第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦
空襲と艦砲射撃


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9 読谷山村での陸上戦闘

上陸米軍に対する部隊配備
 中頭地区に配備されていた独立混成第十五連隊(球部隊)は、一月二十六日の軍命令(球作命甲第九十八号)により知念半島地区に移転を命じられ、二月一日までには移動するものとされた。代りに第六十二師団(石部隊)の独立歩兵第十二大隊(大隊長賀谷與吉中佐)が配備され、読谷山地区はその第二中隊だけで守ることになった。第二中隊本部は石嶺久得に位置し、その第一小隊は座喜味西方から西北にかけての海岸沿いに、第二小隊は座喜味の東方高地に布陣した。これまで読谷山に駐屯していた高射砲部隊は三月二十五日から二十六日にかけて南部島尻への移動となり、第五野戦航空修理廠第一分廠(旧那覇分廠)や気象、通信等の関係部隊は三月三十日に首里石嶺へ移動することが決定していた。これで、読谷山村にはこの賀谷支隊の二つの小隊と飛行場関係部隊のみの配備となり、よって北部集落とその周辺から兵隊が一人もいない区域も現出した。
 第三十二軍が北、中、伊江島各飛行場の地上勤務航空部隊からなる特設第一連隊(連隊長第十九航空地区司令官青柳時香中佐)を編成したのは三月二十三日であったが、三十日まで特攻機の飛来があり、その離発着のために従来通りの任務を遂行していた。それゆえ、三十日夜からようやく陣地配備についたばかりであり、米軍上陸時には防禦配備の組織化も出来ていなかった。読谷山(北)飛行場の第五十六飛行場大隊(大隊長黒沢巌少佐、約三七〇名)と第五〇三特設警備工兵隊(約八〇〇名)を第一大隊とし、読谷山地区の防衛に任じた。両部隊の主力は二二〇高地(喜名東方の海軍壕附近)に布陣を予定した。飛行場大隊の警備中隊は座喜味城跡周辺に布陣した。第二大隊は、中(嘉手納)飛行場の第四十四飛行場大隊、第五〇四特設警備工兵隊と要塞建築勤務第六中隊等をもって編成された。これら特設第一連隊の編成部隊は、元来が飛行隊の支援部隊であるために、地上戦闘能力は極めて低かった。それ故、軍としてはこれらの部隊に進攻米軍への大きな抵抗は望んでおらず、警戒と米軍の前進遅滞を期待した程度であった。よって北、中飛行場附近の戦闘に増援はもとより、砲兵による支援も計画していなかった。
 このように、上陸してくる圧倒的な米軍に対して読谷山地域の防衛部隊は、熾烈な砲爆撃下に砲兵もなく、夜間を待って斬り込みを実施する以外に打つ手がない状態であった
沖縄本島への米軍上陸
 三月二十三日からの熾烈な上陸前空襲に加えて二十四日からの沖縄本島への米艦船からの砲撃が激しくなったことから、近いうちに米軍の上陸があることは予想されていた。そこに、海軍の大和田通信隊司令より四月一日四時二十六分、本朝上陸の見込み大なりとして次の電報が発せられたのである。「沖縄方面策動部隊内通信系ニ於テ今朝〇三四七ヨリ戦術呼出符号ヲ使用シ始メタリ 右ハ硫黄島上陸直前ニ酷似シアリテ今朝本格的ニ上陸ヲ決行スル算極メテ大ナリ」と。
 米軍はその後、二十六日は早朝から北、中飛行場、小禄方面にかけて陸地への猛爆を加え、さらに七時ころからは北、中飛行場地区とその西海岸地区に対し熾烈な艦砲射撃を開始した。軍司令官及び幕僚らは、首里台上から数百の艦船が西方海面を圧し北、中飛行場方面一帯は塵煙火光(じんえんかこう)におおわれ天に冲(ちゅう)する壮絶な光景を望見し、来るべきものが来たという感に打たれた。
 小禄の沖縄方面根拠地隊大田實司令官は、天一号作戦部隊宛に次のような敵上陸の報告第一電を発した。
 「一那覇沖敵輸送船約六〇隻ヨリ水陸両用戦車多数ヲ以テ北飛行場方面ニ上陸ヲ開始中 〇八〇〇 二北飛行場上陸予想点ニ対スル艦砲射撃ハ熾烈ヲ極メツツアリ 尚朝来飛行場ヲ銃爆撃シアリ 〇八〇四」
 一方、米上陸軍はバックナー陸軍中将を総指揮官とする第十軍で、読谷山村から北谷村にかけての西海岸に上陸の準備を整えていた。米軍の上陸に当っての配備は、北から読谷山側に第六海兵師団と第一海兵師団、嘉手納側に陸軍の第七師団と第九十六師団が上陸することとして準備を進めていた。米軍は港川方面への陽動作戦を展開しつつ、上陸予定の四月一日午前八時三十分に向けて、用意おさおさ怠りなく上陸の開始を待っていた
渡具知海岸へ上陸
