第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦
空襲と艦砲射撃
1 十月十日の空襲
(天気 午前晴 雲量三 雲高一五〇〇〜二〇〇〇メートル 午後は雲量五)
空襲直前の米機動部隊接近の警報
「十・十空襲」直前の米機動部隊の動きについて、住民は知る由もなかったが、軍上層部には詳しい情報が日々伝えられていた。十月五日十二時には、台湾の第十方面軍から「敵機動部隊ハ比島付近ヨリ北上台湾、南西諸島方面ニ対シ策動ヲ開始スル算大ナリ厳重ナル警戒ヲ要ス」と第三十二軍に速報されていた。そして、第三十二軍は「本七日一一一五台湾東海岸(花蓮港)東方海面ニ敵機動部隊出現ス」との情報を発するとともに、八日十時にはその指揮下部隊に対して、対空及び海上警戒を厳重にして対空射撃部隊は一部をもって警戒配備につくよう命ずる丙号戦備の命令を下していた。さらに、軍司令部は九日の朝になると、「台湾東方海上ニ敵機動部隊出現ノ海軍通報疑ハシク其ノ後情報ヲ得ス 但シ〔マリアナ〕方面ノ敵機動部隊ハ新ニ行動ヲ開始シソノ西進ハ確実ナリ」との情報を出していた。そして空襲前夜、佐世保鎮守府司令長官は「南九州及南西諸島方面部隊ハ指揮官所定ニ依リ黎明時ノ対空警戒ヲ厳ニスルト共ニ被害局限ニ留意スベシ」という極めて強い警報を電報で命じていた

。
そのような状況下で、第三十二軍はかねてからの計画にもとづき、十月十日から三日間にわたる軍参謀長統裁の兵棋演習を予定していた。そのため徳之島や宮古、石垣、大東島からも兵団長らが那覇に参集しており、九日の晩は軍司令官が演習参加の兵団長や独立部隊隊長等を招いて宴会を催していた。軍は敵機動部隊の来襲を警戒しつつも、十日に空襲されるとは予想していなかった。敵機来襲に関する情報探索のために読谷山に電波警戒隊安武隊が配置されていたが、二機の電波探信儀のうち一機が故障、一機は作動停止中で空襲開始後にようやく作動する状態であった。したがって、「十・十空襲」は軍にとっても不意を衝かれた空襲であった。それがために被害を一層大きくしたとも言える。
敵機の来襲状況
軍司令部は七時〇〇分に空襲警報を発令したものの、発令時点では既に敵機が司令部の頭上に飛来していたと言われる。北飛行場が所在する読谷山村では、空襲警報発令に先立ち六時四十分から警戒警報もないままいきなり敵機の襲撃を受けた。何事だろうと近くにいる兵隊(村内では多くの部落やその近くに部隊が配備されていた)に聞けば、友軍の演習という返事であった。住民は初めのうち演習ということだから、北飛行場でもうもうと立ち昇る火柱と黒煙、その異様な光景を屋敷囲いの石垣の上に群がり、あるいは木に登って眺めていた。そのうち半信半疑になっているところに、「敵機来襲、敵機来襲」と叫ぶ怒号が飛び交った。そこではじめて、住民は蜘蛛の子を散らすように、それそれが屋敷内の粗末な防空壕や木の陰に身を隠す状態であった。
一方、北飛行場や周辺部落に所在した各部隊では、あまりにも突然の空襲であったことと、兵隊は演習という思い込みがあったことから、直ちに指揮系統による応戦態勢を整えることは出来なかった。飛行場周辺に配備されていた高射砲、機関砲隊は各隊の独断で射撃を開始したが、その他の部隊は空襲警報発令(七時)によって乙号戦備(上陸攻撃のおそれが少ない空襲または砲撃に対する戦備)に移り、ようやく対空射撃を開始する始末であった。その対空射撃も、低空の敵機に対しては機関砲のほか小銃や速射砲でも射撃する状態であったという

。
隠れる所のないだだっ広い飛行場の中で、敵機の機銃掃射を受けた様子が次のように陣中日誌に記されている。
要塞建築勤務第六中隊の北飛行場派遣隊重信班(兵三八人)陣中日誌
