第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦
空襲と艦砲射撃
2 もう一つの十・十空襲
― 久米島沖における徴用人夫の海没戦死事故 ―
沖縄本島から七五〇名余りの人たちが一九四四年(昭和十九)六月、八重山の陸軍白保飛行場建設工事のために軍雇用命令により徴用された。この人たちは四か月の任期を終えて十月八日午後、暁部隊が用意した約三〇〇人乗りの大型船二隻と約三〇人乗りの小型船五隻に分乗して石垣港を出港、帰路についた。船足が速い大型船二隻は十日午前七時頃、久米島近海に到達したところ米軍機のグラマン二機に襲撃され、次いでB29約十機に爆撃されて船は撃沈された。敵機は乗船者が海に投げ出された後、救命胴衣を着用して泳いでいる人にも執拗に機銃掃射を繰り返して来たとのことである。
以上は、乗船者約六〇〇名のうち唯一の生存者である喜友名※※の「行動の概要」、並びに新垣※※の証言により明らかになったことである。
ただ、約六〇〇名が乗船したという船名は今のところ特定できていない。沖縄近海で十・十空襲により撃沈された船のうち、三〇〇名が乗船できる比較的大きな船、二〇〇〇トン以上の基準で調べてみると、第三十二軍の「南西空襲戦闘詳報」で輸送船沈没一〇隻の一つとして、江龍丸(二一七〇トン)が久米島西方で空襲と潜水艦雷撃により沈没と記録されている。また、厚生省福祉援護局資料室資料によると、南陽丸(二二一八トン)は久米島西方十六浬で敵火により沈没とされている。厚生省資料でこのほか、先の基準に合う船は大海丸(二四七八トン)と福浦丸(三一七七トン)が那覇附近で敵飛行機により沈没させられたとある。
なお、この戦時遭難船舶の犠牲者約六〇〇名のうち六四名が読谷山村民で「久米島沖二〇浬海上」における戦死となっている。この数は十・十空襲時の村民犠牲者九六名の実に六七パーセントに当り、高い比率になっている。ちなみに、そのほかの十・十空襲による村民犠牲者は村内が二五名、村外で七名であった。
人材払底の中で三つ目の飛行場建設
石垣島には二つの海軍飛行場と陸軍白保飛行場が建設された。海軍の平喜名飛行場は一九四三年(昭和十八)一月に建設工事が開始された。規模が小さい飛行場であったため、同年十二月には佐世保海軍航空隊から派遣された観音寺部隊の駐屯が可能なまでに既成していた。
二つ目の海軍平得飛行場(用地は強制接収、現石垣空港はその一部)は、一九四三年(昭和十八)六月までに着工されたが、幅五〇メートルで長さ二〇〇〇メートルの滑走路を三本作る計画であった。南北滑走路は八月下旬に完成した。東西に伸びる滑走路は建設中で、更にあと一本は大浜街道をまたいで造るためにその迂回道路の工事も併行して進められていた。飛行場は滑走路を中心に誘導路、掩体壕を合わせると、その面積は広大で工事の規模の大きさに誰もが驚いた。飛行場の周囲が八キロメートルぐらいにもなる八重山開闢以来の一大工事であった。したがって、軍命による突貫工事は徴用につぐ徴用で、郡内の老若男女が根こそぎ動員されてそのほとんどが徴用されて労役についた。小学生までも大人同様に突貫工事の飛行場造りに駆り出されるしまつだった
。
一九四三年(昭和十八)から翌年にかけて数度にわたって徴用された仲原※※(小浜島出身)は「朝は五時に起き準備しなければなりませんでした。作業開始は午前八時で、終わりが午後六時です。仕事は主に地ならしでありましたが、ツルハシを使っての重労働はたいへんなものでした。それに食事が悪く、たいへん苦しんだものです。
食事は朝、昼、晩とも同じもので、おじやの小さなにぎりでした。炊事のために徴用された小浜の婦人が朝早く、にぎってあるものを朝食として二個食べ、二個は昼の弁当として包み、作業に出ました。へとへとになって帰って来ても、にぎり二個しかなかったのです」と疲労と空腹の徴用期間の生活を話している