 読谷山村渡具知海岸への上陸について、第一海兵師団第五連隊第三大隊K中隊所属のE・B・スレッジ(当時上等兵、除隊後モンテバロ大学生物学教授)の著書『泥と炎の沖縄戦(外間正四郎訳)』をもとに、米軍兵士の立場から見た状況を要約すれば次のようになる。
 渡具知に上陸した第一海兵師団は、ガダルカナル島で上陸演習を繰り返した後、三月二十七日にウルシー泊地で他の侵攻艦隊と合流し、沖縄へ向けての上陸行動を開始した。ウルシーの艦内で来るべき沖縄作戦について、次のように説明があったという。
 「今回の上陸作戦は最も被害の大きいものになるだろうと予想している。おそらくわがほうは水際で八〇ないし八五%はやられるであろう」「わが部隊の作戦地域にある絶壁や護岸は簡単には越えられないだろう。おまけに情報参謀部によると、わが大隊の右翼の方(渡具知集落の比謝川沿いの高台)にジャップの巨砲があるという。恐らく一五〇ミリ砲と思われる」。
 そして、D・デー(上陸日)の前夜、最後の命令が出た。上陸したらできるだけ速やかに陸上に前進せよ。さもないと後から上陸してくる友軍の砲火にやられないともかぎらないからと。また今夜は早く寝て十分休養をとるようにとの注意もあった。
 起床ラッパが一九四五年の復活祭の日曜日の到来を告げた。奇しくも四月一日、エイプリル・フールの日であった。船内がざわめいてくる。天気は晴朗、気温二四度。雷鳴のような砲声をとどろかして艦砲射撃が始まった。戦艦、ロケット弾や迫撃砲装備の戦闘艦、その他ありとあらゆる軍艦が、ビーチ沖を塗りつぶすように浮かんでいる。「わが方は水際で八〇%はやられる」といわれて緊張していたが、私を勇気づけたのは目の前に見えるこの一大艦隊の偉容であり、おまけに上空の何百機ともいえる友軍機の存在であった。渡具知海岸への艦砲射撃はますます激しさを増していった。H・アワー(攻撃開始時刻)の到来を今か今かと待ち受けているだけである。
 青い海面に進撃する舟艇が白い三角波を立てた。私達の舟艇も旋回しながらその航跡を追った。「八時三十分ちょうどだ。これから攻撃第一波の出撃だ」とだれかが叫んだ。
 私達を乗せたヒギンズ・ボート(無蓋の小型舟艇)が水陸両用トラックに送り届けた際にそこにいた海兵隊員が言った。「みんな、敵側からの抵抗はないぞ。無血上陸ってことさ。迫撃砲弾が二、三発海に落ちただけよ。それだけのことさ」周りには炸裂する砲弾の破片もなければ銃弾も飛んでこない。こういうことは戦争の歴史のなかで、かつて無かったことではないだろうか。信じられない。「エイプリル・フール」の日にだまされているのではないかと思った。
 渡具知集落の川沿いの絶壁上に大砲の残骸があった。私達がウルシーの艦内説明で心配したあの巨砲である。島は海岸から徐々に高くなり、そこには住民が作った小さな庭や畑があった。艦砲や爆撃で無残にも掘り返された原野や野菜畑をのぞいては、実に美しい風景だった。左前方の遠くの方には、第六海兵師団の部隊が大きな飛行場(読谷)を目指して進んで行くのが見えた。
読谷山村の陸上戦闘
 先の『泥と炎の沖縄戦』の著者スレッジは、上陸して進むうち「四月二日の朝、二人の日本兵の死体を見た。一人は木の枝に張り付き、一人は木の下で死んでいた。おそらく木の上で監視しているところを艦砲の直撃をくらったのだろう」と記している。
 『沖縄―日米最後の戦闘』によると、「上陸の翌日、第六海兵師団は読谷の下方に進撃をつづけ、渡具知の浜から北西部の半島を偵察して、海岸線の村落長浜を占領した。山岳地帯のこの辺では、踏みならされた小径が、森や稜線を縫ってクモの巣のように走り、洞窟や珊瑚礁岩や険しい谷間のいたるところにあった。この山脈の稜線や洞窟に立てこもって、日本軍は頑強な抵抗ぶりをみせた。
 第六海兵師団はこの頑強な陣地を攻撃し、二陣地を殲滅して、日本軍およそ二百五十名を殺した」とある。
 ここで、上陸から四月三日までの間、村民の収容、米軍の動きなどを『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』をもとに要約しておこう。
 四月一日のアメリカ軍の戦況では「第三海兵軍団、午前八時四十分、予定の海岸に上陸。上陸軍は直ちに日本軍の小規模の抵抗の中を三百〜四百ヤード内部に前進する。午前九時十五分、波平を包囲。午前十一時十六分、読谷飛行場を占領。午前八時三十分〜午後四時までに、およそ五万人が上陸。南北一万五千ヤード、東西四千〜五千ヤードの上陸拠点を確保」(編者注 一ヤードは約九〇センチ)。
