第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦
空襲と艦砲射撃
玉城栄祐


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はじめに

 沖縄本島で空襲があったのは、一九四四年(昭和十九)十月十日を初めとして、四五年(昭和二十)一月三日、四日、二十一日、二十二日、三月一日、それに本島への上陸準備作戦として三月二十三日以降に行われた連日の空襲である。
 空襲を経験した人々にとっては、これらの空襲のうち十月十日と一月二十二日、三月一日の空襲が、その規模の大きさと激しかったことから、今もって話題になることが多い。ただ、空襲経験者のなかに「十・十空襲の後は毎日が空襲だった」と語る人がいるが、それは長い年月の経過による錯覚であり、毎日が空襲とは三月二十三日以降のことであった。なお、一月二十一日にかぎっては小禄飛行場や那覇港等が空襲されたものの、珍しく読谷山には一機の来襲もなく、本村に空襲はなかった。
 一九四四年(昭和十九)の十・十空襲は、空襲警報の発令がないまま、突然の空襲であったために最初のうちは兵隊も住民も演習と勘違いして、飛行場が爆撃される様子を暫く望見したものだった。
 住民は屋敷囲いの石垣や高台に上がってその迫真の演習を眺めていたが、本物の空襲と分かると、庭先に造ってあった簡単な縦掘防空壕に避難するか、木の下に隠れた。
 軍司令部は八日、丙号戦備下令を県にも伝達し各警察署を通して一般に告知したと記録 にあるが、実情はその情報が下部の部隊や住民には伝わっていなかった。そのために、県民並びに守備軍は人的・物的に大きな被害を蒙ることになった。
 この日の空襲被害は、陸上だけにとどまらず海上においても大きな不幸 ― 久米島沖における船舶への空襲と潜水艦による雷撃によって乗船者約六〇〇名の県民が戦死するという痛ましい被害―があった。この戦時遭難船舶事件は、八重山の白保陸軍飛行場建設工事のために沖縄本島から徴用された人々が、務めを終えて帰路の途中、海上で十・十空襲に遭遇して起こった惨事である。この痛ましい海没戦死の状況はこれまでほとんど知られていなかったが、唯一の生存者であった喜友名※※が爆撃の状況を記した遺稿「行動の概要」(昭和五十五年三月提出)を入手し、白保時代の上司であった新垣※※の証言を得て、ほぼその実相が明らかになった。そこで一項「もう一つの十・十空襲―久米島沖における徴用人夫の海没戦死事故―」を付け加えることができた。
 一月二十二日の空襲は、沖縄本島を延べ約七八〇機によって朝六時五十分から午後七時四十分までの実に約一三時間におよぶ長い空襲であった。長時間にわたる空襲であったが、被害は少なかった。第三十二軍司令官は「我が方の主要な損害(沖縄本島) 戦死 将校以下七六 民間の死傷 六九名」と報じた 。それは那覇などの都市部がすでに壊滅した後でもあったし、その上「十・十空襲の教訓」に学び、家庭ごとまたは複数家族によるグループで横掘防空壕やガマを避難場所にして、警戒警報が発せられると壕で寝起きする生活に移行し安全を確保したからでもある。
 ところで、米軍は十・十空襲の時にも沖縄県内の重要地帯を空中撮影したとされているが、沖縄攻略に向けての情報、資料の収集に余念がなかった。「一月二十二日、ミッチャー提督の空母機動部隊は、ふたたび琉球に向けて出動した。こんどの場合は、島を撮影するのが主なる任務であった。天候にわざわいされて、出撃もなかなか容易ならぬものがあったが、それにもかかわらずパイロットたちは重要地域の八十パーセントを写真に収め、軍事施設や飛行機、船舶を攻撃して帰ってきた」。このように、二十二日の長い空襲は、米軍にとっては島を空中撮影することが主たる目的だったのである。
 三月一日は、早朝七時から十五時までの間に延べ約六七〇機が空襲した。前日、B29は五回にわたって本島上空に侵入して綿密な偵察を行っていたことから、空襲の前触れとして厳重に警戒していた。そこに、大編隊接近中との海軍情報を得て、軍司令官は六時四十五分に空襲警報を発令した。敵機は初めのうちこれまでの空襲と同様に北及び中飛行場と高射砲陣地、那覇港の船舶を攻撃したが、次には字渡具知沖に停泊している機帆船を爆撃し、後半になると東の方向から山間を這うように本村上空に侵入し、民家や主要な道路にも爆撃を加えてきた。この日の空襲は、後に詳述するように、十・十空襲に勝るとも劣らない激しさと被害の大きい空襲であった
 ところで、一九四四年(昭和十九)十月のある日、高々度からB29の「偵察」があった(村民の証言)。秋晴れの上空に白い飛行機雲の軌跡を描きながら悠々と飛んでいった。高射砲部隊は砲撃したものの、その砲弾は敵機に届くどころか、遥か下の方で爆発してむなしく黒煙を残すだけだった。その後もたびたび偵察は行われた。特に年が明けて二月から三月にかけては、高々度からの偵察が毎日の如く日課のように行われたため、米軍の偵察を「定期便」と呼ぶありさまであった。当然、米軍の偵察がある時には、そのつど警戒警報または空襲警報が発令された。
空襲警報、警戒警報発令および解除一覧表

画像
 東京に一九四四年(昭和十九)十一月二十四日、B29の編隊が大挙して来襲した。その時、迎え撃つ東部軍は戦闘後に「戦闘に関する考察」として次のようにまとめていた。
 「高射砲師団はB29の高度は有効射程の最大限に近く弾丸の水平速度はB29の速度に劣ることを指摘し十二糎高射砲に非ざれば役にたたざるものと結論せり」「飛行師団に於ては結論として敵機の行動は我方器材の性能の絶対的限界以上に出づるものなるを以て高々度戦闘機を整備するにあらざれば対策を講じ得ざるを痛感せり。即ち現在の状況にては到底編隊を以てする斎整たる組織的攻撃を行ふこと不可能にして師団の戦闘計画の如きは画餅に等しと謂ふべく之等根本問題解決せられざれば如何に訓練を向上するも任務完遂の方途なく作戦の前途を思い暗然たるものあり」とある
 大本営陸軍参謀本部の「戦況手簿」によれば、沖縄本島への最初の艦砲射撃は、守備軍主力が布陣する港川など南部地区を対象にして、三月二十四日から始まった。読谷山への艦砲射撃の開始は二十六日であった。午前中の八時から十一時までの間に九〇発を北飛行場に撃ち込んだとしている。二十九日以降は米軍の掃海作業も進み艦船が島に近づける情況ができて、近距離から発する艦砲射撃は照明弾をも併用して昼夜にわたって激烈を極めた。
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