第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦
空襲と艦砲射撃


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8 米軍上陸前の空襲と艦砲射撃

 三月二十四日夜に独立高射砲第二十七大隊第三中隊(字座喜味在)が具志頭村等へ移動したのをはじめ、三月二十六日夜にはその他の高射砲部隊の第二十一野戦高射砲隊司令部(字古堅在)、独立高射砲第七十九大隊第一中隊(字座喜味石根原在)、野戦高射砲隊第八十一大隊(字伊良皆・大木在)の全部隊、機関砲第一〇五大隊(字楚辺在)が南部の指定された地域へそれぞれ移動して行った 。また、第五野戦航空廠第一分廠(旧那覇分廠)、中央航空路部沖縄管区、その他北飛行場関係部隊のほとんどが「第六十二師団長ノ区処下ニ首里石嶺附近ニ於ケル戦闘ヲ準備」するため三十一日夜までに移動することは既定の方針であった。かくて、引き続き留まることになった第五十六飛行場大隊(第九一七三部隊)及び第五〇三特設警備工兵隊は、従来の任務である飛行場の補修作業を遂行しつつ、三月二十三日に下命され新しく編成された特設第一連隊第一大隊としての作戦準備にも取り組まなければならない立場にあった
 陸軍には参謀本部第二課(作戦)が戦況報告を整理記録した「戦況手簿」、海軍では沖縄方面特別根拠地隊(略称=沖根)等が送受信した電報が「電報綴―南西諸島」という形で残されている。これらの資料を基に、上陸前の連続空襲が始まる三月二十三日から四月一日までの戦況の推移を見ることにしよう。まず、沖縄本島へ来襲する米軍機の数、本島周辺海域に出現する艦船の数、読谷山地域への艦砲射撃の弾数を表にすると次の通りである。
 なお、大本営陸軍部第二課が現地部隊からの戦況報告をまとめた「戦況手簿」には、米軍の北飛行場地域に対する攻撃の様子が頻繁に記録されている。その中には読谷山村域への艦砲射撃として、三月二十六日のところに「北♯(飛行場の記号)九〇」と記録されている。三月三十日には「本島周辺ノ敵艦艇終夜照明弾併用シツツ北、中飛行場、北谷、小禄、港川附近ニ対シ砲撃並ニ掃海ヲ実施中」とか「敵ノ総発射弾数二十万発、三月三十日迄総艦砲射撃弾数約二万発」などの記録もある。

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三月二十三日の空襲
 その日の朝七時、第三十二軍司令官は南西諸島全域に空襲警報を発令した。本島地区は七時十五分から夕刻に至る間、米艦載機延べ三五五機の攻撃を受けた。十時三十分の索敵機により本島の南東九〇キロメートル附近に空母を含む機動部隊を発見し、次いで夕刻、本島東方一〇〇キロメートル附近に艦艇群を発見した。軍司令部は二十三日に南西諸島に米機動部隊が来襲することに対してはやや意外という受け止め方をしていた。
 第三十二軍は機動部隊が上陸船団を伴っているかどうか、特に注意していたがその日は判明しなかった
仲宗根※※の証言(宇座)要約
 一九四五年(昭和二十)三月二十三日、守備軍のほとんどが南下して、住民ばかりが残されていた宇座に、米軍は凄まじい爆撃を加えて民家を焼き払いました。その日は私達の卒業式が行われるはずでした。私は字の生徒会副会長を務めていたので、朝、会長の山内※※と登校を呼びかける太鼓を打っていました。すると米軍の艦載機がトンボの大群のようにやってきて、猛烈な空襲を始めたのです。家に帰る者、壕に隠れる者、その余裕さえない者は道端に隠れて敵機をやり過ごしました。私は新屋の屋敷に造ってあった壕に逃げ込みましたが、自分の家が焼け落ちる様子を壕から見ていました。
