第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦
読谷山村への日本軍部隊配備


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3 部隊配備の変遷

 ここでは、部隊配備の変遷を旧日本軍の作戦変更と読谷山村への配備状況を考慮して、六期にわけて記述する。図2は、読谷山村への部隊配備の変遷図である。この概略は、T期にあたる一九四三年(昭和十八)夏より飛行場建設が開始され、一九四四年(昭和十九)六月からのU期では飛行場関係部隊、高射砲部隊及び球部隊が配備され、一九四四年八月上旬からのV期では球部隊に替わって山部隊(二十四師団)が配備され、一九四四年十二月上旬にあたるW期では再び球部隊が配備されている。X期になると歩兵旅団や師団のまとまった村への駐屯はなくなり、米軍上陸を迎えるY期にはほとんど飛行場関係部隊のみが村内にとどまっていた状況がわかる。
図2

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T期(一九四三年夏から一九四四年五月)
 この時期には、各種部隊はまだ読谷山村には配備されていない。
 一九四三年夏、大本営直轄の陸軍航空本部より、北飛行場建設の現場監督として技術将校や徴用係が読谷山村へ派遣され、沖縄県の土建会社国場組の請負いで、滑走路部分の工事が開始された。一九四四年四月二十五日、第三十二軍司令部は、北飛行場の建設を第十九航空地区司令官青柳中佐の指揮下に置き、従来の航空本部管轄の国場組請負工事と区域を分担し、軍民の二本立てで飛行場建設が進められた。
U期(一九四四年六月から八月上旬)
図3
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 この時期より、飛行場関係・高射砲・歩兵部隊などの実戦部隊が配備された。
 一九四四年(昭和十九)六月、北飛行場に航空飛行部隊(第二十五飛行団)と飛行場守備の任務を担う独立高射砲第二十七大隊第三中隊が、座喜味に配備された。六月末、第三十二軍に編入された独立混成第四十四旅団(球一八八〇〇部隊)、独立混成第四十五旅団(先島へ)の兵員を乗せた富山丸が沖縄本島へ向かう途中、徳之島沖で米潜水艦に撃沈され、主力(約四六〇〇人中約三六〇〇人)が行方不明になった。南西諸島の防備計画は再検討され、昭和十九年七月初旬、独立混成第四十四旅団指揮下の独立混成第十五連隊および第九師団(武部隊)が沖縄本島に到着した。沖縄本島南部には精鋭といわれた武部隊(第九師団)が配備され、第四十四旅団は中頭以北の守備を担い、旅団本部は嘉手納の県立農林学校に置かれた。七月六日より、独立混成第四十四旅団配下の独立混成第十五連隊(球部隊)が読谷山村内の国民学校や各字に配備された(図3参照)。
 飛行場関係部隊では、七月に第二十六対空無線隊(誠部隊)、第十九航空地区司令部指揮下の第五十六飛行場大隊(球九一七三部隊)が配備された。
V期(一九四四年八月上旬から十二月上旬)
図4
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 この時期には本格的な部隊配備が進められ、読谷山村に駐屯する兵士の数がもっとも多くなっていた。
 一九四四年(昭和十九)七月七日、南洋サイパン島における日米両軍の戦闘で日本軍は壊滅し、確実に米軍の矛先が日本本土に向かうような戦局を迎えていた。沖縄本島を含む南西諸島は、日本本土防衛の防波堤としてますます重要になり、第三十二軍は増強された。八月上旬、第三十二軍に編入された第二十四師団(山部隊)の沖縄本島到着により、本格的な戦闘部隊である第二十四師団(山部隊)が読谷山村に配備されることになった。それに伴い、それまで中頭地区防衛の任にあった球部隊(独立混成第四十四旅団)は北部へ移動した(図4参照)。八月五日の「独混四四作命第八号」では、「旅団ハ第二十四師団ノ到着ニ伴ヒ中頭地区ノ守備ヲ交代シ一部ヲ以テ伊江島主力ヲ以テ本部半島ヲ確保スルト共ニ国頭郡内ニ策動シ本島南部ノ主作戦ヲ容易ナラシムル如ク作戦ヲ準備セントス」(「沖縄戦資料48」より)と記されている。
 さらに北飛行場を中心とした基地防空のため、昭和十九年六月より座喜味に駐屯していた独立高射砲第二十七大隊第三中隊に加えて、八月には野戦高射砲第七十九大隊、野戦高射砲第八十一大隊、機関砲第一〇五大隊、海軍中村防空隊の諸部隊が北飛行場を取り囲むように座喜味、喜名、伊良皆、楚辺へと配備された。九月からは、飛行場関係部隊である風部隊(中央航空路部、大刀洗航空廠那覇分廠)が配備された。