。
三つ目の陸軍白保飛行場は、郡内の作業人夫が払底する中で建設されることになった。そのために、沖縄本島からの作業人夫の補充が必要であった。飛行場用地が強制的に接収されたのは、第三十二軍が編成されて沖縄に展開した後の一九四四年(昭和十九)五、六月ごろであったという。ときに、第三十二軍の編成にあたって参謀本部総長より軍に示達された十号作戦準備要綱では、「本作戦準備ハ航空作戦準備ヲ最重要トシ爾他ノ事項ハ之二従属ス 一九年七月ヲ目途トシテ之ヲ概成ス」とされていた。従って、その飛行場建設の工事は緊急に進めなければならなかった。第三十二軍は設定の担任部隊として第一二八野戦飛行場設定隊(部隊長山田大尉、後少佐 隊員一六五名)を充てた。同設定隊は一九四四年(昭和十九)四月十日に第三十二軍の指揮下に入り、五月下旬沖縄に到着、六月十一日石垣島に上陸して陸軍白保飛行場の設定に任じた
。
沖縄本島から八重山へ徴用
小学生を含めて八重山郡民を根こそぎ動員して平得飛行場を建設している最中に、また新たに陸軍の白保飛行場を建設するのである。原始的な道具を用いて人海戦術による当時の飛行場建設では、八重山の現地状況からすると、他所からの応援が必要であった。読谷山では地元に飛行場の建設工事を抱えながらも、多くの村民が伊江島徴用に駆り出されたように、六四名の村民が八重山徴用に動員されることになった。
一九四四年(昭和十九)六月、軍雇用命令により沖縄本島の七五〇名余りが陸軍白保飛行場の建設に徴用されて従事することになった。徴用された人たちは六月八日、那覇市与儀の兵舎に集合し翌九日に暁部隊の輸送船で那覇港を出港、十一日に石垣港から上陸した。即日、第一二八野戦飛行場設定隊(球一五三九二部隊)の指揮下に入り、飛行場の建設作業に従事した。以下に、八重山に徴用された徴用人夫および関係者の証言を掲載する。
三か月の約束が四か月に
池原※※の証言(読谷山からの徴用人夫の妻 楚辺)
うちのおとう(池原※※、当時三十八歳)は石工だった。北飛行場に徴用されている時に、八重山への徴用の知らせがきたから「どうせ行くなら、寒くならない前に行ってくるさ。三か月間の徴用だから」と言っていたよ。その頃から、沖縄の人間はスパイに見られることもあったし、戦争に関することは秘密にしなければならなかったのかねって思うさ。八重山に行くにも、いつどうやっていくのかは家族にも秘密だったかも知れないよ。だっておとうは、八重山に行く時もただ「行ってこようね」と言って、そのまま行ってしまったから。八重山へ行くこと、その前に那覇で訓練受けることは聞かされていたけど、それ以上のことは、私、何も知らされていなかった。どこから船に乗ったか知らないけど、でもたしか対馬丸に乗る人たちより先に家を出ていったと思うからよ、六月ぐらいにおとうは出たんじゃないかね。
仲栄※※の証言(八重山徴用人夫・大正四年生 大木)
八重山徴用は、前もって三か月間という約束だったが、一か月間延期されたために十・十空襲に遭い、多くの人が死んでしまった。この八重山徴用へは同じ字からは、私と宮城※※、糸村※※、糸村※※、眞栄田※※、喜名※※の五名が行った。そして私以外は帰りの船を割られて亡くなった。
同じ徴用に行って、生きて帰ってきたのが自分を入れて読谷に四名いますよ。中でも私と宇座出身の比嘉の二人は、徴用中に兵隊に召集されたために、助かることができたんですよ。八重山まで家から召集令状が送られて来たので、それを八重山徴用の責任者に見せたところ、私たち二人はすぐ帰ってもよいと言われました。その帰りの船が台風にひっかかって、慶良間に二、三日足止めされた。それから令状を持って集合場所へいったら、あんたたちが入隊する隊はもう八重山に出たから、あんたたちも早く行きなさい、と言われた。その時に、自分たちが入隊する隊は八重山にあることがわかり、本島に帰ったと思ったらまた八重山に行くことになった。