 宇座にも警防団があって消火活動を担うことになっていましたが、三月二十三日の空襲では全く機能しませんでした。上空は戦闘機が飛び交って爆撃を加え、下は火の海だったので無理もないことだったと思います。この日の爆撃は朝から夕方まで続きました。
三月二十四日の空襲
 第三十二軍は、米軍の動向について警戒をしていたところ、朝六時二十五分ころ本島南部の沖合に米艦隊が目視されるに及んでいよいよ緊張した。米艦載機は六時五十分ころから来襲し、南方海上の約三〇隻の艦艇は九時ころから西航しつつ、本島南部地区に艦砲射撃を開始した。
 この日の来襲機は本島地区六〇一機、大東島五九機、奄美一二機、宮古五〇機の計七二二機であった。艦砲射撃は南部港川の海岸地区に一分間に二発の割合で計約七〇〇発に及んだが被害は少なかった。米艦艇群は、五時五十分ごろ南進して視界外にさった
 軍司令官及び幕僚らは首里城址の台上から艦砲射撃を観察し、米軍の沖縄への上陸が避けられないと判断した。
 第三十二軍は第五航空艦隊から、機動部隊攻撃後の友軍機が沖縄本島の各飛行場に帰投する予定との通報を受け、第十九航空地区司令官(字大湾在)をして飛行場の整備とその他の協力に当たらせた
 なお、同日の電報綴には「〇六四五ヨリ一七二五迄来襲機(中略)北飛行場出現機数延七〇〇機」とある。
玉城※※の証言(渡慶次)要約
 三月二十四日も、朝から米軍のグラマン機による空襲である。連続して二日も空襲を受けるのは初めてであり、若しや米軍は上陸を敢行するのではと不吉な予感がした。
 私は、東勢頭(アガリシードゥ)の南西の角にある大ガジマルに青年達と一緒に上って対空監視を務め、洞窟(ガマ)の中にいる人達へ見える範囲内の一部始終を報告していた。そのうち、字内の上空を飛行していた数機のグラマンは何を見たのか急に旋回したかと思うと、部落内を東西に何回となく機銃掃射を浴びせ、息つく間もなかった。
 集落内至る所、石垣にも立木にも家屋にも無数の機銃の弾痕が残った。物珍らしそうに皆でそれを見てまわった。
 屋号※※の屋根の天辺が煙り、燃え始めているのを二、三人で消し止めた。先刻の攻撃で※※のメーヌヤー(離れ)、※※、※※は大火事となり消火の手の施しようもない程となったが、幸いにして隣近所への類焼は免れた。井志の※※は、引っ切りなしに低空飛行で機銃掃射を浴びせられる中で、一人で必死の消火作業を続けていたが、あとで来援した人々とともに、一間と離れていない主家(おもや)への類焼を防いだ。
 三時頃また爆音がして来たので壕へとんで帰った。ドシン、ドシンと爆弾が落ちた振動が伝わった。壕内がその度に揺れて小石が落ち、土くずれが起こった。人々は、今にも壕がぺしゃんこになるような恐怖感に襲われた。胸を圧迫するような爆風と目もくらむような閃光が襲い、壕内の者は奥の方で一塊になり、肩を寄せ合いブルブル震えながらじっと恐怖をこらえていた。
 夕刻米軍機は姿を消し、地上はもとの静けさにかえり昼間の出来事は夢のようであった。
上地※※の証言(楚辺)
 私は球一八八一一部隊の軍属であったが、三月二十四日の午前四時ごろに軍属のみ解散となり、私たち読谷出身者は読谷へ帰ることにした。中飛行場まで辿り着いた時、時刻は朝の六時ごろになっていた。するとにわかに空襲が始まり、私たちは大急ぎで読谷をめざした。
