第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦
読谷山村への日本軍部隊配備


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6 証言と陣中日誌

元日本兵が見た読谷山村と沖縄戦

 一九四四年(昭和十九)七月十日の独立混成第十五連隊第二大隊本部の陣中日誌には「主陣地の構築を第一に着手し、偽陣地前進陣地海岸陣地の順に構築す。主陣地以外は成し得る限り土民を利用す」(沖縄戦資料102)とあり、主陣地には住民を近づけないようにしたことや、「土民を利用」との記述から日本軍の住民への視線が窺える。照屋※※(波平)は高志保与比原の日本軍陣地について「座喜味城跡から家へ帰る時、日本軍が陣地構築している辺りに馬車道があったが、そういう所を民間人が覗いたりしたら、すぐにスパイ容疑。この陣地は秘密でサッと作ったものでしたよ。一般住民に判らないようにと、衛兵が立っていて、陣地のある方を見ることさえできず、ただ前だけを見てこの道を通って帰っていました。チラッと見たことはあるが、じっと見ていたりしたら、すぐにビンタを張られたからね」と証言する。
 以下の元日本兵の体験記は、一九九二年より読谷村史編集室が実施してきた元日本兵への聞き取り調査、アンケート調査、往復書簡によるやりとりなどの中から、要約、抜粋したものである。台湾の第八飛行団の第二十五飛行団司令部とともに北飛行場に配備された飛行第三戦隊の元隊員の証言からは、初期の日本兵と住民の関係、そして米軍上陸後の住民に降りかかった米兵による婦女暴行という事実が見えてくる。続いて北飛行場で通信関係の任務についていた若い志願兵、野戦高射砲第七十九大隊に所属し防空の任務についていた元日本兵の沖縄戦体験を紹介する。
宇田川※※(東京都出身)大正十一年生
 昭和十八年十一月千葉県柏の教育隊に入隊、六か月の訓練を受けた後、樺太の大谷に駐屯中の飛行第三戦隊に移った。この部隊は九九式軽迫撃砲を持ち、船団援護が主な任務だった。訓練終了時の昭和十九年五月、樺太は飛行場の周り一面が花で一杯になり美しい景色が今でも目に映る。私たちは、北千島の占守(シュムシュ)島に移動のため北海道の小樽に集結し、輸送船で無事千島へ着いた。対岸はカムチャッカ半島である。非常に風の強い島だった。地をはう「ガンコウラン」という木で、タバコのパイプを作った思い出がある。
 船団援護も完了し、次の移動先は沖縄だった。私は一〇人ぐらいで先発となり、輸送船に乗り北海道に帰った。隊長は熊田准尉で、青森に移動後一度各自別行動となった。「九州小倉に何日に集合せよ」という事で、私も親元に帰った。小倉に集合して何日か、沖縄に行く船便を待った。ようやく出港し、那覇の港に着くと、港の周辺には物資が山のように積まれていた。すぐトラックに乗り読谷山(北)飛行場に向かった。途中トロッコ鉄道(軽便鉄道)とすれ違い、また道端で会った島民の皆さんは、非常に明るく笑って手を振ってくれた。南方で戦争しているとは思えぬくらいのどかな農村風景だった。
 読谷に着くと、私共の兵舎は楚辺の部落に近い松林の中にあった。中隊の任務は飛行機の整備でしたが、私は下っ端の兵士だったので、毎日リヤカーに食事を積んで飛行場を通り、搭乗員兵舎まで運んだり、楚辺の部落の洗場のそばでドラム缶の風呂焚きといった仕事をしていた。風呂場はまわりをムシロで囲んであった。井戸水を汲み風呂の仕度が出来ると、部落に遊びに行った。楚辺部落の人々には色々とお世話になった。洗場の隣りに比嘉※※さんの家があり、ミシンで軍服のほころびを縫って貰ったこともある。一九八八年十一月、あの頃お世話になった比嘉さん、上地※※さん、松田※※さん、仲宗根※※さんたちと再会し、懐かしい思い出を語り合うことができた。(調査者 楚辺字誌編集事務局、泉川良彦、上原恵子 一九九二年)
新井※※(埼玉県出身)大正十一年生
 私の所属していた飛行第三戦隊第三中隊は、千島列島占守島で移動命令を受け、昭和十九年六月、輸送船で出港し、青森県大湊港へ入港した。青森駅からは汽車で九州福岡まで行った。福岡では米軍の空襲や悪天候などで、一か月間旅館で過ごした後、沖縄の読谷山(北)飛行場への転属命令を受け、輸送船で沖縄の那覇港に向かった。とにかく、寒い千島から出てきたので、暑い暑い沖縄の気候には参った。