八重山に戻って入隊してからは訓練ばっかりで、飛行場造りはしませんでした。
陸軍白保飛行場の建設作業
読谷山からの徴用人夫たちは、どのような仕事に従事していたのであろうか。関係者の証言からみてみよう。
又吉嘉栄元大尉の証言(特設警備隊第二二六中隊長)
石垣島には私たちよりも先に、白保飛行場設定のための山田隊(第一二八野戦飛行場設定隊・隊長山田大尉)というのが来ていたが、この山田大尉(滋賀県出身山田新右衛門)から、七月二日に「明九時半から石垣島の暁部隊で打ち合わせをしたいから来てくれ」という連絡があった。行ってみると、山田大尉は沈痛な面持ちで「この島には部隊の配備が当分困難だから、現在おるわれわれだけで警備、防禦態勢を整えねばならん。自分は飛行場設定について参謀本部から矢のような催促を受け、それを急がねばならんので、警備の方は貴官でよろしく」と私に頼みがあった。そうしているうちに、八月になって宮古島から独立混成第四十五旅団の宮崎旅団長らが石垣島に赴任してきたのである(石垣市『市民の戦時戦後体験記録第三集』)。
飛行場工事の進捗を図るようにとの参謀本部からの矢の催促にもかかわらず、いかんせん作業機材は原始的なスコップ、シャベル、ハンマー、モッコ等で全く能率は上がらなかった。それでも、八重山の民間団体および徴用人夫の奉仕と頑張りで、八月下旬には主滑走路(巾五〇メートル、長さ二〇〇〇メートル)を完成させ、引き続き補助滑走路、掩体と周辺における陣地構築に注力した(『みのかさ部隊戦記』)。
仲栄真※※の証言
白保飛行場での仕事は、整地、滑走路造り、誘導路造り、その他の作業というように班が構成されて、それぞれの作業を専属でやっていた。私は整地作業班に入れられた。六名がグループになって土を掘り起こす作業とトロッコに土を入れて窪地に運ぶ作業を分担してやっていた。朝は八時から夕方まで毎日おなじ作業だった。請負制で、頑張ると早く帰れたが、仕事はきつく、毎日が疲れていたなーという思いがする。川で浴びるとマラリアにかかると言われていたが、私もマラリアにかかり四〇度の熱を出して五日間も寝込んだことがあった。また、食料が少なく、いつもひもじい思いをしていた。食事のことではデージ(大変)な思いをした。イモを小さく四角に切ってそれに米が少々入ったイモご飯を主食にしていた。米よりもイモが多かったんだから。驚いたことには、おつゆ椀は大きな竹を切って作った物を使っていた。大勢の徴用人夫が行ったから、食器が不足していたんだろうね。良い思い出としては、白保の部落に行き、民家からバナナを買って食べた時の美味しかったという思いがある。
食料が乏しく、食器すらままならなかった劣悪な条件のもと、徴用人夫たちは日々汗水流して飛行場建築に従事したようである。徴用人夫たちを指揮監督していた第一二八野戦飛行場設定隊の山田隊長は戦後次のように回想している。
「器材が少なく飛行場造りには非常に苦労した。てん圧機とトラックが主で、他にエンピ、十字鍬しかなかった。軍からは日限を切られ、幅五〇米で長さ二〇〇〇米の飛行場を、期日は忘れたが何月何日までに造れとの命令で、私は全力を尽くして陣頭指揮をした。島民は山田部隊長に続けとついてきた。飛行場は期日までにできて長参謀長から褒められ、賞辞を貰った(『陸軍作戦』)。」
山田部隊長は期日内に飛行場を完成させて褒められたようだが、徴用人夫たちは、期日を間にあわせるためとのことで三か月の約束であった徴用を一月延ばされている。本来ならば九月に帰れるはずが、任期を延ばされたために、彼らは帰りの船が十・十空襲と遭遇してしまうことになったのである。
