第二節 『モリソン戦史』から見た「十・十空襲」と読谷山
久手堅憲俊


<-前頁 次頁->

はじめに

 これまで沖縄戦研究者は、地上戦の記述を中心に『防衛庁戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』や米国陸軍省編の『日米最後の戦闘』などを参考文献とし、県民の戦争体験の証言に依拠して研究を進めています。
 沖縄戦を語るとき、証言の中にひんぱんに出てくる「艦砲」の実態については、あまり理解されてないのではないでしょうか。
 本稿で取り上げる十・十空襲にしても、これまで県民の証言が主要な部分を占めていることは否めないことだと思います。私は、県民の証言が大切にすべき重要な位置を占めていることを否定するものではありません。
 重要な位置を占めているだけに「県民の証言」を活かすためには、もっと米海軍の動きに目を向ける必要があるのではないでしょうか。
 しかし、敵である米軍がどこから来たか、どれくらいの艦隊規模で、何機の航空機を積んでいたかなど、研究者も沖縄戦の市町村史編集者、執筆者も取り上げてこられませんでした。また、戦闘に必要な気象情報等も言及しておりません。戦闘には、その地域の当日だけでなく、数日後の予報が欠かせないものだと思います。そのことは、十・十空襲の数日前に大東島を襲った台風で、日本軍は索敵機を飛ばせず、米機動部隊の接近を知らなかったことでも、良く分かることだと思います。
 当時、気象情報は秘密になっていて唯一の電波での情報伝達機関であるNHKラジオが天気予報や漁業気象などの放送も止めてしまいました。
 気象情報の公表は敵に日本上空の気象状況を知られ、空襲や作戦上の不利になると、軍部は考えたからでしょう。米軍作成の全地球の気象図を見ると、イギリス・ヨーロッパ・中国とソ連など連合国側の気象情報を総合したもので、日本の放送事情と比較すると、なんと日本は幼稚な判断をしていたのだろうと、思わずにはおれないのです。

『モリソン戦史』とは

 モリソン戦史とは、第二次世界大戦の対ドイツとの大西洋での海戦及び上陸作戦支援と、対日本との太平洋海域の海戦及び上陸作戦支援を全一四巻にまとめた米国海軍省の公刊戦史です。正式には「アメリカ合衆国海軍第二次世界大戦作戦史」と呼び、著者のサムエル・エリオット・モリソンの名を冠した海戦史で、略称を『モリソン戦史』と呼びます。
 著者のモリソンは、海戦史のほかに海難についても多数の著作があり、海戦史・海事史家と言うべき人でありましょう。
 『モリソン戦史』中の沖縄に関する記述は、第八巻の『ニューギニアとマリアナ』(サイパン島・テニアン島の空襲・砲撃戦)、第一二巻の十・十空襲の記述がある『レイテ』、第二次世界大戦の最終巻である第一四巻『太平洋の勝利』で、この巻には沖縄戦での米海軍の戦闘と硫黄島の戦闘が書かれています。
 以下は、第一二巻『レイテ』から台湾空襲の項の抜粋です。なお、本稿末に一九四四年(昭和十九)十月十日に沖縄を襲った米海軍第三艦隊所属の第三八空母機動部隊の全艦艇と機種別の艦載機と機数、同部隊に対する補給艦隊の全容を資料として訳出掲載しました。このような膨大な艦隊、日本海軍の連合艦隊を上回る艦船が沖縄を襲ったのだ、ということにあらためて驚かされます。なお、訳文中の(小文字)は訳者の注です。
1944年10月10日気象図(米軍作成)
画像
<-前頁 次頁->