「〇六五〇北飛行場上空ニ侵入セシ敵機ハ飛行場始メ周辺施設物ニ対シ爆撃ヲ開始セリ」「敵戦爆連合艦載機ノ編隊ハ逐次其ノ数ヲ増シ 急降下ヲ以テ銃爆撃ヲ反復スルニ至り 為ニ常ニ至近弾ノ爆風ヲ身辺ニ感ズル状態ニアリ」「重信伍長ハ対空警戒ヲ厳ニスルト共ニ兵舎内兵器被服ノ搬出分散ヲ決意シ 集団行動ヲ禁ジ 各個躍進行動ヲ以テ前記作業ニ着手シ 所期ノ目的ヲ達成セリ」
飛行場造りの作業に行く知花※※たち女子青年は、既に前方の飛行場で敵機の攻撃で黒煙が上っているにも拘わらず、指揮監督する兵士の指示を受けるために作業現場へと急いだ。途中で機銃掃射を受けたので、知花※※は身を隠すため防空壕に避難した。その場所は、県道を挟んで掩体壕(特殊有蓋掩体のこと)の真向かいの民家の防空壕であった。掩体壕を狙った爆弾がその防空壕の入口に落ちて、一二人の若者の命が奪われた。
知花※※の証言(宇座)
一九四四年(昭和十九)の十月、私は字事務所から北飛行場建設工事の徴用に出るように言われて、毎日暗いうちに起きて掩体壕造りに行っていました。
十月九日に、飛行場建設の部隊の兵達から「明日は必ず徴用に来なさい。来ない人は島尻の徴用に行かす」ときつく命令されました。それで「明日はみんなで徴用へ行こうね」と声を掛け合ったんです。実はそれ以前に「十月十日には空襲がある」という話が、同じ部隊の兵隊から伝わっていたのですが、島尻に行かされると大変だと思い、出かけて行ったんです。
当日、宇座からは一二人が北飛行場に向けて出発しました。読谷山メゾジスト教会の前を通って上地集落にさしかかると、飛行場から煙が上がっているのが見えました。「空襲かね」と言って、皆で引き返すかどうか相談したのですが、結局「まず、飛行場までは行ってみよう」ということになりました。そして、先頭を歩く人がどんどん前へ進むので、皆がついていく格好になってしまいました。空襲というものは、まだ経験したこともないので、どんなものなのかも分りませんでした。
もうすこしで作業現場の掩体壕に着くというところで、米軍機がやって来て、爆弾を落とし始めました。右往左往する私たちを見つけた民家のお母さんが、屋敷内に掘られた家族壕の入口から、「こっち壕あるよ、おいで、来なさい」と呼ぶのです。私がその声を聞いた時には、みんながさっとその防空壕に入っていくところでした。私も慌ててその壕へ走りました。
そこは家族壕ですから、非常に小さくて、高さも私の座高ぐらいしかありませんでした。そんな所に、既に避難していたその家の方たちに加え、私たち一二人までが入り込もうとしたので、結局、最後から三番目に逃げ込んだ私は上半身だけを壕の中にいれるのがやっとで、下半身は外に出る形になってしまいました。私より後に壕へ逃げてきた二人は、入口付近にただ座ることしか出来ませんでした。男の子たちは、身を隠すことができなくても、みんなと一緒のほうがいいと思ったのでしょうか。やがて防空壕の前に爆弾が落ち、横掘りの壕の入口は、爆弾で飛ばされた土で完全に塞がれてしまいました。家屋も爆撃で潰れていたということです。私は太ももから下が壕の外に出ていたので、その上に多量の土がかぶさって身動きが取れなくなってしまいました。それでも壕の中の人たちは、はじめはみんな生きていました。しかし、入口をふさがれた狭い壕の中に、人がぎゅうぎゅう詰めに入っているので、酸素が欠乏してだんだん息ができなくなっていきました。
はじめのうちはお互いに声を掛け合って「いつかは助けがくるよ」と励ましあいました。「みんな一緒に声を出して助けを呼ぼう」と言って声を合わせて何回も「助けてくれー!助けてくれー!」と叫んだりしました。私は入口にいるので、土砂に埋まった入口を手で掻いて穴を開けようとしたのですが、小さな穴さえあけることはできませんでした。どれほどの時間が経ったのか、死に際に「天皇陛下バンザーイ!」「アンマ―、助けて!」と叫んで、一人、また一人と息絶えていくのがわかりました。そして、私も次第に意識が遠くなっていきました。