以下に、兵隊として八重山に行き、亡くなった徴用人夫たちの飯場を訪ねた大城※※の証言、そして中部出身者の徴用人夫たちで構成されていた班の班長をしていた新垣※※の証言、さらに小さい船に乗船して生き残った徴用人夫の証言を紹介する。
大城※※の証言(八重山の部隊に入隊、十・十空襲を石垣で体験・大正六年生 高志保)
途中、危険な目に遭いながらも(私の部隊は)九月二十六、七日頃に辿り着いたのは石垣島でした。上陸後、まず石垣の宮良国民学校に行き、そこでマラリアの予防注射を受けました。その時、読谷出身で当時宮良国民学校の校長を務めておられた大湾※※先生が私に声を掛けて下さいました。その日、読谷出身者七、八名が先生のお宅で食事をご馳走になりました。
九月二十八、九日頃宮良の国民学校を出発し、白保集落に行きました。二、三日して、地元の人から、本島から徴用人夫の人たちがきていることを聞いて、私はバナナ五円分を買って面会に行きました。飛行場の飯場を訪ねると同じ字の人が五人いました。しかし内三名がマラリアにかかって寝込んでいたので、残りの二人とバナナを食べながらいろいろ話し合いました。その中の一人、大城※※(※※)は「私たちは近いうちに家に帰ることになっている」と喜んでいました。しかし、彼らを乗せた本島行きの船は、十・十空襲の日に久米島沖を通過中、米軍の攻撃を受け撃沈されました。私がそれを聞いたのは後になってからの事でした。本当に残念だと思いました。
実は同じ船に大湾※※さん一家も乗ることになっていたそうですが、※※さんが熱発したため、一家はその便で帰るのを断念して、次に出た船に乗って沖縄へ帰ったらしいんです。
ですから、熱が出なければ死んでいただろうと※※先生の奥さんが言っていました。
新垣※※の証言(第一二八野戦飛行場設定隊軍属班長・大正七年生)
徴用人夫は全員で七五〇名余でした。出身地域によって三つの班に分かれていました。私の班は二班で、班員は約二〇〇名、本島中部の者が中心でした。
一九四四年(昭和十九)六月八日、軍雇用命令により私たちは八重山白保飛行場の建設に従事することになりました。それから約四か月の軍務を終えて、満期となった私たちは十月八日に帰れることになりました。私たちのために用意された帰りの船は暁部隊の輸送船で、三〇〇人乗りの大きい船が二隻に、三〇名乗りの小さい船が五隻でした。
一班から三班の全員と、私たちの二班からは二、三〇人が大きな船に分乗し、残りの班員は小さな船に分かれて乗ることになりました。
私は、小さい船団五隻に乗る一五〇名分の名簿を預かりました。同じ班なのに、乗船は大きい船と小さい船に分けられてしまって、小さい船に乗る者は、大きい船に乗る者を羨ましがりました。大きい船は速度が速いので、二、三日もすれば那覇に着きますが、小さい船は一週間ぐらいかかるのです。ですから、小さい船に割り当てられた人でも「自分のシマンチュはあっちに乗ってるから」と言って、大きい船に乗った人もいました。私は小さい船の名簿を渡されていて、責任を与えられていたので、大きい船に忍び込むわけにもいかなくて、小さい船に乗ったんです。
八重山から船が出たのは午後でした。宮古島までは大船も小船も二、三隻の駆逐艦に守られて同行していました。
しかし九日、宮古島を過ぎる頃には船足の速い大きな船は、私たちの船からは姿が見えなくなってしまいました。宮古近海を航海していたとき、敵機グラマンと爆撃機の十数機が来襲して、攻撃を始めました。護衛にあたっていた駆逐艦が応戦していましたが、私たちの小さな船は直接受ける爆撃もさることながら、荒立つ波で転覆しそうなほど揺れていました。