 途中、皆とはぐれてしまった私は、大湾から現在の古堅南小学校のあたりの畑道を通って、てくてく歩いて楚辺までたどり着いた。それは当時古堅学校への通学路だった。
 夕暮れ時だったので周囲はまだ明るく、楚辺は七〇%ぐらいの家は焼け残っていた。家に帰ってみたら、親父が焼けた家に水をまいていたんですよ。茅葺きの母屋と畜舎があったが、全部焼けてまだ火が燻っていたため、隣近所への延焼を防ぐためだったのでしょう、バケツで水をまいていました。
三月二十五日の空襲
 第三十二軍司令官は、同日午前八時以降甲号戦備に移行するよう命令を下した。各部隊は命令に基づき戦闘配備に移行し、陣地の補強、飲料水の陣地内貯蔵、監視網の強化など作戦準備に努めた。この日、米艦載機は早朝五時四十五分ころから本島地区に来襲したが、その来襲機は延べ五一五機を数えた。また、艦船は朝早くから慶良間列島を砲撃し、午前八時ころから本島南部地区に砲撃を加えた。午後二時ころ本島周辺の米艦船四群計四四隻に達し、艦砲射撃は約二〇〇発であった
 「戦況手簿」の「情報其他」欄に、沖縄本島の守備兵力は八万六四〇〇人であると記されている。またこの日の海軍の「電報綴」には、「北飛行場ノ西方一〇キロ戦艦四隻 巡洋艦二隻 駆逐艦一〇隻 計一六隻」とある。
池原※※の証言(古堅)要約
 三月二十五日も空襲が激しくて、あちらこちらで爆撃されるたびに、防空壕の天井からどんどん石が落ちてきた。私は頭から蒲団を被ってぶるぶる震えていた。
 しばらくして、ダダーンと私たちの防空壕の前に爆弾が落ちた。私は「ワーッ」と、初めて恐怖で泣いた。親父に「大丈夫か」って聞いたら、「チャーンネーン、チャーンネーン(なんでもない、大丈夫)」って言うから、安心した。
 気を落ち着けてみると、爆弾で壕の入口が塞がれていた。それで、どんどん手で土を押し出しながら這い出てきた。外に出ると、煙で辺りが真っ暗になっていて、火薬の臭いがした。私は夢中で防空壕から飛び出し、走って逃げた。思わず、フルギンガーの湧き口を囲っている縁の上を走っていた。しばらく行くと、すってんころりん。気がつくと、私は倒れている軍馬の上を走っていたのだ。フルギンガーの周辺には大きな木がいっぱいあって上空から見えないので、そこに軍馬が何頭かつながれていた。それがみんな、爆風でやられてひっくり返っていた。その馬の肉は、後でみんなで食べた。
 そのときは、まさか空襲でこっちが爆撃されるとは思ってなかった。爆弾が落ちたのも何時だったか覚えていないが、夕方ではなかった。当時、フルギンガーの近くに防衛隊の炊事場があったから、炊き出しをしている煙が敵に見つかって爆撃されたんじゃないかと、後日聞いた。
島袋※※の証言(座喜味)
 空襲がひどかったので炊事は休む。荷物を裏の壕の中に運んで蒲戸島袋の防空壕に行った。兵隊も入っていたので満員だった。
 午後五時ごろ家に帰ってみたら、家は全焼していた。焼け跡の中に豚舎、大屋、石囲い、井戸の石柱、門の福木四本が黒く物悲しく焼け残っていた。私たちがそれをボーっと見ていたら、野口軍曹、飯村伍長、三村伍長の三人が火事の様子を見に来てくださった。なんとも言えず有難かった。
三月二十六日、読谷山に初の艦砲射撃
