第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦
空襲と艦砲射撃


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7 三月一日の空襲

(天気 曇、雲量一○、雲高六〇〇〜七〇〇、対空射撃不利)
 一月二十二日の米機動部隊の来襲後、二月末まで沖縄本島に空襲はなかった。しかし、三月一日には朝七時から午後三時までの間、艦載機延べ約六七〇機が七波にわたって断続的に空襲してきた。
 軍司令部は二月二十六日、「廈門(アモイ)情報ニ依レハ二十八日夕在支米空軍及太平洋方面空軍ハ本土及南西諸島、台湾ノ爆撃ヲ企図シアルモノノ如シ」との情報を発して警戒した。二十七日朝、B24一機が本島上空に偵察に来襲し、次いで午後一時、B29一機が那覇港に投弾して脱去した。二十八日にもB29一機が九時十五分〜十一時十七分の間に五回侵入し、偵察した。高射砲部隊はこれを砲撃したが、効果は得られなかった。
 軍高射砲隊は二十八日のB29の綿密な偵察状況と那覇港に船舶在泊中とを考慮し、三月一日六時三十分から特に警戒を厳にしていたところ、六時四十五分に大編隊接近中との海軍情報により、軍司令官は七時空襲警報を発令した。
 敵機の来襲状況と攻撃目標
第一波 〇七〇四〜〇八一〇 延べ約一五〇機
    那覇港船舶及び北、中飛行場を急降下攻撃
第二波 〇八一〇〜〇九〇〇 延べ約一六〇機
    船舶、飛行場のほか対空火器陣地を攻撃
第三波 〇九一〇〜一〇一〇 延べ約六〇機
    攻撃目標は二次とほぼ同じ
第四波 一〇一〇〜一一二〇 延べ約八〇機
    船舶及び飛行場を攻撃
第五波 一一二〇〜一二三〇 延べ約七〇機
    船舶、飛行場を攻撃 那覇港在泊の駆逐艦沈没
第六波 一二三〇〜一三三〇 延べ約七〇機
    渡具知部落西方海上の機帆船を攻撃
第七波 一三三〇〜一五〇〇 延べ約六五機
    対空火器陣地、北飛行場附近及び部落を攻撃
 軍はその日十一時十五分頃、来襲した機動部隊について「敵ノ企図ハ上陸ニアラスシテ小笠原作戦ニ関連スル後方遮断及牽制ト判断セラル」との情報を発している。
 軍司令部はその日の損害を次のように報告した。
 戦死 下士官以下二二名、戦傷 将校以下四三名。飛行機四機炎上。船舶 輸送船六隻沈没、更に増加の見込み。家屋の損害 兵舎二、倉庫一、民家約二〇〇炎上。民側の死傷者三五名
第二十一野戦高射砲隊司令部(字大湾在)の戦闘詳報
 「〇七一七グラマンF6F八機東南方ヨリ高度約三〇〇〇航速一二〇ニテ本島ニ侵入在那覇港船舶並ニ北及中飛行場ノ着陸機ニ対シ銃撃ヲ開始 爾後〇八一〇ニ至ル間約一五〇機殆ト間断ナク来襲ス」「敵機ハ本第二波ニ至リ高射砲陣地並ニ機関砲陣地ヲモ銃撃ス尚渡具知沖ニ機帆船ヲ発見シタルモノノ如ク同部落西方海上ニ対シテモ銃撃ヲ開始ス」「第三回戦闘(中略)〇九〇〇ヨリ一〇一〇迄ノ来襲機ハ約六〇機ニシテ(中略)急降下銃撃ヲ主トスルモ次第ニ爆撃ヲモ敢行スルニ至ル」「一〇四六敵ハ渡具知所在ノ機帆船ヲロケット弾ニテ爆撃ス」「第四回ハ約延八〇機来襲ス 本戦闘中那覇上空ハ雲量次第ニ増加 敵機ハ低雲ヲ利用シ突如雲中ヨリ急降下那覇港所在船舶並ニ駆逐艦ヲ急襲 北及中飛行場ニ対シテハ引続キ銃撃ヲ加フ」「第五回戦闘(一一二〇〜一二三〇)敵ハ益々執拗ニ度ヲ増シ延約七〇機来襲セリ」「特ニ一一二五以降グラマンF6F、(中略)二十数機ニテ碇泊中ナル駆逐艦ニ対シ猛烈ナル銃爆撃ヲ敢行ス(中略)該駆逐艦ハ艦尾ニ直撃弾ヲ受ケ右ニ傾斜一一五五沈没ス」「第六回戦闘(一二三〇〜一三三〇)本戦闘ヨリ敵機ハ渡具知海上ニ在リタル数隻ノ機帆船ヲ目標トシ約三〇米ノ超低空ニテ東方山間ヨリ侵入途中家屋道路等ニ銃撃ヲ加ヘツツロケット弾ヲ以テ機帆船ヲ爆撃一隻ヲ炎上セシム飛行場掩護部隊ハ好機ヲ掴ミ適時射撃ヲ開始シタルモ敵機ハ山間ノ低地ヲ縫ヒ超低空ニテ侵入シ且其ノ爆音ハ近距離ニ至ル迄聴取困難ナリキ」「第七回ノ敵機ハ主トシテ対空火器陣地並ニ北飛行場附近ノ顕著ナル道路部落及ヒ誘導路等ヲ銃撃ス敵機ハ今朝来同様グラマン(中略)十数機編隊ヲ以テ主トシテ東南ヨリ丘陵ノ間ヲ縫ヒ超低空ヲ以テ侵入途中道路部落ヲ銃撃シ遂ニ一四四五座喜味部落ノ一部炎上スルニ至ル且一部ノ敵ハ北飛行場ニモ投弾誘道路上ノ偽飛行機ヲ襲撃」
大湾※※(渡具知、昭和五年生)比嘉※※(渡具知、昭和六年生)の証言
 私達は当時、高等科二年生と一年生でした。その日は朝の早い時間から空襲でした。いつもと違うのは、敵機がたいへん低空で空襲したことです。せいぜい五〇メートルぐらいのところから銃爆撃をしていました。私(比嘉)の家族は自分たちで掘った防空壕に避難しました。大湾※※の家族はとりあえず屋敷内の防空壕、あの縦掘りの簡単な退避壕に避難しました。
 渡具知集落の地勢は、特に比謝川沿いに大小の自然洞窟(ガマ)や巨岩が多く、激しい空襲の時にはそこを避難場所にする家庭が大半でした。また、これまでの空襲は、ほとんど、渡具知から北に遠く離れた飛行場を目標に攻撃していました。そういうことで、自分(大湾)の家族も後に空襲の合間にガマに避難しましたが、その際に空襲の様子を見てみようと、飛行場方面が見渡せる北向きの小さなガマに身を潜めていました。すると、敵機はパイロットの顔がはっきりと見えるほどの低空で、銃撃しながら眼の前を通過していきました。これは大変ということで、家族のいる避難場所に戻りました。
 空襲が終わり防空壕から這い出て見ると、集落内に三個の爆弾が落ちていました。空き地に約一〇メートル離れて二個、一個は波平※※さん宅に落ちていました。波平さんの所は、母屋が上座を残して半壊し、畜舎を含めて全てが粉々になっていました。弾痕が五〇〇キロ爆弾のものより小さかったので、たぶん三個とも二五〇キロ爆弾だったと思います。また、集落内には機関銃弾の薬莢やその帯金がたくさん落ちておりました。そして、珍しくも万年筆爆弾もありました。とにかく、その日の空襲はたいへん激しく、危険を感じた空襲だったのでいまだに覚えております。
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