ところが翌十日の朝になると、それまで同行していた駆逐艦が何処へ行ったのかいなくなっていました。そのため十日の朝十一時ごろにグラマン五機が来て再び爆撃が始まると、それぞれの小さな船に同乗していた三、四人の兵隊が船に備え付けてあった高射機関銃で応戦するのみとなりました。
米軍の攻撃は、ずっと続くわけではなく、一日の間に何回かに分けて来襲しました。その間に日本軍機五〇機ほどが編隊を組んで飛んできたので、私たちは友軍が米軍機をやっつけにきたのだと喜んだのですが、夕方になるとまた米軍機が来て、私たちの船は再び攻撃を受けました。この時の攻撃で、五つの小船で組んでいた船団はバラバラになってしまいました。日が沈んで暗くなっても攻撃は続きました。なんとかその日の攻撃を持ちこたえて晩を迎えました。私たちの船は攻撃を避けるため、奄美の喜界島近海に避難しました。
そうこうして逃げ回っている間に、十・十空襲の日から二、三日は経過していました。私たちは次に慶良間島に行き、負傷者を降ろしてそこで一晩過ごしてから、那覇に向けて出航することにしました。そこにいた日本軍に、非常事態だし、那覇港周辺の沖合いには米軍の上陸を恐れて機雷があるから、それにかかると船が沈没するから、しばらく待つように言われました。それで那覇に戻る時も警戒監視船に誘導されて那覇港へ十三日に上陸しました。
那覇は灰じんに帰し、県庁は別の場所に移っていました。私は渡されていた名簿から乗組員の名前をチェックし、航海中の空襲の状況を県庁に報告してから、雇用を解除して帰郷しました。その時私たちは、大きい船二隻は船足が速いから、他のみんなは十・十空襲にぶつからずに本島へ帰れたのだろうと思っていました。
島袋※※の証言(徴用人夫・明治四十三年生 沖縄市出身)
私はポンポン船グヮに乗っていたから助かったんですよ。
「ポンポン船に乗るよりは大きな船がいい」と言って、交代して大きい船に乗ったために亡くなった人もいますよ。久米島沖で大きな船は割られたからよ。
私たち大里の者は、みんな大きな船に乗ることになっていました。大きな船には縄梯子がかかっていて、その梯子を登って乗船するのですが、私はこの時マラリアにかかって体が弱っていたので、グラグラ揺れる縄梯子をのぼるだけの元気がないんですよ。
私がどうしても大きい船には乗れないことがわかると、同じシマの大里の人たちは、私一人をポンポン船に乗せるより、自分たちも同じ船にしようと言って、みんな小さい船に乗ってくれたんですよ。
私たちの船は宮古で二、三日停泊して、十・十空襲の時は、宮古のアダン葉の下に船ごと隠れていました。大きな船が沈没した事は、船の中で話を聞きました。無線で情報が入ったのか、はっきりはしないですが。
結局回り道するような船の進み方で、八重山を出発して那覇に着くまで一一日もかかっていましたよ。
やっと那覇に着いたものの、私には歩く体力も残っていませんでした。幸い同じシマの方が、その日ちょうど那覇の港に配給米を取りに来ていたので、その馬車に乗せてもらって帰りました。
こうして、読谷山村民六四名を含む約六〇〇名の徴用人夫たちは、十・十空襲によって海没戦死したのである。沈没したその船より、ただ一人生き残った喜友名※※さんの「行動の概要」という書類を入手したので紹介する。これは、戦傷者への年金取得のために、喜友名さんが厚生省へ提出した書類の一部である。これによって、船が沈没した際の詳しい状況を知ることができる。
喜友名※※「行動の概要」(抜粋)
行動の概要
喜友名※※ 明治四十二年生
旧本籍 沖縄県中頭郡与那城村字宮城
昭和十九年六月十一日 第一二八野戦飛行場設定隊
球一五三九二部隊
出発は那覇市与儀の兵舎に集合
昭和十九年六月十一日八重山石垣港上陸
陸軍航空基地設定に従事(八重山石垣白保飛行場)
任務約六ヶ月間帰りは徴用船大船団二隻小船五隻に各班分けで分乗八重山石垣港から船団を組んで出航しました。昭和十九年十月八日出港