 那覇港に着くとすぐに軍用バスで、北飛行場へ向い、飛行場入口の守衛所前で下車し、守衛所勤務を命じられ、地下構兵舎に落ち着いた。楚辺の人達は本当によい人ばかりだった。私達の兵舎まで芋を持ってきてくれた。戦争当時沖縄の青壮年は日本軍の召集を受け、若い男子はほとんどいなかった。読谷村も女性ばかりだった。結婚したばかりの女性が、次の日は主人が召集で出て行ったということもあった。
 米軍上陸後は、読谷楚辺から嘉手納、石川岳、金武、宜野座を経て辺野古へ行った。歩きまわった山中や浜辺ではなんとも嘆かわしい光景に遭遇した。それは米兵による婦女暴行だった。洞窟の入口や人通りの少ない路地端で、米兵に強姦された少女達の遺骸や、五人の米兵に強姦されたと、泣きながら倒れこむ老婦人にも出会った。
 私は、辺野古の海岸にあった船に仲間三人で乗り込み、川田・平良に向かったが、横波を受けて船が横転し、他の二名は死亡。私一人が平良の浜に泳ぎつき、そこからしばらくはどこをどう通ったのか分らなかったが、やっと東村や名護を通って、本部町辺りの収容所へ行き着いた。そこで終戦を知った。(現在も繰り返し起こる米兵による婦女暴行等の事件事故に胸を痛め、戦時中に目撃した米兵の不法行為を思い起こし、二〇〇一年読谷村役場あてに届いた手紙の要約である)
椚山※※(福島県在住)大正十四年生
 私は特別幹部候補生として、第二十六対空無線隊(誠一六六二六部隊)に志願入隊した。昭和十九年十一月六日、私達兵員、物資を乗せた「仙台」は被害を受けることなく、那覇港へ入港しました。那覇港や市街地は昭和十九年十月十日の米軍の大空襲以来、連日の空襲等で大被害を受けていました。港には沈没した船のマストだけがあちこちに顔をだしており、あるいは市街地は焼野原となっておりました。附近の砂糖倉庫が焼失し、流れ出した黒砂糖の焦げ臭い匂い。そして軍靴の裏にべったりくっついた流れ出した砂糖。
 ここは前線だ、そんな気持で本隊から迎えのトラックに乗って、増加転属要員四〇数名は、第二十六対空無線隊本隊が展開中の北飛行場に到着し、喜名の山の中に作った三角小屋の兵舎の宿営地に入りました。私達は概ね通信習技(送受信あるいは有線電話の架設等の教育)を受けたり、北飛行場整備や、送受信所等の陣地構築、飛来する友軍機との通信連絡等に従事していました。部隊本部や炊事場などは小さな川が流れている谷間に設けられており、それを取り囲むように中腹に三角兵舎がありました。雨の時などはつるつるすべる山道をハダシで登り降りした記憶が鮮明です。飯バッグや汁バッグの中身をこぼさないようにバッグひもに棒を通して、二人で転ばぬように運んだものです。
椚山※※所有「軍隊手牒」より
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 住民との交流で印象に残っていることは、外出許可のあったとき、黒砂糖を売ってもらった(タバコとの交換だったか?失念)時、お年寄りの手の甲のいれずみに驚いたこと。ハダシ(履物もあったようですが)で歩くこと。女の人が物を頭の上にのせて運ぶ風習などに驚きました。また、若い人は別にしてお年寄りとはなかなか言葉が通じず、身振り手振りで話をしたこと。私達兵隊には大変親切におつきあいしていただいたり、若い兵隊である私達にご馳走などをふるまっていただいたことが鮮明に思い出されます。お墓にも驚かされました。最初は軍隊が作ったトーチカか民間の人たちの防空壕かと思い、これだけあれば空襲があっても大丈夫だなーと思っていました。また、一面のサトウキビ畑、失敬してかじった甘い味も忘れられません。稲作も二毛作、甘藷も収穫したあとまたその茎をさしておくと芋が実ることなどを見聞し、冬も暖かくて、南方にきているということを肌で感じました。北飛行場付近にあった木造の小学校、残波岬の景観、賑わいのあった嘉手納の街、山林におおわれた三角兵舎の後はどうなったのだろうか。
 昭和二十年三月五日、徳之島へ配属となり、読谷を発ちました。(調査協力 仲宗根盛敏、上原恵子 一九九二年)
富松※※(栃木県在住・野戦高射砲第七十九大隊所属)当時二十九歳
 昭和十九年七月二十三日、千葉を出発した。七月二十五日、福岡県門司港へ到着し、七月三十日大新丸に乗船、八月一日門司を出港した。八月十日に那覇着く。那覇は民家の間引破壊で混雑していた。ちょうど空いている民家があり、宿営した。蚊の攻勢で眠れなかったのを覚えている。第二十四師団の指揮下に入った。
 翌八月十一日、鉄道とトラック輸送にて読谷山に向かう。大隊本部は喜名へ、第一中隊は座喜味へ、第二中隊は喜名へ、第三中隊は伊良皆へそれぞれ駐屯す。北飛行場防空の任務、即日、朝から夜まで陣地構築に邁進した。
