第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦
空襲と艦砲射撃


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3 一月三日の空襲

(天気、快晴、雲量極少、雲高約一五〇〇米、風東北方向、風速三〜五米)
 空襲に先立って、八時四十分にB29一機が東の方向から侵入し、高度約八〇〇〇メートルで中飛行場上空と那覇の上空を旋回し偵察した。これに対し、高射砲部隊は砲撃を集中したが撃墜できず、敵機は東方に逃れていった。
 午前中の九時三十分頃から十時頃にわたって米艦載機延べ約五〇機が沖縄本島に来襲、主として北飛行場や中、小禄の飛行場と那覇地区を銃爆撃した。
 九時二十七分、読谷山在の電波警戒隊(安武隊)は南南西の方向約八〇キロメートルを進航中の編隊群を捕捉した。またしても、空襲警報発令のないまま九時三十分、北飛行場はグラマン戦闘機四機の攻撃を受けた。これがこの日の空襲の始まりであった。守備軍は九時三十二分、沖縄本島地区に空襲警報を発令した。
 なお、この日は台湾に米艦載機延約五〇〇機、宮古及び石垣島にも少数機が来襲した
独立高射砲第二十七大隊第三中隊(字座喜味在)の「戦闘詳報」
戦闘詳報要図
画像
 「〇九〇一軍機教練中戦闘姿勢発令 直チニ定位ニ就キ至厳ナル監視ヲ続行 〇九〇五那覇方向ニB29一機(高度八五〇〇)発見ス 〇九〇六威力圏内ニ入ルヤ第一群射ヲ発射 次イテ〇九三八敵グラマン戦闘機編隊ヲ那覇方向ニテ捕捉ス 嘉手納上空ニ侵入スルヤ該機ハ二又ハ三機編隊トナリ 太陽及密雲ヲ巧ミニ利用シ北飛行場ニ急降下銃撃ヲ行ヘリ 我ハ逐次侵入スル敵機ニ対シ熾烈ナル集中射ヲ実施セシ為 何レ蒼惶トシテ西方向ニ脱去ス」
国吉※※の証言(豊沢伍長の死)要約
 当時、私は第五十六飛行場大隊の第二事務所に勤務していました。事務所は飛行場の西北側にあった大当(屋号)の空き家を使用していました。事務所の仕事は、飛行機の離発着の情報を受信し、記号による秘密情報を大隊本部に届ける役目をしていました。
 私は一月三日も早めに出勤していました。事務所には豊沢伍長、菅沼軍曹、山桝特務曹長が来て、遅れて家田中尉が馬に乗って出勤してきました。中尉が事務所に出勤してきて間もなくのことでした。突然、ギューンという耳をつんざくような音と共に三機編隊の敵のグラマンが、地上から約三メートルくらいの低空で飛行してきて、「ダ、ダ、ダー」と弾を事務所に撃ち込んで来ました。「空襲だー!こらぁ大変だー!!」と兵隊たちはみんな逃げていきましたが、豊沢伍長だけが机の上に書類をかき集め、風呂敷に包んで退避させようとしていました。その時、「ダ、ダ、ダー」とふたたび米軍機の銃撃が始まりました。私はびっくりして伍長の後ろで身をかがめました。その時、「プスーン」という音がして、私の頭頂部に熱いものが走り、パッと顔を上げると豊沢伍長の背中が、大きくえぐれていました。豊沢伍長は「逃げろ、娘を死なせては申し訳ない、逃げろ」と言うと、バタンと倒れました。
 空襲が終わり、家田中尉や菅沼軍曹たちが、避難していた壕から事務所に戻ってきました。血の海にあえいでいた豊沢伍長を見た家田隊長は、「軍曹、楽にしてやれ」と命じました。軍曹は「はい」と言うと、拳銃で一発撃ちました。死ぬ間際に、豊沢伍長は「お父ー、ごめんよ」とつぶやきました。
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