第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦
読谷山村への日本軍部隊配備


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5 地図資料紹介

 読谷村は沖縄本島中部の西海岸側に位置し、海に突き出た半島状の地形になっている。東側は海抜一八三メートル(国土地理院発表)の読谷山岳(「二二〇高地」)を頂点に、国頭礫層からなる丘陵山地となっており、中央部の一二七メートルの座喜味城跡から、西海岸へ向かって石灰岩からなる台地が広がっている。石灰岩中にできた洞窟(ガマ)も村内各地に散在している。村内には比謝川、長田川、長浜川が流れており、地先は珊瑚礁(リーフ)に囲まれている。このような地理的条件にある読谷山村への旧日本軍の部隊配備が記された、「陣中日誌」や「戦闘詳報」にある地図、米軍作成地図を紹介する。
 地図―1は、一九四四年十二月十八日現在の「北地区隊兵力配置陣地編成要図」(球部隊作成)である。地図―2は、アメリカ軍作成の「沖縄島南部地域防衛図」(一九四五年一月二十二日現在)である。この二つは同時期(時期区分の第W期)に、日米両軍がそれぞれ作戦上の必要から作成した地図である。
 「沖縄方面陸軍作戦主要部隊記(符)号一覧表」と照合すると、海中に記された×印は鹿砦(ろくさい)(樹枝の障害物)と書かれている。村民が「渡具知から残波に至るまでのリーフに、アメリカ軍の進攻を妨害するということで松の木を立てた」と証言するもので、敵艦船の上陸を妨げるために海中に立てた松の木が、地図中の×印の地点である。渡具知出身の安次嶺※※は、渡具知地先の水中で、朝鮮人軍夫(特設水上勤務第一〇四中隊)が松の木を建てる作業を行っていたのをよく見たという。
 米軍の地図には詳細で正確な情報が記入されている。北飛行場の様子も滑走路から誘導路、待機場にいたるまで、詳細に記されている。地図に「ビーチ沿いの小銃掩体と機関銃陣地」と記されている海岸沿いに、上陸軍を迎え撃つトーチカのマーク()がある。
現在も都屋漁港内に残るアブトゥガマのトーチカ
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 日本軍が作成した地図を見ると、読谷の海岸沿いには敵の上陸を妨害する目的で、いくつかの陣地が配置されている。♂の符号は軽機関銃である。現在残っている海岸沿いのトーチカは、都屋漁港内アブトゥガマのトーチカと楚辺吉川原海岸のトーチカである。また日米両軍の地図に軽機関銃、トーチカの印のある国吉屋取(現むら咲きむら)地先、すなわち波平の中折原海岸を実地踏査したところ、砲台と銃眼跡と思われる遺構が確認できた。
 日本軍の地図には、海岸から内陸部に向けて戦車壕と記された箇所がある。戦車壕とは、上陸してきた敵戦車の進撃を妨害するために掘られた、V字型の長い壕である。
 日本軍は、この戦車壕に戦車のキャタピラがはまり込んで動けなくなることを想定していた。しかし米軍戦車にとっては何の妨害にもならず、後述する小学生まで駆り出された戦車壕掘りは徒労に終った。現在その戦車壕を確認することはできない。これは戦車壕が掘られた一帯に、米軍がボーロー飛行場等の基地を建設したからである。
 地図―3〜5は、昭和二十年以降の機関砲、高射砲部隊、通信網などの配備図である。地図からも、これらが北飛行場守備のための配備であることがよくわかる。なお地図中の部隊記号は、AAが高射砲部隊、HMAが高射機関砲部隊のことである。「1/79AA」とは野戦高射砲第七十九大隊第一中隊を意味する。
北飛行場を取りまくように作られた高射機関砲陣地(宮平良秀画)
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地図−1「北地区隊兵力配置陣地編成要図昭和十九年十二月十八日現迄」
『沖縄戦資料56』所収「独立混成第十五連隊第二大隊陣中日誌」より複写加工
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地図−2「沖縄島南部地域防衛図1945年1月22日現在」
読谷村発行『平和の炎Vol.8』所収「沖縄群島」告示第53-45号より
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地図−3「一月三・四日ニ於ケル機関砲第百五大隊態勢要図」
『沖縄戦資料85』「機関砲第105大隊対空戦闘詳報」より複写・加工
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地図−4「一月四日大湾高射部隊配置並通信網要図」
『沖縄戦資料84』「第32軍高射砲部隊対空戦闘詳報其の二」より複写・加工
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地図−5「三月一日大湾高射部隊配置並通信網要図」
『沖縄戦資料88』「戦闘詳報第21野戦高射砲司令部」より複写・加工
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