途中で船団は別々の行動をとる
私の乗っていた徴用船には六〇〇名くらいの戦友が乗船していたとおもいます
徴用船の舵が故障して久米近くのコースを行くよう上官からの命令があった
櫻木軍曹から敵の攻撃があるから覚悟しなさいと注意されました
昭和十九年十月十日午前七時頃最初敵のグラマン二機で爆撃され追ってB二九約十機位きて爆撃を受け、久米島沖二十浬のところで船は撃沈された
B二九の猛撃により爆風で倒され頭強打されその時傷を負っていたが人事不省になり当時記憶になかった。
船が沈んで救命着を着たまま海に浮いていた
昭和十九年十月十日午前七時頃から敵の猛撃を受け八時頃海に浮上敵の機関銃の銃撃を受けながら久米島を目標に無我夢中に泳いだ
昭和十九年十月十一日午後五時頃久米島の鳥島部落の浜に着く
久米島鳥島部落の浜に着くや気絶して倒れているのを部落人に救われ警防団に連絡七名の警防団員がタンカで警防団本部に担ぎ込み手当てを受け手厚い看護により一週間看護されましたが警防団本部では人の出入りが多く今は故人で仲宗根氏の家に一週間療養して久米島から徴用船で那覇に着く
那覇市は全滅しあちらこちらに駐在所が新しくありました。駐在所に行き事情を話し駐在所の巡査が道順を教え与那城村字宮城の自宅に帰ることが出来ました
補足として、喜友名※※さんの弟※※さんの証言、そして再び新垣※※班長の証言から、生き残った※※さんの語った十・十空襲時の状況、その後のことについてみてみよう。
喜友名※※の証言(宮城島在住・八十五歳)
うちの兄弟は三人とも海人だよ。南洋でも鰹船に乗って兄弟で仕事をしたんだよ。でも鰹漁に使っていた船を徴用されてしまったから、※※兄さんは一九四三年(昭和十八)に沖縄に帰った。私は南洋に残って仲宗根※※さんという人のもとで働いたんだ。
兄さんは素潜りがとっても上手で二五メートルぐらいは潜って、魚を取ることができたよ。二〇メートルより浅い所では面倒くさがって潜らないぐらいだった。すごく上手な海人だったんだよ。貴乃花みたいな体格で、すもう取らせても島で一番強かった。
兄さんは、島までたどり着いて安心したからか意識がなくなって、浜で倒れてしまったんだよ。
海端を歩いていた男の人が通りかかって兄さんを見つけた。その人が兄さんを起こしたら、兄さんは目をあけたらしい。その人は兄さんに「あんたは何処の人か」とたずねて、兄さんは「私は喜友名※※です」と答えたそうです。その男の人は「喜友名※※と言ったら、あんた喜友名※※分かるか?」と聞いたって。兄さんは驚いて「はい。喜友名※※は私の弟です」と答えたそうですが、実はこの人は南洋で私を雇っていた仲宗根※※さんだったのです。私と兄さんの面影が似ているのに気づいたらしいです。
仲宗根さんが兄さんをまかなって、元気になして沖縄に帰したと、そういう話していた。兄さんは「こういう風に助かったのも、親たちが見守ってくれたんでしょう」と言っていた(二〇〇一年調査)。
新垣※※の証言
大きい船に乗った班員は全員亡くなったのだろうと思って諦めていた私の元に、班員の一人で大きな船に乗船した宮城島出身の喜友名※※さんが訪ねてきたのです。
話を聞くと、やはり喜友名※※さんの乗った大きな船は久米島沖でB29の直撃を受け、撃沈されたそうです。みんな救命胴衣を着て海に飛び込んで、はじめのうちは海にたくさん浮いていたそうです。ところが、喜友名さんの話では、救命胴衣を着けて浮かんでいた人も、米軍機からの機銃で亡くなられたそうです。
喜友名さんはもともとウミンチュをしていたから、浮いたり、沈んだりしながら逃げたと言っていました。当時三十四歳ぐらいでしたが、「桃原マギー」と言われるくらい、体格が立派で身長は一七〇センチ以上あったと思います。