 第三中隊に属していた私は、伊良皆の民家に分宿。住家の一部屋を借り、板の間だったが有難かった。氏名は失念したが、よくさつま芋等を頂いて恐縮した。広くもない家の半分を兵が占領、住民の方は困った事と思う。
 昭和十九年十月四日、高射砲司令部作命により、第三中隊は国頭地区瀬底錙地の防空の任につく。第二十四師団長雨宮中将が、中隊の出発にあたり見送りに来られ、将兵を激励された。
 中隊は錙地東側台上の麦畑に陣地を構築する。十月十日午前六時四十五分より、瀬底において数回に亘る空襲を受け、目の前に停泊していた潜水母艦他四隻、全て撃沈される。第三中隊もグラマンの空襲を受け、死傷者多数で対空戦闘一時中止の止むなき状況になれり。
 昭和十九年末、私に大尉進級の命令があり、大隊本部付きとなり那覇へ移動。那覇の陣地にいる時、宿営は波之上神社前の国民学校の焼跡校舎であった。軍の命により各中隊の対空戦闘は中止となり、上陸する米軍の戦車を射撃することになった。そのため各中隊の高射砲は全部壕内に収容するよう、配属師団の参謀と打ち合わせた。そこで私は、適当な場所に壕を掘り、全火砲を収容する作業指揮に当った。
 沖縄にきているのだから、空手を憶えなくてはと思い、那覇警察署の当時警部補で空手五段の方がいることを聞き、教えを請うたところ、「三十歳で空手を習うのは無理」との事。私は講道館の黒帯を持っていることを話したら、承諾して頂き、毎晩お宅に通ってまず武徳会流の型からと稽古をつけて頂いた。当時沖縄新報の新聞記者が遊びにきており、後で「感心な将校さんがいる」と新聞に出されて部隊長に知られてしまった。まもなく、米軍が上陸してしまい空手も出来なくなった。お礼の言葉もなく終戦になり、この警部補さんの生死も確認せず島を去ったことを悔やんでいる。
 昭和二十年六月十九日夜十二時、米須の壕内に潜んでいた私は、大隊長金井大尉に伺い、将校としては真っ先に当番兵と二人で壕を脱出する。一五メートルも行かないうちに米軍砲弾の炸裂で大腿部に破片傷を受け、歩行困難になる。夜間も砲撃が激しくやむを得ず、付近の民間の壕に身を寄せ、翌日の夜、小渡の海岸に至る。そこには夜間脱出の(日本)兵が幾百人もいたと思う。別に壕を捜すともなく、幅一〇メートル、奥行きは二〇メートルほどもある大きな壕があり、前は海岸であるが、大きな岩があり海からの砲撃は防げるので、一応奥の方に落ち着いた。
 既に米軍の第一線は壕の上まで来ていたらしく、迫撃砲が壕の前に幾一〇発も炸裂、壕口付近にいた兵が五、六名やられていた。ここに三日間頑張ったが、周囲の状況を判断してこのままでは二、三日中に米軍の掃討戦でやられること必定と思った。当時沖縄住民が一〇名ほどこの壕にいたので、「私が責任をもつから、今からこの壕を脱出する」と告げ、住民の白いハンケチを棒の先につけ、躊躇する住民を勇気づけて、午前一〇時頃、壕を出る。私も壕内にあった背広服を着て、住民の先頭で崖をよじ登って上に出る。当時未だ二、三名の兵が岩陰等に潜んでいたが、住民が白旗を掲げて脱出するのに、別に気もつけぬ様子であった。間もなく米軍の観測機が舞い降り、パイロットがよく見えるくらいまで、超低空でやってきた。パイロットが指で盛んに北の方を指さしたので、その方向に三〇〇メートルくらい進むと、米軍の前線があり収容されたのである。玉城村の百名かカチャバルあたりの民間の収容所に入った。
 その後屋嘉収容所へ移され、一か月収容されたる後、米軍から「山や壕内にいる日本軍に戦争の終結を告げ、了解させたるのち、正式に武装解除できるよう協力してもらえないか」との要請があり、これを承諾した。六十二師団の田中大尉と二人で、希望する下士官一〇名くらいずつ引率し、毎日ジープで(米軍もキャプテンが付き添って)沖縄中、特に日本軍が潜伏しているとみられる地域を廻り、これら日本兵あるいは部隊に終戦を告げて、武装解除を受けるよう了解を求めた。
 那覇の小禄は海軍の飛行場があったところで、周辺の壕、四か所に分散して海軍兵が一二〇名くらいいた。榎本中佐、仁宮大尉など、壕内でよく話し合って投降に同意されたことなど、特に印象深い。
 野戦高射砲第七十九大隊の第三中隊の将校は全員戦死したのであるから、私もそのまま第三中隊にいたら、当然戦死していたと思っております。沖縄県民の大部分が、各方面で軍に協力頂いた事は終生忘れません。(調査者上原恵子 一九九二年)