私は目を覚ますと、別の壕に移されていました。座喜味の人たちが救出してくれたのです。一緒に徴用に行った山内※※さんと知花※※さんも同じ壕に助け出されていて、私たちは助かったことを喜び合いました。他の人たちのことが気になって、座喜味の方に安否を尋ねると「別の壕にいるよ」と言われました。ちょっと休んだ私たち三人が宇座に帰ろうとして壕を出たとき、戸板にのせられて並べられている遺体を見たのです。このとき初めて、宇座から徴用に出た一二人のうち、生き残ったのは私たち三人だけだとわかったのです。
その壕にいた人のうち一二人が亡くなり、その内九人が宇座の人でした。
沖縄本島への敵機来襲状況
十・十空襲で南西諸島全域に攻撃してきたのは、米第三艦隊の第三十八空母機動部隊で、モリソン戦史(モリソン著『第二次世界大戦米国海軍戦史第十二巻レイテ』からの引用資料のこと)によれば、沖縄攻撃の艦隊は台風の後方から沖縄に接近し、第一戦隊の艦載機二四六機、第二戦隊の艦載機三四〇機、第三戦隊の艦載機二五四機、第四戦隊の艦載機二四一機、合計一〇八一機の艦載機が数次にわたって攻撃を加えたとのことである。
『陸軍作戦』及び『航空作戦』から当日の状況を要約する。
沖縄本島地区における第一次の空襲は六時四十分から八時二十分までに延べ約二四〇機が来襲。敵は主として飛行場を攻撃目標とし、地上の飛行機や施設を銃爆撃するとともに滑走路や誘導路に投弾した。
この空襲で近接の喜名部落でも、県道沿い西側の集落が全焼するという被害を受けた。北飛行場には、海軍の銀河九機が配備されていて、遠距離の洋上戒を毎朝未明から実施していた。敵機の一群は、最初に飛行場に並べてあったこれら銀河に向かって銃爆撃を浴びせ、炎上または破壊し尽くした。
第二次の空襲は九時二十分から十時十五分までに約二二〇機が来襲。敵は主として飛行場ならびに船舶を攻撃した。
北飛行場には、沖縄方面における唯一の陸軍戦闘飛行部隊として独立飛行第二十三中隊が配備され、本島地域の防空に当たっていた。同中隊は敵が来襲したとき朝食前であったが、搭乗員らは敵の弾幕を縫って隊長のもとに集合し命令を待った。まず、馬場園大尉機が第一次攻撃終了後に敵機動部隊の捜索のために離陸し、次いで九時過ぎに中隊長以下一〇機の全機が出動した。しかし、米軍の第二次攻撃に向かうグラマンと遭遇し、多勢に無勢、六機が飛行場北方洋上で撃墜され、三機は被弾して飛行場に不時着大破、また残り一機は着陸後に銃撃を受けて炎上した。
また、那覇港付近の民家でも火災が発生し、十一時頃から第一桟橋や垣花町等が炎上したため、軍隊、警備隊、警防団、学徒などが消火に努めたが遂に大火災になった。
第三次の空襲は十一時四十五分から十二時三十分までに約一四〇機が来襲。敵は一部をもって飛行場を攻撃するとともに、主力をもって那覇、与那原、泡瀬、名護、運天、渡久地などの各港湾施設を攻撃した。
第四次の空襲は十二時四十分から十三時四十分までに約一三〇機が来襲。敵は主として那覇市に集中攻撃を加えた。
敵機は銃爆撃とともに多数の焼夷弾を投下し、市内各所が炎上したため、県庁は軍に破壊消防を依頼した。この空襲が止むと、市民は全面的に避難を開始し、消防活動に当たる者はほとんどいないという状況になった。
第五次の空襲は十四時四十五分から十五時四十五分までに約一七〇機が来襲。敵はまたしても主として那覇市に徹底して攻撃を集中した。軍隊が消火のために出動したが手の施しようがなく、市街の大部分を焼失して次の日まで炎々と燃え続けた(一二八頁〜一三〇頁)。