 この日、本島周辺には戦艦六、巡洋艦一〇、駆逐艦三八、輸送船一二、その他一二、計七八隻の艦船が目視された。米艦艇は、この日朝七時ころから初めて読谷山の北飛行場地区に九〇発の艦砲射撃を加えた。嘉手納の中飛行場地区には約七〇発を撃ち込んだ。この日の艦砲射撃は北・中飛行場地区にとどまらず、那覇南方(一〇発)や知念半島(五五〇発)にも艦砲射撃があった。なお、この日は伊江島や久米島も艦砲射撃を受けている。
 この日の空襲は沖縄本島に七一三機が来襲したが、宮古七九機、大東島九四機、奄美地区一二〇機で空襲するとともに、九州方面にもB29約一五〇機が航空基地への攻撃を実施しており、本土から沖縄への支援を遮断する作戦意図が窺える。なお、この日に慶良間島に米軍が上陸し、通信は午後四時に不通になった
 電報綴に「〇九〇〇ヨリ一三〇〇 一一〇機北、中飛行場及糸満等攻撃」とある。
比嘉※※(楚辺)の証言
 私は当時大きなおなかを抱えていたので、山原に避難することもできずに最初は楚辺に残っていた。
 昭和二十年三月二十六日頃の艦砲射撃のときに、私はおじいも一緒に日本兵が構築したイリジョーバカグヮーの壕に避難しようとしたが、おじいは「私は家と一緒に焼けてもいいよ。あなたたちはもう早く※※の家族も一緒に、親を頼って逃げ延びることができる所に行きなさい。私は家と一緒に焼けて極楽だよ」と、聞き入れてくれなかった。それでおじいはそのまま家に残ることになり、私は※※と※※を連れて避難することになった。
 私は家を出て行くときに、食事も準備して「おじい、食事も準備してあるから、食べなさいよおじい」と、泣きながら別れを告げて出て行った。家に残っていたおじいは、言葉どおりに家が燃えて、それに巻きこまれた格好で亡くなってしまった。
三月二十七日の艦砲射撃
 本島周辺の敵艦船はいよいよ増加して約一〇〇隻に達し、その艦砲射撃は朝から主に北、中飛行場方面と南部の港川方面に向けられた。そして北、中飛行場西方の海面では、米軍の掃海作業が見られた。この日の艦砲射撃状況は、残波岬から北谷の平安山にかけての地区に約六〇〇発、摩文仁から知念地区にかけて約三五〇発、小禄から喜屋武地区に二五発が撃ち込まれた。艦載機の来襲は本島に五五九機、奄美大島地区には約三〇〇機であった
上地※※の証言(楚辺)
 二十七日ぐらいから、避難していた喜名東の山も艦砲弾が飛んできた。艦砲は来るし、照明弾も夜はよくあがっていた。それでも、食べ物がなければしのげないので、私たちは楚辺まで芋を取りに行った。
 軍艦にむかって特攻機が来るんだが、飛んでいる特攻機には軍艦から伸びたサ―チライトが照らされている。特攻機はサーチライトに照らされながら、軍艦のほうに近づき、その軍艦から伸びた光がまっすぐ垂直になった時に、特攻機は急降下して突撃した。光が垂直になった時に、目標を確認できるわけだろう。芋掘りしているとそういうのを目撃した。「見事ヤッサー」と思って見ていた。艦砲射撃の音は「ぽん、ぽんぽん、ぽぽぽぽんぽん」とまるで太鼓を打つようだった。
三月二十八日の艦砲射撃
 沖縄本島は朝早くから空襲があり、八時ころから南部港川正面の米艦船は艦砲射撃を行うとともに、十数隻の上陸用舟艇はリーフの線まで来て、射撃と掃海を実施した後反転した。また、北飛行場及び伊江島方面は午後から艦砲射撃を受けたが、その数二〇四六発を数えた。「戦況手簿」には昼十二時三十分から「北飛行場附近海岸ニ熾烈ナル艦砲射撃ヲ受ク」と記されている。本島周辺の米艦船の状況は昨二十七日と大差は無かったが、午後一時三十分ごろの偵察では那覇南方約一五〇キロを北進中の空母四を含む輸送船約一〇〇隻の大船団を発見した。米軍航空機は、この日も南九州地区の航空基地を攻撃すると共に、沖縄本島を約五四二機で空襲した