 日本軍との戦況では「小規模の日本軍の活動だけ。日本軍の機関銃、ライフル攻撃は弱い。散発的な迫撃砲攻撃。読谷飛行場の北端で、短時間の戦車戦。日本軍の死者一六六人」。
 四月二日のアメリカ軍の戦況では「引き続き日本軍の小規模から中規模の抵抗の中を快進撃。前線の全てで、二千から五千ヤード前進する。第六海兵師団は残波岬を占領。快晴の天気に恵まれ、軍需物資の揚陸は順調に進む」。
 日本軍の戦況では「日本軍の地上部隊は、これといった反撃を見せない。第六海兵師団の部隊は、若干激しい抵抗にぶつかるが、それも短時間のものである。日本軍の戦死者二七〇人」。
 四月三日のアメリカ軍の戦況では「午前七時三十分、第三海兵軍団は沖縄北部と東部を攻撃する。第一海兵師団は最大限の努力を払って右翼に前進し、三千〜五千ヤード進出。正午には本島東海岸に到達、勝連半島を偵察するが、成果なし。読谷飛行場を修理し、緊急着陸の態勢が整う」。
 日本軍との戦況では「残波岬沖二四マイルの海上で日本軍特攻機一機を撃墜。軍服を着た住民数人を殺す。散発的な日本軍の抵抗あり。勝連半島を偵察するが、日本軍との接触なし。日本軍の戦死者三五九人」(二九〜四五頁)。
 米軍側からの資料により上陸後の三日間における戦闘状況を見てきた。次に日本側資料として防衛庁戦史室『沖縄方面陸軍作戦』からみよう。最初に第三十二軍司令部が四月一日夕刻の戦況として次のように発表している。「一、敵ノ進出線 概ネ北谷、佐久川、呉富士、屋良、伊良皆、座喜味ノ線  二、敵兵力 戦車約二〇〇 約二個師団内外  三、特設第一連隊ハ〔二二〇〕高地附近ニ態勢整理中 賀谷支隊ハ島袋附近ニアリ未タ真面目ノ戦闘ヲ実施シアラス  四、一六三〇湊川距岸二〇〇〇〇米未タ上陸シアラス」とし、一日目にすでに伊良皆や座喜味が占領されていた(二八一頁)。 独立歩兵第十二大隊第二中隊の各小隊は「座喜味地区にあった第一小隊は四月一日陣地を奪取され、小隊長北原秀雄中尉戦死し、残存者は一日夜中隊主力位置に後退した。座喜味東方高地にあった第二小隊は二二〇高地(読谷山岳)に後退し中隊長の掌握下に入った。二日夜中隊主力は南部転進行動を採ったが、宇久田附近で米軍と遭遇し、第三小隊長以下の一部が敵中を突破して大隊主力に合流したほかは、多大の死傷者を生じ、池原に反転して青柳連隊長の掌握下にはいった」(二七四頁)。 特設第一連隊第一大隊は「大隊長黒澤巌少佐は四月一日北飛行場東方約一キロメートルの海軍洞窟で戦闘を指導した。第五十六飛行場大隊の警備中隊は四月一日座喜味高地附近で勇戦健闘し中隊長以下大部が戦死しほとんど全滅した。
 一日夜大隊の補給中隊から中隊長紫雲中尉以下数組の斬込隊が出撃した。
 翌二日朝大隊本部は米軍の攻撃を受け大隊長以下多数戦死し部隊は分散状態となった。紫雲中隊長は大隊本部が大損害を受け四散したことを知り二二〇高地に移動した。連隊本部とも連絡がとれなかったが、二二〇高地において所在部隊から〔特設第一連隊の残存者は国頭支隊長の指揮下に入り遊撃戦を実施すべき〕旨の軍命令を聞き、三日夜部下約二〇名を指揮して国頭に向かった」。
 第五〇三特設工兵隊主力は、四月二日朝大隊本部と共に米軍の攻撃を受け、大損害を蒙り、分散状態となって国頭方面に後退した(二七五頁)。
喜名東の壕で  伊波※※(喜名)昭和六年生
 私は当時、軍の用務員で座喜味のトーガーにある壕にいた球九一七三部隊におりました。数え十五歳です。その頃は郷土を守るというので徴用の年齢に満たない十六歳以下でも用務員という形で軍に雇われていたのです。この隊は本田主計大尉を隊長に一二〇人ぐらいいましたかね、とにかく一〇〇名を超えていました。物凄い空襲が続き、敵の艦船が海を覆っていたので今にも上陸するような状況になっていました。三月三十一日の夕刻、敵が上陸した前日です。アメリカーの空襲は午後五時を過ぎると決まって途絶えていましたから、その空襲が途絶える頃を見計らって座喜味のトーガーからイチャバーヤを通って喜名東の壕に逃げ込んだのです。部隊全部です。上陸スンドーしてね。兵隊たちも先を争うように走っていました。イチャバーヤから県道を越えて山に入り、山道を駆けて海軍が南部に移動したために放棄されていた壕に移ったのです。そこは一般にアバラーヤシチと呼ばれていましたが、泉川(イジュンジャー)からウフドーに行く道の背後の山です。