以上のように、米軍の空襲では先ず飛行場とその周辺地域、次いで船舶及び飛行場並びに高射砲陣地、港湾を攻撃し、そのあと民間地域へ移るという順序で攻撃先を変えていった。米軍は、最初に飛行場を攻撃破壊することで日本軍の迎撃能力を低下させ、制空権を確保した上で他に攻撃を広げるという効率的な戦法をとったのである。そのために、航空部隊の中心地であり、各種部隊の基地が集中していた読谷山村は、その後に続くいずれの空襲でも、最初に激しい攻撃を受ける結果となり、甚大な被害を蒙ることになった。
また、現国道五八号西側の伊良皆北端の飛行場に位置していた大刀洗航空廠那覇分廠は、その「戦闘詳報」で施設・建物の破壊炎上について、次のように記している。
「読谷山飛行場地区ニ来襲セル敵機ハ艦載機小中型機延二五〇機ニシテ主トシテ銃爆撃(五〇〜二五〇s爆弾使用)ヲ実施シ」「コノ間建物ノ大分ハ炎上セリ 特ニ午後ヨリハ中型機ニヨリ大型爆弾(一〇〇〜二五〇s)ノ投下焼夷弾攻撃ヲ併用 分廠ヲ徹底的破壊炎上ヲ企図シ 為ニ分廠ノ大部分ハ大破(炎上)スルニ至レリ」としたうえで、施設区域内の砲弾跡の図を残している(本書五五八頁参照)。
十・十空襲の戦果と被害
第三十二軍はこの日の戦果として、本島地区で敵の飛行機三七機を撃墜したと報じていた。しかし、モリソン戦史で米側は飛行機二一機、パイロット五人、搭乗員四人の被害があったと記している。
この日の空襲は、兵隊でさえ演習と間違えたほどであり、警戒警報の発令時にはすでに敵機が頭上に来ていたという状況であり、軍や民間に多大な損害を与えたことは言うまでもない。その損害が甚大であったために、軍参謀長はその責任をとるため進退伺いを出し、損害の大きかった部隊の隊長は処罰されたということである。次に被害の主要なものを挙げておこう。
人的損害は、戦死が軍関係者三三八人で民間人三三〇人、負傷した人が軍関係者三一三人、民間人四五五人であった。民間の家屋被害は、本島地域で全焼全壊が一一四五一軒、半焼半壊が六二軒であった。また、飛行機の損害は出撃したものの未帰還、焼失または破壊された機数の合計が五一機に及んだ。船舶の被害は極めて大きく、南西諸島近海に所在した船舶のほとんどが撃沈あるいは撃破された(モリソン戦史には、航空機一〇〇機以上撃墜破、船舶大小七〇隻以上撃沈破したとある)

。その中には久米島西方海上で、空襲と潜水艦の雷撃により撃沈した「江龍丸」等も含まれている。
真玉橋※※の証言
十・十空襲の日、私はいつものように朝の七時ごろに芋を煮て、友軍の兵隊にもあげようとしていました。するとパラパラと音がして、地響きがするもんだから「何ですかね兵隊さん」と聞いたんです。「飛行場のほうで演習しているんでしょう」と言うんですが、私は「そうですかね、でもなんか様子が違うみたいですよ」と話していたんですよ。
ところがしばらくして、外を見ていた兵隊が「あっ、敵機だ!空襲だ!早く逃げなさい、逃げなさい!」と言って、彼らもそれから大騒ぎで支度して、部隊へ行ったんですよ。
弾が民家に落ちて火事になり、今の喜名公民館ですね、あの通りが焼けたんですよ。「ウリヒャーナーあっちに爆弾が落ちているってよ」と言って、前もって消火訓練はしていますから、今考えると本当に馬鹿げてますけど、バケツを持って大急ぎで走っていきました。しかし、現場に着いてみると、火の勢いがすごくて中に入れないんですよ。バケツの水だけではどうしようもなくて、結局「ヒンギランネー、デージヤサ(逃げないと大変だよ)」と言って、うちに帰ることにしました。