 電報綴に「北飛行場沖戦艦五 巡洋艦五 駆逐艦六 掃海艇二八」とある。
島袋※※の日記と証言(座喜味)
 米軍上陸スルノ報 読谷指定所ニ二十八日の晩 出発スル
 日本の兵隊たちはアメリカーのことを「敵さん」と呼んでいました。「敵さんが上陸する恐れがあるから、姉さん達も早く指定地に避難したほうがいいよ」と、壕の近くにいた兵隊たちに言われ、山原に避難することにしました。
 三月二十八日、馬車もないので徒歩での出発でした。荷物もあまり持っていませんでしたが、一か月くらいで日本軍が勝利して、戦争は終わるに違いないと思っていたので構わないと思っていました。
三月二十九日の艦砲射撃
 昨二十八日午後の一〇〇隻の大船団接近の報告により、第三十二軍は米軍の上陸に備えていたが、朝からの来襲機も少なく上陸作戦の気配は見られなかった。南部港川地区は朝七時三十分ころから艦砲射撃を受けたが、北、中飛行場の西海上の米艦船は僅少であった。
 この日の本島地区への来襲機は、米機動部隊が九州方面攻撃中のためか、三五四機で前日に比べて少なかった。艦砲射撃は北飛行場地区約二五〇〇発、中飛行場地区約八〇〇発、北谷地区約一五〇〇発、小禄地区約一〇〇〇発、港川方面が約一三〇〇発であった。
 九州地区は朝六時三十分ころから終日にわたり米艦載機延べ約六〇〇機の攻撃を受け、多大な被害を蒙って、その後の沖縄作戦に支障をきたすことになった
 電報綴には、その日の米艦船の数「北飛行場那覇方面戦艦六巡洋艦八隻軽巡洋艦三隻駆逐艦五隻掃海艇一八隻小型舟艇八隻」とある。
神谷※※の証言(宇座)要約
 三月二十九日、私達が移って二日後にヤーガーは大変な爆撃を受けました。一回目の爆弾がヤーガーのすぐ傍に落ち、二回目の爆撃はヤーガーを直撃しました。天井の大きな岩が崩れ落ち、モウモウと立ちこめる砂塵の中、泣き叫ぶ声にまじって、母の名を、父の名を、あるいは子の名を呼ぶ声が聞こえました。岩に押しつぶされて身動きならず「助けてくれ!」と叫ぶ声等が、ガマの暗闇に響きわたりました。
 やっとの思いで外に出ると、まだ午後四時か五時くらいで日が暮れてはいませんでした。ヤーガーを飛び出した私達の背中を追うようにして、敵機が機関銃で「パラパラッ」と撃ってきました。家族はバラバラにウージ畑に逃げ込み、日が暮れるまでそのまま隠れていました。
三月三十日、北、中飛行場の破壊命令出る
 米機動部隊が九州方面に行動中の関係か、本島地区への来襲機は昨二十九日と同様に三五〇機と比較的少なかった。この日、米軍の艦砲射撃は主に北飛行場以南の西海岸に、一部は港川方面に向けられた。「戦況手簿」によると「本島周辺ノ敵艦船終夜照明弾併用シツツ北、中飛行場、北谷、小禄、湊川付近ニ対シ砲撃ト共ニ掃海ヲ実施中 本島周辺敵艦数(中略)百十数隻」残波岬から牧港、港川、知念、小禄まで「敵の総発射弾数二十萬発(中略)三月三十日迄総艦砲射撃数約二萬発」と記されている。軍は昨二十九日以来、来襲機の減少と北、中飛行場の西方洋上の米艦船の減少からして、上陸の切迫感からやや解放された感じであった。
 この日、軍司令官は第十九航空地区司令官(字大湾在)から北及び中飛行場が使用不能との報告を受け、特攻機の配置も絶望となったため両飛行場の滑走路の破壊を命じた
 電報綴に「一二〇〇沖縄島西方視界内戦艦五 巡洋艦九 駆逐艦四 掃海艇三五 輸送船一 駆潜艇一小舟艇四アリ北飛行場那覇小禄飛行場ヲ砲撃掃海中ナリ」とある。