村民が見た読谷山村駐屯部隊

 読谷山村には多くの駐屯部隊がいたため、村内の民家に分宿していた。一番座、二番座等を日本兵が使用して家族は台所や裏座で窮屈な暮らしを余儀なくされていたところもあった。日本兵への住居の提供のみならず、食料の供出、飛行場造りへの徴用に加えて陣地構築への動員がなされていった。
 以下は二つの高射砲部隊(独立高射砲第二十七大隊第三中隊・野戦高射砲第七十九大隊第一中隊)の中隊長が自宅に駐屯していた体験を持つ二人の村民の証言である。
曽根※※(座喜味)大正六年生
光本中隊・曽根宅前にて(1944年12月)渡辺※※氏提供
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 十・十空襲の頃までには、村内に山部隊とかいう北海道からの部隊や、球部隊を中心としていろいろな部隊が駐屯するようになっていた。座喜味にいたのは、光本中隊(独立高射砲第二十七大隊第三中隊 中隊長光本章一中尉)で、私の家には、中隊長の光本中尉が駐屯していた。隊長の当番兵も通ってきていたかな。この方は広島の工場長をされていた経済人で、応召軍人だった。親父といつも晩酌なんか一緒にやっていたんじゃないかな。後ろの屋号※※は炊事場で、そこにはたくさんの炊事兵がいた。
 十・十空襲があった時、光本さんは二、三日帰って来れないと言って出て行った。そして実際帰ってこなかった。うちのお袋が非常に心配していたが、すぐ近くの座喜味城跡での事だけど様子はわからない。十・十空襲のあった晩だっただろう、すぐに座喜味から高射砲を引越したのは。つまりは高台に高射砲を置いていても、谷間をぬって敵機が来るもんだから役に立たなかったと、そういう事で、その晩から高射砲を二手に分けて移動した。イシンニーにも行ったし、また上地の後ろ辺りにも置かれた。この時には、座喜味で馬車持っている人は、総動員されたと思います。高射砲は軍の兵隊だけではとても運べない、馬力を使わないと運べないので馬車持ちは総動員だった。あの高射砲を運ぶ時に負傷者もたくさん出たというくらいだから。
 そして空襲から四、五日経って、光本さんが家に帰って来たら、もう声もでないぐらい喉がしわがれていたらしい。つまり命令で大声を出していたから。この時の空襲で小隊長の近藤少尉などが戦死したと言っていたそうだ。僕は当時下宿していて、たまにしか家に帰らなかったから、次は親から聞いた話。
 光本中尉は、「今度の戦争は負ける」とか、「こっちは戦場になることは間違いない」と家で話していたから、広い意味で状況を知っていたんでしょうね。また親父に「ご長男だけでも本土に行かせたらどうですか」と勧めていたんですよ。私が長男でしたがね。親父はその時、「男は疎開出来ないから」とまあそんなこと言ったのかな。そうすると、光本さんが、「いや、私の工場に、工員の教育指導員として徴用というかっこうで出来ますよ」と言っていたそうだ。おそらく相当大きな工場を持っていたんじゃないかな。
 結局光本中尉は、年明けまでいたかな。彼等の部隊の司令部は大湾辺りにいたはず。その司令部の指揮下の部隊が、この辺り(座喜味)や、現在の読谷高校の近くなどにもあったよ。とにかく後からは飛行場付近の部隊が、南部へ引き揚げてね、高射砲も向こうで対戦車砲として使うという話も聞いた。戦後、元航空参謀の神さんと話す機会があり、「水際作戦で上陸地点で激しい戦闘があったら、読谷、嘉手納にいた住民の被害はもっと大きくなりましたね」と聞くと神さんは何も答えず黙っていらした。(調査者 玉城栄祐 一九八九年)
喜友名※※(座喜味)大正八年生
 イシンニーバルにいた高射砲部隊(野戦高射砲第七十九大隊)の小峰隊長(第一中隊長陸軍中尉 小峰康敏)たちが、井戸があるという事で私の家にいました。これは役場から連絡が来て、受け入れることになりました。小峰隊長は長崎の人で、二十二、三歳ぐらいで、いつも仏壇の前に座ってね。小峰隊長の他に、事務が二人、給仕係りが三人いました。ここは部隊事務所になっていたんです。昭和十九年夏頃から来て冬もいましたね。
 台所では東京からきた新兵の阿部上等兵が隊長の世話係りをしていました。一番座から台所まで、全部兵隊が使っていました。時折、彼らは慌ただしく、鐘をならしたり、ナーカヌカーに走って行ったりしていました。私たち家族八名はクチャグヮー(裏座)に入っていました。台所も兵隊に占領されていたので、食事もシンメー鍋一つに芋を炊いて食べていました。そうして、私たちの家に電話がひかれて、軍隊の連絡はここに来ていました。
 また、※※の山の方に九一七三部隊(第五十六飛行場大隊)の本部があり、その部隊のために、一週間に二回は母と一緒に豆腐作りをしていました。うちと、※※の二軒が豆腐を作ってました。大きな鍋を買ってきて、早朝から作っていました。材料は、部隊から大豆一袋ずつが支給されて、何日間あったと記録したりしてね、無くなったら請求しなさいといっていました。「満州」からの豆腐豆でしたが、母が畑から採った新しい豆を混ぜて豆腐を作ったから、「あなた達の豆腐は、美味しい」ととても誉めてくれました。豆腐は一箱に一〇丁ずつ詰め、三箱準備していました。昭和十九年の十・十空襲のあった日は、朝六時頃、出来上がった寄豆腐(ユシドーフ)を箱に詰めて、次のものを沸騰させている時、大きな音がしましてね、「大演習しているよー」と、私は外に見に出ました。
 九一七三部隊の炊事班長は山田曹長という人でしたが、人情のある方で、豆腐を貰いに来たら、「子供たちに食べさせなさい」と飴玉を持って来たり、天皇陛下の菊の御紋が入っているタバコを二本、お父さんにくれたりしました。
 戦前母は、座喜味の国防婦人会の会長をしていて、九一七三部隊の慰問もしていました。村の婦人会長は、棚原のおばさんでした。慰問をしなさいという事で、手作りのてんぷらを作ったり、また何処で覚えたのか大学芋を作ってね、サータームッチー(砂糖餅)、タピオカムッチー、それからマージンムッチー(黍餅)、私のお母さんはこの餅を作るのが得意でしたからね。航空兵が出撃するという日の前の晩は、一晩中作ったりもしていました。
 飛行場建設では、九一七三部隊のある曹長が「飛行場建設は早く進めないと」ということで、各班から何名労務員を出しなさいという係りをしていました。
 ある日、父は、風邪をひいて作業に出れませんでした。そうしたら、軍刀をぶら下げて、ジャラジャラと音を鳴らしてね、「今日は出る日だが、どうしてこないか」と家まで曹長が催促しに来ていたんです。その日の事は、忘れられませんね。この作業に出なかったら、非国民扱いだったんです。あの人達はもう、イライラした様子でした。私は「父は、風邪をひいて作業に出ることが出来ないんですよ」と言ったら「あなたが出なさい」と言われました。(調査者 玉城栄祐 一九九二年)

