第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦
義烈空挺隊の北、中飛行場攻撃
玉城裕美子


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はじめに

 日本軍は、一九四三年(昭和十八)夏、村中央部に北飛行場(総面積七三万坪)の建設を開始した。北飛行場は、日本軍指導のもと沖縄県民の労働力を駆使した人海戦術によって、夜に日を接ぐ突貫工事で、一九四四年十月初めにはほぼ完成した。しかし、一九四五年(昭和二十)四月一日、読谷〜北谷に至る西海岸から上陸した米軍は、すぐに北飛行場を占領し、三日には使用を開始していた。
 一九四五年五月二十四日、日本軍は米軍が使用していた北飛行場及び中(嘉手納)飛行場を、義号作戦にのっとり奇襲攻撃した。義号作戦とは、一九四五年五月上旬、陸軍第六航空軍が海軍とも協議して策定したもので、作戦方針は「義号部隊ヲ以テ沖縄北、中飛行場ニ挺進シ敵航空基地ヲ制圧シ其ノ機ニ乗シ陸海軍航空兵力ヲ以テ沖縄附近敵艦船ニ対シ総攻撃ヲ実施ス」(『沖縄方面陸軍作戦』五四〇頁)であった。
 「義号部隊」とは、「義烈空挺隊」のことで、飛行場に強行着陸をして敵陣を撹乱(かくらん)する特別攻撃隊(特攻隊)のことである。奥山道郎大尉以下約一五〇人の義烈空挺隊は、九七式重爆撃機一二機に分乗して北、中飛行場へ向かった。
 以下に掲載する義烈空挺隊の「攻撃計画」には、この計画の「方針」「攻撃実施」「連絡」「給養」「衛生」「編成装備搭乗区分」などが記されている。「攻撃実施」は第一期攻撃と第二期攻撃とに分かれており、まず北、中飛行場及びその周辺を攻撃した後、二二〇高地(読谷山岳)東側に集結し、遊撃戦闘に移行して後方撹乱の作戦を展開し、敵の補給を困難にすることを目的としている。「給養」では、基地において服用するものが「熱地戦力源一錠、撃滅錠一箇、防吐ドロップ五箇」の栄養剤等になっている。また補給食が海苔巻寿司や稲荷寿司などと豪華で、飛行機上(残部は作戦地)では羊羹(ようかん)やキャラメル、果実などの給食があったことがわかる。また「衛生」で「沃度丁幾」とあるのは消毒薬のヨードチンキのことで、幹部用携行として「ビタカンファー」と「ハブ用特効薬」が記されている。「ビタカンファー」とは、強心剤の一種で呼吸中枢興奮剤のことである。
 『沖縄方面陸軍作戦』には義烈空挺隊について「五月二十四日一八五〇義号作戦部隊の搭乗機一二機は熊本飛行場を離陸し(中略)二二一一飛行場突入の無電あり、北飛行場六機、中飛行場二機着陸成功(中略)四機が目的地に達し得ないで引き返した」(五四二頁)とある。
 「義烈空挺隊」の目的達成のため、陸軍中野学校出身者(一〇名)が指揮官や隊員として配属され、また隊員として沖縄出身者二人が搭乗していた。吉浜忍氏からの情報によると、それは山城金栄准尉(九番機に搭乗し中飛行場で戦死)と比嘉春弘伍長(ひき返した十一番機に搭乗、生還)である。また八原博通著『沖縄決戦』には、生き残りの一人が敵中を突破して昭和二十年六月十二日に軍司令部に報告したとの記述がある。
 一方、『沖縄 日米最後の戦闘』(米国陸軍省編 外間正四郎訳 光人社NF文庫)では、
 「義烈空挺隊の双発爆撃機五機が、夜十時半ころ伊江島の方向から低空で飛んできた。対空砲がただちに火を吐き、読谷飛行場の上空で炎上墜落、だが、他の一機は砲火をくぐって読谷飛行場の滑走路に胴体着陸し、およそ八人の完全武装の軍人が機から八方につっ走り、滑走路沿いにならんでいる米軍機に手榴弾を投げつけた。コルセア二機、C―54型輸送機四機、プライベティアー一機を撃破した。その他、リベレーター爆撃機一機、ヘルキャット三機、コルセア二十二機、合計二十六機が撃破された。
 この日本軍空挺隊の胴体着陸の騒ぎのなかで、米軍は二人が戦死し、十八人が負傷した。その日の夜十一時三十分、飛行場の米軍部隊の増援として、また、もし日本軍の空挺部隊がひきつづいて着陸する場合にそなえて、新たな米軍部隊が読谷に送りこまれてきた。
 米軍は合計三十三機が撃破、破損をこうむったうえに七万ガロンのガソリンが入っているドラム罐六百本が爆破炎上させられた。
 最終に調査が行なわれたとき、日本軍は読谷で十人が戦死、十三人が飛行機のなかで戦死したまま発見された。これは明らかに飛行中、米軍の対空砲火にやられたものと思われる。
 義烈空挺隊の他の四機には、各機とも十四人ずつ乗り組んでおり、全員とも火を吹いて撃墜された機のなかでそのまま死んでいた。死体は六十九体をかぞえた。つぎの日に残波岬でやられた兵が日本軍空挺隊最後の一人となった。
 読谷飛行場は滑走路に残骸が散乱し、五月二十五日午前八時までは使用不能になったが、これを最後に日本軍はふたたび空挺隊を着陸させようとはしなかった」(三九七〜三九八頁)
と記されている。
 現在(二〇〇四年三月)、読谷村役場新庁舎前の道路(旧誘導路)を隔てて向かい側には、関係者によって建てられたと思われる「義烈空挺隊玉砕之地」碑が立っている。
 以下の資料は義烈空挺隊の『攻撃計画』と『電報綴 南西諸島』(共に「防衛庁資料」より)の中にある一九四五年(昭和二十)五月二十五日、小禄航空基地発信の電報文である。文中には、北飛行場が五月二十四日二十一時四十八分より二分間炎上し、その後ドラム缶らしき爆発を認めたことや、二十一時五十五分から二十二時四十八分の間に、海上に火柱を合計一八望見したこと、二十二時十分頃の火柱は爆発音を伴い黒煙をあげ、二十二時四十分頃の火柱は明らかに一隻が炎上していた、などの内容が打電されている。