家に着き、荷物を運び出そうと思うのですが、二階建ての我が家は爆風でグラグラして入れないんです。それでも柳行李(やなぎごうり)(柳の枝と竹で編んだ衣服等を入れる編み籠)ひとつは担いで防空壕に入れました。そうこうしているうちに九時頃になり、今度は二度目の攻撃が、郵便局の方から私の家へ向かってはじまったのです。どうしようかと思って、ふとんを出してきて庭の片隅に繁っていたキャッサバの木にかぶせて、そこの下にもぐって一時をしのぎ、次に家の近くの井戸のそばに掘ってあった防空壕に逃げ込みました。振り返ると自分の家が燃えているのに消しにも行けないし、「アイエーナー、ワッターヤーガヤキール(あーどうしよう。うちの家が焼けているよ)」と言って見ているだけです。
それからちょっと爆撃が途絶えたので、ここではしのげないからと、子供を一人連れて役場の大きなガジマルの下に掘られた壕に移動しようと外に出ると、薬莢がカラカラーと地面に落ちる音がして、また空襲が始まりました。私の家のすぐ後ろに住んでいた「イシンミグヮー」の壕が道のそばにあったので、そこに入りこんで「助けて下さい、私たちは役場の壕に行くつもりですけど…」と言ってそこの壕に入りこんでしばらくしてから、役場に行ったんです。
そこには仕丁の仲村渠※※(瀬名波出身)がすでに来ていました。「※※さん、私の家は焼けているけど、どうしようかね」と言ったら、※※さんが「じゃあ行ってみよう」と言って、彼と一緒に家の様子を見に行きました。夕方ごろですかね、家も荷物も全部焼けてしまっていたのです。
結局、この日の空襲で通りの西方面は全部焼けたんです。
牛山内(屋号)の庭に爆弾が積まれていたので、それが爆発して大変な大火事になってしまいました。敵機は飛行場を破壊するのが目的だったと思うのですが、本部落からイリバルにかけても爆撃したわけですよ。
空襲警報用のサイレンは、当時読谷山役場の敷地内にやぐらをたてて設置されていた。サイレンを鳴らす際は梯子を上がり、手回しで鳴らすようになっていた。
十・十空襲は、まったくの不意打ちであったので、空襲警報のサイレンを鳴らす間もなかったということが、その日当直にあたっていた当時の役場職員の話である。また今更サイレンを鳴らしたところで、米軍機の一層激しい攻撃を受けるだけだと考え、思いとどまったという。
さて、当時役場の敷地内には防空壕があり、それはサイレンやぐらの近く、ガジマルのすぐ下だったようである。壕は入口から下へ数段おりると、奥へと広がる一〇坪ほどのものであった。高さは一メートル五〇センチほどはあり、空襲の際にはそこに役場文書を運んだ。
小橋川※※(戦前に喜名大通りの組長)の証言
沖縄が戦場に変わったのは、十・十空襲からです。
十・十空襲は朝の七時前から夕刻まで繰り返し返しの攻撃で、近代戦の凄さを嫌というほど思い知らされました。敵機を見るのも初めてで、もちろん爆弾の威力も初めて知りました。喜名も県道沿いは、丸焼けになり、私の組の高山※※さんと大城※※さんの二人が爆弾で亡くなりました。喜名大通りは黒焦げに焼けた家畜の死体が転がって惨澹たる状況でした。この日を境に沖縄は戦場に変わっていきました。
翌日私はこの亡くなった人々を埋葬するため、駐在巡査に許可をもらいに行きました。駐在は話を聞き、何の書類も与えずに直ぐに許可をしてくれました。立ち会いもしませんでした。私たちは高山さんを埋葬しました。あの頃、若者は兵隊や防衛隊に取られ、いませんでしたので、隣の饒波※※さんと二人でナガンミワーク(現在の喜名小学校北側の林一帯)の空き墓に葬りました。駐在は、空襲で書類もどこにいったか分からなかったのでしょうし、混乱状態でしたから無理もなかったと思います。死んでも埋葬許可も出さないし、爆弾で死んだ人を片付けるのに精いっぱいで、混乱した状態でした。その時「ここは戦場になったな」と思いました。