婦人会と日本軍部隊

 独立混成第十五連隊の『陣中日誌』から、当時の各字の婦人会が部隊を慰問していた様子が読みとれる。一九四四年(昭和十九)七月十九日午後、喜名と伊良皆の婦人会が第二機関砲中隊を慰問した。以下は各中隊の陣中日誌からの抜粋である(旧漢字は新漢字に、カタカナはひらがなに改めた)。
 第二機関銃中隊
  七月十八日
   明十九日伊良皆、喜名婦人会の慰問あるに付、
   各隊は一二〇〇迄作業は実施し午後は宿営地に
   あること
  七月一九日
   午後婦人会慰問に備ふる大隊命令により休養

 第二機関銃中隊
  七月二十一日
  (一)明二十二日一五〇〇より喜名婦人会将兵慰問
     の為来隊す 各隊は作業を続行すへし
  (二)一四三〇各中隊より(作業場より)慰問品受
     領のため三名に一ヶ宛の飯盒を持参し、本部
     事務室前に集合慰問品受領のこと

 第二大隊本部
  七月二十二日
   喜名婦人会の慰問、一四〇〇来隊現場にて汁粉の
   接待を受く

 砲中隊
  七月二十七日
   当部隊将兵慰問の為、婦人会より左記の通り寄附
   を受けたるに付承知のこと
  七月十三日   豆腐 百丁
  七月二十日   鶏卵 百五十六個  大湾婦人会
  七月二十三日  豆腐 八十丁    渡具知婦人会
  七月二十四日  ポーポー 六百個  楚辺婦人会
  七月二十五日  豆腐 百丁     比謝婦人会

 第四中隊
  七月十九日
   一三〇〇より国民学校東方松並木において全員
   伊良皆および喜名婦人会の慰問を受け浩然の気
   を養ふ
宿営地 読谷山国民学校
 当時婦人会長を務めていた喜名の安里※※は次のように証言している。
 日本軍が沖縄に入ってからは、行軍といってたくさんの兵隊さんが隊列を作って歩くようになりました。そんな時には役場の入口で婦人会幹部が湯茶を準備して接待したりで、軍の対応が仕事になっていました。毎日のように役場には呼ばれ、さらに日本軍に供出する鶏の卵を集めた事もありました。それも婦人会の仕事でした。鶏は各戸飼っていましたから、家々を回って集めるのです。各戸から二個ずつ集めましたがザルの一杯も集まりました。役場からは卵代としてお金もありました。あの当時、仲吉医院の奥さんは副会長で、よく二人で家々を回って集めたものです。