『攻撃計畫』

義烈空挺隊攻撃計畫

一、方針
   隊ハX日Y時ヲ期シ我爆撃隊主力ノ制壓爆撃ニ膚
  接シ主力ヲ以テ北飛行場一部ヲ以テ中飛行場ニ強行
  着陸シ一挙ニ敵飛行基地ヲ爆滅ス 爾後遊撃戦闘ニ
  移行シ敵飛行基地及後方ヲ撹乱シ全搬ノ作戦ヲ有利
  ナラシム

二、攻撃實施
其一、第一期攻撃(飛行場竝周辺地区攻撃)
 (一)戦闘指導要領
  1、X日Y時ヲ期シ主力八機ヲ以テ中飛行場ニ強行
   着陸シ重点ヲ在地敵飛行機竝ニ軍需品ノ破壊焼却
   ニ置キ併セテ揚陸場附近ノ物資集積所ヲ攻撃シ一
   挙ニ敵飛行基地ヲ攻撃滅ス
  2、北飛行場攻撃隊ハ強行着陸ニ膚接ノ重点ヲ在地
   飛行機ノ破壊ニ置キ、併セテ敵司令部及同地周辺
   地区ノ軍需品集積所ヲ攻撃ス
  3、着陸直後有力ナル一部ヲ以テ敵司令部及通信所
   ヲ急襲シ高級将校及指揮中枢ヲ崩壊セシム
  4、爾後海岸方向ニ戦果ヲ擴張シ揚陸地点附近ノ物
   資集積所ヲ攻撃ス
  5、中飛行場攻撃隊ハ強行着陸ニ膚接シ重点ヲ在地
   飛行ノ破壊ニ置キ併セテ同地周辺地区ノ物資集積
   所ヲ攻撃シ爾後海岸方向ニ戦果ヲ擴張セシム
  6、予定滑走路以外ニ着陸セル場合ニ於テモ速ニ担
   任地区ニ至リ任務完遂ニ努メシム
  7、目的達成セバ(我爆撃隊ノ制壓爆撃下)一斉ニ
   戦場ヲ離脱シ北飛行場東北方△二二〇・三東側谷
   地ニ集結シ第二期攻撃(遊撃戦闘)ヲ準備ス 離
   脱時期ハ(X+一日Y+六時ト予定シ)青吊ヲ
   (併用ス)
  8、3Fs八搭乗機毎ニ一組トナリ各分隊ト共ニ戦
   闘セシム
 (二)部署
  1、北飛行場攻撃隊
      長 義烈空挺隊長
         指揮班
         第一小隊
         第二小隊
         第五小隊
         獨立分隊
   イ、攻撃部署別紙要図第一(〜第六)ノ如シ
  2、中飛行場攻撃隊
      長 第三小隊長
         第三小隊
         第四小隊
   イ、攻撃部署別紙要図(第七〜第九)ノ如シ