松田※※の証言(喜名)要約
 (三月三十日頃)護郷隊の中で読谷出身だった私たちは、伍長と共に親志からヤマタイモー(現在のアロハゴルフ場の南附近)に偵察に行きました。西の海は敵艦船がいっぱいで、空襲と艦砲射撃の砲弾が雨のように降っていました。現在の飛行場滑走路の東側には航空隊の本部が置かれていたんですが、そこは空襲と艦砲で滅多撃ちでした。
 座喜味から波平、そして飛行場周辺を見ると、あたりは黒煙と土けむりがたちこめ、赤い火花が飛び散っており、その一帯は全滅したに違いないと思いました。
三月三十一日の空襲と艦砲射撃
 三十一日は延べ約七〇〇機が大挙来襲した。奄美大島地区約一四〇機、宮古および石垣方面には各約五〇機の来襲があった。その日、九州方面にはB29約一五〇機が来襲していた。
 米軍の艦砲射撃は北、中飛行場方面が約五〇〇発、北谷方面約一〇〇発、小禄方面四二〇発、港川方面一一〇発であった。
 守備軍の米軍上陸地点に関する判断は、従来と変化はなく主上陸地は北、中飛行場方面と予想していたが、港川方面においては米艦船の策動が続いたので、依然一部の上陸の算ありとして、その場合には各個撃破の意図で対応すべく準備していた。
 軍はその作戦構想に関して航空作戦の指導について、三十一日夜、次のように要望した。敵が北、中飛行場方面と港川方面に同時に上陸する場合は、軍は先ず前者において持久し、後者においては決戦指導を行うので、航空攻撃の重点もこれに即応するよう指導されたい、としたのである
 一方、電報綴には「〇三四〇ヨリ電波探信ニ出現セシ敵艦船ハ〇六〇〇払暁ト共ニ當基地西方ヨリ近接〇六三〇 二八〇度乃至三一〇度間八粁ニ上陸用舟艇一七隻一五粁ニ約六〇隻(視界不良ノ為艦種不詳)其ノ他前日ト略同様ト推定セラル艦船ヲ伴ヒ低速ヲ以テ東進一部北中飛行場方面那覇沖縄方面根拠地隊司令部附近ヲ砲撃戦爆二二機ヲ以テ重爆撃(中略)〇八三〇神山島附近ノ上陸舟艇ヲ除キ他ノ船艇ハ漸次ヨミ谷山方面ニモ進ミ主力ヲ以テ北中飛行場方面ニ一部ヲ以テ那覇小禄方面ニ上陸の對勢ヲトルニ至レリ〇九三〇ニ至ル迄未ダ上陸セズ我ガ方発砲セズ」とある。
 こうして、明四月一日の米軍の歴史的な上陸を迎え、その夕刻「一八〇〇迄座キ味・西原・中飛行場東側・桃原・北タニヲ結ブ線ニ達ス」(電報綴)ということになるのである。
佐久川※※の証言(比謝)
 私たち一家は喜瀬武原に避難していた。しかし食料が不足気味で心配だからと、祖母と妹達を残して両親と叔母、※※のおじさん(松田※※)と私の五名で、比謝の家に食べ物を取りにいくことにした。
 三月三十一日の夕方、私達は喜瀬武原を出た。歩いて親志辺りまでくると、艦砲射撃が激しくなり、喜名からはさらにひどくなった。これ以上進むのは無理だからやめようと思ったが、喜瀬武原に残してきた祖母や妹達のことを考えると、ここまでは来ているし、いまさら引き返すわけにもいかないと、何とか進んでいった。ようやく比謝の自宅にたどりついたが、古堅国民学校辺りの兵舎をめがけていたのか、米軍の攻撃がすさまじく、身動きが取れない程の状態になっていた。これじゃもう食料どころではないと、走って持って行けるぐらいの分量の米とフシカブ(切り干し大根)を担いで、四月一日の夜明け前に隣組で掘ってあったフカサクの壕に入った。
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