国民学校児童と日本軍部隊

 独立混成第十五連隊の『陣中日誌』によると、児童の陣地構築への勤労動員は以下の通りである。
 連隊砲中隊、七月二十一日   古堅国民学校児童
 第二大隊  七月十七〜二十日 喜名国民学校生徒
               (十七日は一六〇人)
 第四中隊  七月十七日  読谷山喜名国民学校児童(高
       等科)女一〇人湯茶補給・児童 八〇人
       七月十八日 児童 八〇人
 第五中隊  七月十七日 喜名国民学校生徒 五八人
 第五中隊神谷小隊 七月二十三〜二十七日
          渡慶次国民学校生徒 延べ五五一人
 第六中隊  七月十七日 読谷山国民学校生徒 五八人
       七月十八日 同 五七人
       七月十九日〜二十一日(人数記載なし)
 それぞれ、場所や仕事内容などに違いはあるが、この時期多くの児童が勤労動員されたことがわかる。以下は陣中日誌の一例と当時の児童の証言である。
 第五中隊神谷小隊
  七月二十三日
  作業 一、小隊長以下二〇名陣地構築を実施す
     二、渡慶次国民学校職員五名 生徒四九名陣
       地構築に協力す
     三、本日作業進捗状況(完成を示す)
       小銃掩体 四個  軽機掩体 四個
       交通壕 四〇メートル
  宿営地 渡慶次

  七月二十四日
  作業 一、小隊長以下一九名陣地構築を実施す
     二、渡慶次国民学校職員七名 生徒一四〇名
       陣地構築に協力す
  宿営地 渡慶次

児童証言

「戦車壕掘り」(宮平良秀画)
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 当時渡慶次国民学校の二年生だった与那覇※※(高志保)は学校から「飛行場に使うバラス(砂利)を長浜の海岸に取りに行った」ことを覚えており、同小学校の比嘉※※(高志保)は「二人一組で飛行場作りのための芝生とりをやった。今のようにアスファルトなどはなかったので浜辺や畑の周辺の芝生を取る作業をした。飛行場の滑走路に敷き詰めるためのものであった。後は芝生が無くなっていたので、畑のアブシ(畦道)を壊したこともある。この割り当てを果たすのがたいへんだった。
 飛行場造りだけでなく、戦車壕掘りもやった。私の家は高志保の西のはずれにあり、県道沿いであった。そこから下へ行くと渡慶次になるのだが、現在玉城スーパーがある辺りから儀間にかけて、地平線に沿って戦車壕がたくさん作られていた。まだ小学校四、五年生であったが、部落から徴用された防衛隊や上級生たちと一緒によく掘っていた」と当時を回想する。
 読谷山国民学校の生徒だった屋宜※※(親志)は「渡具知の浜から都屋まで、深さ約二メートル、幅約三メートルぐらいの壕を毎日掘らされた。私達小学生は、壕内で働く人達のために鏡を使って外の光を中に取り込む照明係をはじめ様々な手伝いをした」と証言している。

地元有力者と日本軍部隊

 独立混成第十五連隊第二大隊本部の一九四四年(昭和十九)十二月二十日と二十八日の「陣中日誌」から、部隊が読谷山村長および部落長(区長)を集めて、食料供出や軍への協力への指導をしていたことがわかる。
  十二月二十日
   一、中野中尉は勤労隊を区署し糧秣の積換を実施す
   二、副官一五〇〇より村長並地区隊内部落区長を招置せしめ左記協議す
    勤労隊の熱意ある協力
    食料供出の円滑化並これが具体的実行策
    軍民一体もって愈々防衛の完遂に邁進
    (以下省略)

  十二月二十八日
   陸軍中尉 大門正三 右者村常会指導の為、本
      二十八日読谷山村役場に派遣を命ず

日本軍部隊によるハンセン病者収容

 喜名に駐屯していた第二十四師団防疫給水部(山一二〇七部隊)は、ハンセン病患者の収容も任務としていた。各部隊の陣中日誌には、ハンセン病に関する記述がある。
  独立混成第十五連隊第二機関銃中隊
  昭和十九年七月七日
   会報(一)住民に癩患者あるに付、外出には住民
   特に子供等に手をふれざること。外出先より帰営
   せる時は手を洗ひ、うがひすること

  独立混成第十五連隊第二機関銃中隊第一小隊
  昭和十九年七月十一日
  日課一、〇七〇〇 嘉手納沖縄県立農林学校出発
    二、〇九〇〇 波平到着
    三、全員舎営施設に服務す
    四、第六中隊長田中中尉の注意事項左の如し
    (イ)軍紀風紀の厳正
    (ロ)衛生に注意(特にレプラ患者多数いるに
       つき住民に接せぬやうにせよ)