喜友名さんは、船が攻撃される前に、久米島の島影を見ていました。それで、久米島をめざして伊計島出身の友人と泳ぎ始めたそうです。「慌てずにゆっくりゆっくり泳げ」とその友人を励ましたけど、いつのまにか姿が見えなくなっていたよ、と話していました。結局、一昼夜かけて久米島にたどり着いたのは、喜友名さん一人だったそうです。意識不明で倒れているところを、久米島の警防団の人に助けられたと言っていました。
喜友名さんの話では、「どうしてだか知らないが、せっかく陸にあがったのに、いろいろ取り調べられたよ。スパイじゃないかと疑われたんじゃないのかね」と言っていました。喜友名さん一人だけが助かったからかもしれないですね。
喜友名さんの話で、私が大変驚いたのは、マラリアにかかって医務室に入室していた班員たちまで喜友名さんと同じ船に乗船していたと言うことです。彼らは病気のために、同じ船では帰ることが出来ないからと、私は船に乗る前に見舞いに行ったのです。その時までは彼等は八重山に残ることになっていたのに、ぎりぎりになって、希望者は帰ってもよいという許可が下りて、結局私の班員はみんな喜友名さんと同じ船に乗ったそうです。私は彼等は生きているものとばかり思っていたので、非常に残念でなりませんでした。
遺族年金の申請
生き残った喜友名さんは、戦後一〇年ほど経ってから、亡くなった戦友である徴用人夫たちの遺族年金を勝ち取るために尽力した。尽力の甲斐あり、村民犠牲者の遺族にも年金がおりている。以下にその経緯を関係者の証言等からまとめる。
仲栄※※の証言
十・十空襲の後は、完全武装して白保に行っていた。
十・十空襲で船が沈められたことは、八重山にいる時に分かっていた。読谷に残された遺族から「私の家族に会わなかったね?」という内容の手紙が私のところに来た。遺族も薄々は気付いていたんじゃないかと思う。いつ頃船が着くということは、連絡を本人から受けて知っていたはずだから。しかし長いこと帰ってこないので…。
彼と私は同じシマで、私が兵隊に行っていることを知っているから、それで私の家族のところに遺族は来ていたようです。それで家から手紙が来ていました。「一か月たっても、まだ帰ってこないけど、徴用の人たちはどうしたのか、家族の人たちが心配しているけど」と。
宮城※※さんの奥さんはとっても頭の切れる人で、この人が戦後いろいろ調べていた。すると「宮城島のウミンチュが泳いで渡った」という話を聞いて、そのウミンチュを探してあてて、それから年金も申請したわけだ。私に後で、この宮城島の人を証人にして年金もらったよ、と話していましたよ。
池原※※の証言
私たち久米島沖での船舶遭難者遺族に補償ということで、一時金受け取るか、どうするかというのがあったけどさ。一時金じゃ、納得できないでしょう。生き残った宮城島の人は自分は目も見えなくなってるけど、「私たちは兵隊と一緒の働きをしたのに、一時金では嫁や子供たちがかわいそう」と何度も県援護課に申し立てしに通ってくれた。
あんな遠い宮城島からこの人が私達と一緒に何度も那覇まで往復してね。
この人のおかげでおとうたちは軍属って扱いをされて、今のように恩給ももらえたわけ。だから村から一三名で御礼に行ったよ、宮城島まで。あっちまで行く人も行かない人もみんな一ドルずつ集めて、ボンボン時計を買ってあげましたよ。
新垣※※の証言
こうした喜友名さんの証言で、八重山の徴用人夫が帰途に撃沈されて戦死したことは間違いないということが認められ、遺族年金が下りることになった。喜友名さんは、この空襲の際に破片が目の中に入ってしまって、最初に左目が失明し、後にもう一方の目までが失明している。昭和五十五年、私も証人になって、傷病手当の支給を受けられないかと援護課に通ったが、結局喜友名さんには下りなかった。