 九月十九日から二十九日までの十日間は、第三十二軍司令官の命により、航空作戦準備のため北飛行場の完成に向けて第二十四師団の主力が投入された。防衛築城隊なども臨時に北飛行場に配置され、この時期の中でも九月がもっとも村駐屯部隊数及び兵隊の数が多くなり、飛行場には軍民がひしめき合っていた(注6)。
W期(一九四四年十二月上旬から一九四五年一月)
図5
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 この時期、第九師団(武部隊)の台湾転出により配備が大きく変更された。北・中飛行場は、主陣地外に置かれその防衛は弱体化したが、航空地区及び高射砲の二つの司令部が読谷山村に置かれていた。
 第九師団(武部隊)は一九四四年(昭和十九)十二月中旬より台湾に移動になり、その穴埋めとして第二十四師団(山部隊)が南部方面へ転出することになった。これにともない、昭和十九年七月〜八月にかけて、読谷山村に駐屯していた独立混成第十五連隊(球部隊)が、十二月になって再び読谷山村へ戻ってきた(図5参照)。これは部隊の規模が小さくなったことを意味する。しかし、この球部隊も一九四五年(昭和二十)一月下旬、本島南部の知念方面へ配備変更となった。
 また十二月初旬、武部隊や山部隊に配属されていた高射砲部隊の全てを、第三十二軍高射砲隊として第二十一高射砲司令部が統一指揮することになり、その司令部は大湾の字事務所に置かれ、第十九航空地区隊司令部も大湾に置かれていた。
X期(一九四五年二月から三月末)
 この時期、北・中飛行場はほとんど放棄された形になった。またこの時期で特徴的なことは、相当数の防衛召集が実施されたことである。第五〇三特設警備工兵隊(球一八八一七)の各中隊や、第五〇四特設警備工兵隊(球一八八一八)の各中隊(中飛行場駐屯)、第五十六飛行場大隊(球九一七三部隊)、高射砲部隊等へ多くの村民が召集された。読谷村が実施した戦災実態調査では、防衛召集を受けた村民は五二七人で、そのうち二八〇人が沖縄本島中南部で戦死している。「防衛召集概況一覧表」(防衛研修所戦史室)では、十九年十月下旬から、合わせて合計九〇〇人の読谷山村民が召集を受けたと記録されている。
 この時期は、飛行場関係部隊と高射砲関係部隊、海軍関係部隊が駐屯しており、歩兵部隊としては、第六十二師団(石部隊)配下の賀谷支隊(独立歩兵第十二大隊)第二中隊(機関銃一小隊属)派遣の二つの小隊が読谷山村へ配備された(図6参照)。三月下旬になると、すべての高射砲関係部隊は沖縄本島南部に移動して行き、海軍部隊も同時期に移動したと思われる。
Y期(一九四五年三月末以降)
図6
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 この時期、読谷山村内には飛行場関係部隊と賀谷支隊の二つの小隊のみが配備されていた。
 一九四五年(昭和二十)三月二十三日、特設第一聯隊という飛行場関係部隊および防衛隊員を寄せ集めた地上戦闘能力の低い聯隊が編成された。第十九航空地区司令部の青柳時香中佐を聯隊長とし、第一大隊は第五十六飛行場大隊と第五〇三特設警備工兵隊(約八〇〇人)で編成された。「一部をもって座喜味(北飛行場北側)付近、主力をもって二二〇高地(北飛行場北東四粁讀谷山)の既設陣地に拠って努めて長く北飛行場を制扼する」(注7)ことを命じられる。つまり、軍としてはこれらの部隊に米軍への大きな抵抗は望んでおらず、米軍の前進遅滞を期待した程度であった。
 三月三十日第三十二軍司令官は、北・中両飛行場の破壊を命じた。聯隊本部(第十九航空地区司令部・大湾)の主力は三月三十一日石嶺久得に移動した。青柳聯隊長は三月三十一日、各部隊に拠点の守備、夜間の斬り込みの実施、橋の破壊などを命じ「各人必勝の信念をもって各自の任務を遂行せよ」と訓示した。四月一日猛烈な爆撃下に米軍上陸を迎えたが、砲兵もなく、何ら打つ手がない有様であった。聯隊本部と各部隊の連絡も途絶し、各部隊ごとの孤立した状態に陥った。
 四月二日、喜名東の山にいた第五十六飛行場大隊(球九一七三部隊)と第五〇三特設警備工兵隊(球一八八一七)が壊滅し、四月三日には米軍戦闘機が北飛行場の使用を開始した。
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