  第二十四師団輜重兵第二十四連隊第五中隊
  昭和十九年九月二十日
   古堅国民学校
   日々命令
   一、 陸軍上等兵 竹村武以下二名
    自動貨車一車輌 癩患者輸送の為原隊に帰隊すべし
 同部隊日誌では九月九日、二十日、二十一日の三箇所で「癩患者輸送の為原隊に帰隊すべし」との文言が見られる。
 以下は、読谷山村出身のHさんがハンセン病を理由に収容、隔離された体験である。
 昭和十八年頃、徴兵検査の通知が来た。自分ではもう病気だということが分かっていた。喜瀬病院へ行き「診断書を書いて下さい」と頼んだら、「徴兵検査は国が行うもので、個人では診断書は書けないから、きちんと軍医の診断を受けなさい」といわれた。私の気持ちは、個人病院なら一対一の診断だが、徴兵検査に行ったら、村民が何百名といる中で、全部丸裸されて、いちいち調べる時に、大勢の人前で「この人はハンセン病の疑いがある」といってすぐに隔離されることになる。そうなると辛いし、みんなに迷惑がかかるし、家族にもすぐに連絡されて、家族の面汚しにもなるから、本当は徴兵検査場ではばれたくない。できれば、こっそり自分ひとりで病名を知り、診断書を持って申請したいという気持ちだった。
 だが、医者がそれではいけないというから、仕方なく徴兵検査に行ったら、案の定の結果だった。兵役免除になり家に戻ると、役場から「何月何日、何時までに、どこどこへ来なさい」という通知がきた。治療のため、という理由でね。読谷に駐留している日本軍にも連絡が行っているわけさ。県の公衆衛生課もあったし、役場にも保健課というのもあって、どこの誰が病者だと調べていたからね。
 昭和十七年頃からハンセン病者の収容は始まっていた。日本軍が多く駐留している場所から収容が始まっているわけ。読谷の場合は飛行場建設のために早くから日本軍が入っていたからね。そして、役場から指定された日時にその場所へいくと、日本軍のホロつきトラックが泊まっていた。トラックは私を乗せてから、ここで三名、あちらで四名というように、あちこち回りながら人を乗せて行った。この時収容されたのは五〇人で、現在も生き残っているのは二人しかいない。あの時分は、ハンセン病者を地区ごとに順次収容していたからね、今日は与那原方面、次は勝連方面という具合にね。
 嘉手納から連れてこられた人などは、運天港から伝馬船で屋我地島まで来る時に、「僕はこっちには、入らない」といってすぐに引き返した人もいるんだよ。そうして、私は収容され、最初は青年寮に入って農業をして働いていたよ。それからずっとここにいるわけ。(調査者知花重雄、玉城裕美子 二〇〇二年)