其ノ二 第二期攻撃(遊撃戦)
 (一)戦闘指導要領
  1、△二二〇・三―一六〇・〇東側谷地ニ遊撃據点
   ヲ占領シ有機的攻撃ニ依リ重点ヲ(北、中飛行場)
   ニ置ク敵飛行場後方撹乱ニ置キ敵ノシンタンヲ寒
   カラシメ(補給ヲ困難ナラシム)
  2、據点占領地域ハ別紙第下ノ如シ
  3、攻撃要領
   イ、△二二〇・三―一六〇・〇ノ線及越来村北側
    地区ニ推進據点ヲ推進シ北中飛行場及物資集積
    所ニ對シ攻撃ス
   ロ、攻撃地区ノ配當ハ概ネ第一期戦闘ニ準ズルモ
    細部ハ現指示ニ依ル
  4、攻撃時期ハ部隊ノ集結状況ニ應ジ決定スルモ概
   ネX+三日以降トシ時刻ハ夜間トス
  5、攻撃目標ハ在地飛行機輸送機関物資集積所トス
  6、企 秘匿ニ関シテハ特ニ據点竝ニ連結位置ノ秘
   匿ニ重点ヲ置ク
  7、連絡
    各隊間ハ勉メテ相互連絡ニ依リ確保スルト共ニ
   左記要領ニ依ル
       左 記
   イ、連絡場  1、久保南方二百米断崖部東端
          2、比謝川最上流源点
   ロ、時刻   1、日没一時間後ヨリ一時間
          2、日出二時間前ヨリ一時間
   ハ、要領   各據点毎連絡者ヲ派遣シ命令報告通報傳達ス
  7(ママ)、給養補給
    各據点毎ニ現地物資資材ノ獲得ニ依リ極力蓄積シ持久性ヲ
   保持セシム
  8(ママ)、速ニ該方面ニ行動シアルト予想セラル球部隊トノ
   連絡ニ努ム

三、連絡
 イ、合言葉   奥山
 ロ、友軍記号  音光共ニ「‐―」
 ハ、標識    一般略帽ノ夜光物
         将校右以外ニ、右腕夜光
 ニ、引上信号  青吊星
 ホ、友軍自動車 片目警笛「‐―」
 ヘ、隊長位置  赤吊星
 ト、無線ニ関シテハ別冊ヘ

四、給養別紙第一ノ如シ

五、衛生別紙第二ノ如シ

六、編成装備搭乗区分別紙第三〜第六ノ如シ
ぬかるんだ路面に無惨な残影が写る(沖縄県公文書館提供)
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別紙第一 基地出発時以降ニ於ケル給食

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別紙第二 携行衛生材料表

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別紙第三 攻撃隊搭乗区分表

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指揮班編成装備表

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『電報綴 南西諸島』

五月二五日 受信〇二四〇 訳始〇三〇〇 訳了〇四〇五 電一二〇〇一 作概参本
作戦緊急   発 小禄航空基地
傍 着 天一号作戦部隊 機密第二四二三二六番電
発GF参謀
 敵ハ日没時ヨリ灯火管制ヲ行ヒ二〇四二ニサイレンヲ発シ二一〇〇ヨリ二二五〇迄嘉手納陸上海上ヨリ対空砲火ノ砲声照射猛烈ニ断続二一四八北飛行場炎上約二分間(爾後時々ドラム缶ラシキ爆発スルヲ認ム)ヲ始メトシ二一五五ヨリ二二四八迄ノ間海上ニ火柱合計一八(内二二一〇頃ノ火柱ニハ爆発音ヲ伴ヒ黒煙ヲ挙ゲ二二四〇頃ノ火柱ハ明ラカニ一隻炎上スルヲ望見ス又二二四五頃嘉手納沖ノ火柱ニハ特ニ大火柱ナリ)ヲ認ム。
 通一三五五三 於十六(三九三七、五kc KFGB放 山本(森田)
五月二五日  受信〇四二四 訳始〇四三七 訳了〇五〇〇 電一二〇一〇 作概参本
緊急   発 小禄航空基地
傍 着 天一号作戦部隊 機密第二五〇一三一番電
発GF参謀
昨二十四日二三〇〇以後ノ戦果左ノ如シ
 二三二一「嘉手納」沖火柱一、〇〇二一ヨリ〇〇二六ノ間火柱八(内〇〇二一ノモノハ「嘉手納」沖艦船ノ炎上〇〇二六ノモノハ北飛行場炎上ト覚シク一時間後モ尚時々火勢猛烈ニ上リツツアリ)。
 通一三五六〇 於一六(三九八五kc) 七FGB放 山下(小■■)
主翼片方に2機のエンジン(プロペラ)が…
(沖縄県公文書館提供)
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読谷飛行場に散乱する機体の残がいと被害状況を調べる米軍
(沖縄県公文書館提供)
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胴体着陸した日本軍機
(沖縄県公文書館提供)
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残がいの後ろには小銃を肩にした米兵がいる
(沖縄県公文書館提供)
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機の胴体部分が吹っ飛んでいる
(沖縄県公文書館提供)
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水たまりができた滑走路
(沖縄県公文書館提供)
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滑走路のはずれか、岩がごろごろしている
(沖縄県公文書館提供)
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吹っ飛んできたのかドラム缶が…
(沖縄県公文書館提供)
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エンジン、主翼、尾翼部分だけが残った
(沖縄県公文書館提供)
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