第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦
読谷山村への日本軍部隊配備
玉城裕美子


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 本稿は、「防衛庁資料」(注1)等により読谷山村への旧日本軍部隊配備(注2)を記述し、関連資料を紹介することを目的とする。

1 読谷山(北)飛行場建設へ

 一九四一年(昭和十六)十二月八日、太平洋戦争が勃発、日本は対アメリカ・イギリスと開戦した。当初日本軍は、航空戦力によって真珠湾攻撃(空母群を除く米太平洋艦隊壊滅)やマレー沖海戦(イギリス戦艦二隻撃沈)で大きな戦果をあげた。大城将保は「太平洋戦争は世界の戦略思想の流れを大艦巨砲主義から航空主力主義へ転換させた。日本の航空部隊は(中略)みずから現代戦における航空戦力の重要性を実証しながら、四二年六月のミッドウェー海戦では一転して戦艦中心の連合艦隊が米軍の航空母艦中心の攻撃のまえに惨敗を喫した」(注3)と記す。対米英開戦から約半年後の一九四二年(昭和十七)六月、ミッドウェー海戦において、日本軍は惨敗し多くの航空母艦(主力四隻)、航空機を失った。米・英連合軍の反攻により戦況は次第に悪化していった。
 一九四三年(昭和十八)二月、日本軍はガダルカナル島から撤退、五月にはアッツ島の守備軍が壊滅した。大本営(天皇直属の戦争の最高指導機関)では、航空戦力の早急なる再建と強化を痛感し、航空兵力を中心に戦線を立て直すため、国家総動員態勢で飛行機の増産を急いだ。しかし、物資不足と労力不足のなかで航空母艦を生産するのは厳しい状況であった。ここに浮上してきたのが、島嶼群に飛行場を設定して、地上基地から航空作戦を展開するという「不沈空母」構想であった。
 大本営直轄の陸軍航空本部は、一九四三年(昭和十八)夏から南西諸島に多数の飛行場を設定する計画を立て実施にうつした。同年九月には、戦局の劣勢を挽回するため「絶対国防圏」を設定し、南方戦線に展開する航空部隊を支援するため、南西諸島に中継基地(飛行場)を次々と建設していった。旧日本軍は、沖縄県内だけで、最終的に一五か所(注4)の飛行場を建設した。
 第三十二軍航空参謀であった神直道氏によると、「昭和十八年頃より日本本土防空及南方航空路強化の必要上、読谷村に飛行場を設定することを決定し、頭初、航空本部之を調査した。当時の調査官は陸軍大尉木村正雄、陸軍中尉天野]彦(共に建技将校)で」あった。同年七月より飛行場用地の接収が始まったが、接収に関して神氏は「その頃は軍事優先の情勢であり且飛行場設定は緊急を要したので多数の地主の意思を聴取する暇もなく且坪当り土地単価を決定することもしなかった」と軍が飛行場用地接収、建設を強行したことを記す(「沖縄読谷飛行場土地買収等に就て(照会)回答 昭和四十二年十一月四日付 厚生省援護局調査課長宛」文書より)。
 一九四三年(昭和十八)夏、全国の飛行場建設を総括する大本営直轄の陸軍航空本部より、北飛行場建設の現場監督として技術将校(天野少尉)や徴用係が派遣され、地元の土建会社国場組の請負いで、読谷山(北)飛行場(以下北飛行場と記述)滑走路部分の工事が開始された。工事予算は二三〇〇万円、総面積七三万坪、二〇〇〇メートルの滑走路が東西と南北に二線敷設され、飛行場の周辺には戦闘機の誘導路が張りめぐらされる計画であった。『國場組社史』によると国場組は、この工事を軍から請け負うにあたって、三つの供与を条件として出した。トラック一〇台(実際には六台支給)トロッコ用軌道(製糖会社が使用していたものをはずして供出)食料・燃料の確保、であった。またほとんどを人力に頼ったという飛行場建設作業について「国場組従業員のほか被徴用者、動員学徒、女子挺身隊その他合わせて繁忙時は一日七〇〇〇人は超えていた。これらの関係者に食事を準備する係だけでも五〇〇人を数えた」と記す。
 一方、飛行場に土地を接収された座喜味在住の波平※※(大正二年生)は当時を振り返り「座喜味はね、伊良皆・波平の一部もだが、土地を取られただけでなく、全琉から各家庭に馬車徴用や飛行場建設人夫が入り込んでくるし、昼から夜中まで。それだけの人数だから、ガンガン、ゴンゴン。その後には兵隊が入ってきた」と語る。一九四三年(昭和十八)夏から、読谷山村では、畑など生活の場を飛行場用地として接収され、さらに飛行場造りに徴用されたばかりでなく、県下各地からの徴用人夫が多くの民家に宿泊するという事態になった。
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