注1 「防衛庁資料」とは、防衛庁防衛研修所図書館所蔵の日本陸・海軍史料のことである。我部政男(山梨学院大学教授)らによって沖縄戦関係文書が発掘・収集され、一九七六年にマイクロフィルム化された。マイクロフィルムは沖縄県公文書館に所蔵されており、マイクロ複製本である「沖縄戦資料」が関係機関に所蔵されており、閲覧できる。「沖縄戦資料」は一巻〜一四三巻まであり、沖縄戦当時に日本軍各部隊が書き綴った「陣中日誌」(一か月単位の各部隊行動記録)、「戦闘詳報」(各部隊の戦闘報告書)、「命令書」(司令部や部隊本部から指揮下部隊に発した命令書)など、戦中に作成された文書と、戦後に作成された文書が含まれている。戦中の日本軍文書は、アメリカ(占領)軍に押収されたものが外交交渉の末一九五八年日本側に返還されたものである。
 読谷村史編集室ではこの「沖縄戦資料」と、その後沖縄県公文書館史料編集室が収集した新たな「防衛庁資料」および玉城栄祐が沖縄戦関係資料閲覧室(日本学術協力財団運営、東京都港区西麻布に二〇〇二年開設)より収集した資料の中から、読谷村に関係した部隊に関する文書を抽出し、広く活用できるようデジタル化した。
注2 読谷山村への日本兵派遣を記録で遡ると、「満州事変」の四日後、一九三一年(昭和六)九月二十二日の大阪朝日新聞の記事に行き当たる。『沖縄方面海軍作戦』によると、海軍では大正年代以来、しばしば演習では奄美大島及び中城湾を泊地として使っていた。記事には海軍の特設守備隊が「読谷山小学校校舎の一部に専用の通信設備をなし隊員滞在して、演習期間中絶えず艦隊との連絡任務に当る模様」と記載されている。ただし、これは臨時的、小規模なものであった。
 一九四二年(昭和十七)年八月、読谷山村字渡具知の「沖縄海底電信陸揚所」(通称 電信屋)に警備兵が駐屯をはじめた。一八九四年(明治二十七)に日清戦争が勃発し、下関条約締結により日本は台湾を領有した。台湾と日本本土との通信の中継点として、一八九六年(明治二十九)鹿児島県大隅郡より読谷山間切渡具知村に至る海底電信線が陸揚げされた。翌年、石垣島経由の台湾線、一九〇五年(明治三十八)には南洋ヤップ島からの海底電信線が陸揚げされていた。『字渡具知誌 戦争編』によると、一九四二年(昭和十七)年八月、熊本県より海底電信局守備隊が渡具知へ派遣され、これらの駐屯兵を、古堅国民学校六年生の女子生徒が歌や遊戯で慰問したと記録されている。
注3 「第三十二軍の沖縄配備と全島要塞化」大城将保 『沖縄戦研究U』所収 沖縄県教育委員会 一九九九年
注4 伊江島飛行場(伊江島東・中・西飛行場を一括)、陸軍沖縄北飛行場(読谷飛行場)、陸軍中飛行場(嘉手納・屋良飛行場)、陸軍南飛行場(仲西・城間飛行場)、陸軍沖縄東飛行場(西原・小那覇飛行場)、陸軍首里秘密飛行場、海軍小禄飛行場、海軍糸満秘密飛行場、海軍南大東島飛行場、海軍宮古島飛行場、陸軍宮古中飛行場、陸軍宮古西飛行場、海軍石垣島南飛行場(平得・大浜飛行場)、海軍石垣島北飛行場(平喜名飛行場・ヘーギナ飛行場)、陸軍石垣島飛行場(白保飛行場)(「第三十二軍の沖縄配備と全島要塞化」大城将保『沖縄戦研究U』所収 沖縄県教育委員会 一九九九年より)
注5 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社 二六頁
注6 この時期に北飛行場建設に派遣された月居義勝は、石嶺久得駐屯の山部隊野砲兵連隊所属の一兵士であった。著書『一兵士の記録 私の沖縄戦』(文芸社)の中で北飛行場で見た光景を「北飛行場は座喜味城のふもとから西南海岸に向かって滑走路が伸びている。遠く広く滑走路面を蟻が群がるように、地ならしや側溝掘りの作業が区分割りにされて進められていて、今しも退避の合図があって、二、三箇所で一斉に発破が鳴ったところだ。十七歳以上四十五歳までの壮健な男子は、すべて国土防衛隊員として召集されている、といわれているが、ここで働いている多勢の労務者は、その防衛隊員なのであろうか?離島から来ているのだといっていた娘さん、胸に縫い付けられている名札に挺身隊と読み取れた。(中略)専任部隊であり作業を統括する側の隊も一様ではない。滑走路を受け持つ大隊と、秘匿分散の各格納庫を受け持つ大隊は別のようすであり、さらには、野戦飛行場設定隊と野戦築城部隊もほかにあって、電波探知の航空情報隊、並びに警戒隊無線中隊、電話交換所を受け持つ電信連隊がいるなどで、誠に雑多に混在し(中略)騒然とした動きに輪をかけるように、『師団命令』による応援隊が続々と到着してきて、混乱が混乱を生んでいる」(一一四頁)と記述している。
注7 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社 二七〇頁
注8 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社 二七七頁
参考文献
『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社
『戦史叢書 沖縄方面海軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社
『戦史叢書 沖縄・臺湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社
『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵語・用語の解説』防衛庁防衛研修所戦史部編 朝雲新聞社
『防衛庁資料』防衛庁防衛研修所戦史室蔵 マイクロフィルムよりの複製本「沖縄戦資料 一巻〜一四三巻」
CD―ROM版 写真/記録 沖縄戦全資料 宮里政玄・我部政男監修 日本図書センター発行
「座喜味と戦争」玉城栄祐 『座喜味老人クラブ友愛会 創立十五周年記念誌』所収
「第三十二軍の沖縄配備と全島要塞化」大城将保 『沖縄戦研究U』所収 沖縄県教育委員会 一九九九年
『海軍気象士官の手記 八月十五日の天気図 死闘沖縄ことぶき山』矢崎好夫著 戦誌刊行会発行 一九八三年
『沖縄戦と民衆』林博史著 大月書店 一九九五年
『國場組社史 創立五〇周年記念』國場組社史編纂委員会 一九八四年
『沖縄陸・海・空戦史』大田嘉弘 相模書房 一九八八年
『沖縄史料学の方法 近代日本の指標と周辺』我部政男著 新泉社 一九八八年
『図説 太平洋戦争』池田清編 太平洋戦争研究会著 河出書房新社 一九九五年
「風部隊始末」渡辺泰次著 『風一八九一八部隊沖部隊中城隊(第五保安中隊)覚書』所収
『航風 創刊号』風部隊之碑管理団体航風会発行 一九七九年
『航風 建碑十五周年記念誌』風部隊之碑管理団体航風会発行 一九九二年
『沖縄の最後』古川成美著 河出書房 一九八八年
『逃げる兵 高射砲は見ていた』渡辺憲央 文芸社 二〇〇〇年
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