 山をぶち抜くように掘られたとても奥行きの長い壕で、壕の中には缶詰などが入った箱が所狭しと放棄されていました。兵隊はその缶詰箱を寝台代わりにしていた程でした。ところが四月二日にはアメリカ軍はもう壕の前まで迫っていたのです。そして昼前には私たちの入っている壕も迫撃砲の攻撃を受けるようになったのです。壕の外は機関銃や迫撃砲、爆弾の音がもう何の音かわからないぐらいにがなり立てていました。ちょっとの切れ目もないほどです。でも、壕の奥の方では土嚢を積んで三人の兵が入口にむかって銃を構えていましたからね。米兵も入ってこないわけですよ。ですから敵は入口に向かって迫撃砲を撃ち込むのです。炸裂する轟音が耳をつんざき壕の中に白煙が立ち込めてね。それが間断なく続くのです。ちょっとの間ですがその煙が晴れるとちょうど壕の中からは、泉川からウフドーに行く道が見え、その道を歩いている米兵の姿が見えるんです。二〜三人の米兵が悠然と歩いているのが見えるんです。突然、壕の中から眼鏡をかけた一等兵が壕の入口近くまで走って行くと銃を構えてその米兵を撃とうと構えたとき、壕の入口から手榴弾が投げ込まれてね。轟音とともに入口は白い煙で見えなくなり後で見ると、この兵隊は首がもぎれ、顔が背中に向いているむごい死にかたでした。あのむごさは今でも思い出すと身震いがします。思い出したくありません。この様に敵に包囲されている状況ですからね。敵の投げ込む手榴弾や迫撃砲で次々と死者が出るので、この死んだものは横穴に引きずり込むのです。ですからもうその頃からは、兵隊たちも生きられないと諦めていました。酒があけられ、ラッパ飲みであちらこちらでも回し飲みをする兵や低い声で歌を歌う兵隊もいました。故郷の歌を歌っているようでした。人間死ぬ間際になると故郷や家族を思い浮かべるのでしょう。そんな中にも日の丸鉢巻に白たすきをした四〜五人単位の斬り込み隊が弾雨の中に飛び出していきました。斬り込み隊ですか?何度も何度も出て行きましたよ。当然だが行ったきりです。出ると同時に銃声がけたたましくがなり立ててすぐに静かになるのです。ですから出て行った斬り込み隊が全滅したことは壕の中でも分かりました。暗い壕の中は死が刻々と迫ってくる、まさに追い詰められた地獄でした。斬り込み隊は「もう鉄兜は必要ない」と鉄兜を放り投げて鉢巻を締めるのがおり、将校の中には「もう鞘は必要ない」と鞘を放り投げるのもいました。私は壕の奥のほうにいました。一人の兵隊が寄ってきて「君は子どもだから或いは助かるかもしれない、やるよ」とお金の入った財布をくれて立ち去っていきました。もうみんな生きられないと知っていたのです。壕は馬乗りの状態でしたからね。夜になったら脱出しようと思っても照明弾が昼のように壕の外を照らし、砲音も銃声も夜になっても全然途絶える気配はありませんでした。耐えきれなくなってただ死にに行くだけの斬り込み隊が次々と壕を飛び出して行きました。そのうちどこからともなく「壕を爆破するためダイナマイトの穴を掘っている」「明日の朝まで壕は持たない」との声が口づてに伝わってきました。ダイナマイトの穴を掘っていたかどうかはわかりません。多分恐怖がつのってそんな話になったのでしょう。どうせ死ぬなら壕の中で生き埋めになるよりは弾にあたって死んだほうがいいですからね。兵隊たちは次々と飛び出していきました。五人単位ぐらいが弾のとぎれるのを見計らって飛び出していくのです。
 後の話ですがこの兵隊たちは全部やられてね。やられると水が欲しくなるのか川の水に顔を突っ込むようにして、四〜五体が折り重なるように死んでいました。私たちは兵隊ではないから脱出するのも一番後でした。壕の中には歳が私と同じくらいの沖縄出身の少年四人がいたのです。中城の人で朝光というのも一緒でしたがね。この朝光とは戦後も何回か会うことがあります。この用務員だった沖縄出身の少年四人は「生きるも死ぬも一緒だよ」と言ってね。午前一時ごろだったと思いますが、カシガーイール(かますをほどいた紐)を四人が握って一列になって壕を飛び出したのです。ところが壕を飛び出すと同時に照明弾がポーンとあがり辺りが昼間のように明るくなったものですから、一番最後にいた私は反射的にいま出たばかりの壕に飛び込んだのです。結局自分ひとりになったものですから心細くなってすぐに壕から飛び出しました。あのシージャーガーラ(喜名東にある川)の川沿いを無我夢中で逃げました。あの川沿いには撃たれた日本兵の死体がたくさん転がっていました。惨めなものでした。後で考えると、たとえ壕から脱出できた者でも軍服を着けた者には生き延びることはできなかったでしょう。なぜなら何処に行ってもアメリカ軍がウヨウヨしていましたからね。(『喜名誌』より)

