縄配備の独立混成第四四、四五旅団を乗せた富山丸が六月二十九日、敵潜水艦に撃沈されて多大な被害が生じた。そのため、第三十二軍の戦闘序列に編入された第九師団、独立混成第一五連隊は、六月二六日に空輸されることになった。七月六日から十一日にわたり、第九師団司令部約一〇〇名、第一五連隊約一五〇〇名の主力は北飛行場に、一部は伊江島中飛行場にそれぞれ輸送されたのである(『航空作戦』七七頁から要約)。その後、部隊や兵器の空輸は主に北飛行場が使われるようになった。
「十・十空襲」と台湾沖航空戦
 昭和十九年十月十日の大空襲の日に北飛行場にあった出動可能機は、海軍の銀河九機と独立飛行第二十三中隊の一〇機であったと言われている。全く不意をつかれた空襲であったため、まず第一波攻撃で銀河が被弾炎上し、陸軍機も攻撃第二波の直前に迎撃のため飛び立ったが、多勢に無勢、伊江島に逃れた一機を除いてことごとく撃破されてしまった。そのため、第二波以降は敵機の思うがまま空襲にさらされた結果、住民はそれを知って失望落胆させられたものだった。しかし、その二日後から始まる台湾沖航空戦のため日本軍機が大挙飛来した。十日の空襲で衝撃を受けていた住民は多数の友軍機を見て歓呼の声をあげて歓喜した。飛来した飛行機の数については、次の戦闘詳報に記述されている。
大刀洗陸軍航空廠那覇分廠(字伊良皆在)
 読谷山飛行場戦闘詳報(第二号十月十二日から十六日の間)
 「十月十四日 皇国ノ運命ヲ決スベキ一大航空決戦ハ本明日ニ亘リ台湾附近ニ於テ企図セラル(中略)分廠長以下此意義アル航空決戦ノ一翼加担ノ光栄ニ感激シ主力ヲ以テ整備並地上勤務ニ協力ス 即〇九〇〇ヨリ約三時間ニ亘ル間ニ海軍機約一六〇機更ニ一二五〇飛行第九八戦隊(十五機)到着セルヲ以テ一二〇〇ヨリ整備班主力(三〇名)ヲ挙ゲ飛行場ニ出動専ラ飛行場整理作業(中略)飛行部隊ハ一四三〇ヨリ逐次離陸攻撃ニ向ヘリ 全員衷心ヨリ攻撃大成功ヲ祈ル」
十二月の北飛行場通過の飛行部隊
 大本営は十月十八日、「国軍決戦実施ノ要域ハ比島方面トス」という捷一号作戦を発動し、比島方面において陸・海・空の総力をあげて決戦を挑むことにしたのである。これにより、沖縄の第九師団を抽出して台湾へ移動させたように、陸軍および航空の部隊が南方へ向けて移動することになった。特に、航空部隊は沖縄を経由して作戦に当たったが、北飛行場に着陸、通過した航空部隊については、第五十六飛行場大隊(第九一七三部隊)の陣中日誌に記録がある。今のところ十二月の一か月分だけしか手元にないが、これを基に北飛行場を離発着した日々の航空機の数と航空燃料の補給量を主に一覧表を作成し、次に掲載する。
月間(昭和19年12月)北飛行場利用状況

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月間(昭和19年12月)事故機の処理(北飛行場)

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