注 それぞれ参照した文献、資料等とその頁を記した。
「第三十二軍対空戦闘詳報」
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社 一八一、一八二頁
『沖縄―日米最後の戦闘』米国陸軍省編 外間正四郎訳 光人社NF文庫五四、五五頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社 一八三、一八四頁
「本土防空作戦記録」(関東地区)『東京大空襲・戦災誌 第3巻』東京空襲を記録する会編 所収
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社 一一五、一一六頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社 一一八頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社 一二一〜一二七頁
『みのかさ部隊戦記』石垣正二著 ひるぎ社 一四頁
『沖縄県史第10巻各論編9 沖縄戦記録2』沖縄県教育委員会編 一九七四年刊 五〇頁
『戦史叢書沖縄・臺湾・硫黄島方面 陸軍航空作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社 三四頁及び『みのかさ部隊戦記』石垣正二著 ひるぎ社 四八頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社一七七頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社一七七頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社一八〇頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社一八一、一八二頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社一八三、一八五頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社二〇七、二〇八頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社二六九〜二七二頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社二〇六頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社二〇六、二〇七頁及び三月二十四日付「戦況手簿」より
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社二〇九、二一〇頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社二一〇頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社二一一、二一二頁と同日の「戦況手簿」より
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社二一三頁と同日の「戦況手簿」より
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社二一五頁と同日の「戦況手簿」より
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社二一七、二一八頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社二二〇頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社二二三頁
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社二六九〜二七五頁
海軍「電報綴」四月一日付
『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著 朝雲新聞社二六一〜二六八頁
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