第二節 『モリソン戦史』から見た「十・十空襲」と読谷山


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【翻訳文】

台湾への空襲(抜粋)
 空母機動部隊の沖縄と台湾空襲 十月十日〜十四日

 一九四四年と一九四五年の両年は、米太平洋艦隊にとって、台風による作戦妨害を受けた大変な年であった。パラオ諸島のペリリュー上陸作戦やソロモン海域の作戦に艦隊の大半が参加したため難を免れたが、一九四四年十月三、四日に台風に巻き込まれた第三艦隊の残りの艦艇は、ウルシー環礁でひどい目にあった。しかし、次期作戦に対する艦隊司令長官ハルゼー将軍の決意を止める事は出来なかった。
 アドミラルティ諸島(ラバウルの西北西約六五〇キロ)のシーアドラー港で、燃料や諸物資の補給を受けたマッケイン中将に率いられた第三八空母機動部隊第一戦隊は、十月四日に錨を上げて北上を始めた。それより先の九月二十四日には、デビソン少将に率いられた第三八空母機動部隊の第四戦隊は、ペリリューの上陸作戦を支援するために同港を後にして、パラオ諸島の西側海域で活動していたが、十月五日には支援作戦を打ち切ってマッケイン中将の戦隊と合流すべく作戦地域を離れた。
 新鋭戦艦ニュージャージーを旗艦として座乗しているハルゼー海軍大将および第三戦隊司令官のフレデリック・シャーマン少将のグループと、空母レキシントンを旗艦とする第三八空母機動部隊司令長官ミッチャー中将のグループの二つの戦隊は、十月六日の午後ウルシー環礁の根拠地から出撃した。
 気象通報によると台風は、(沖縄大東島付近にあって)北上を続けていた。台風の吹き返しの強い東よりの風は、我々のいる太平洋の西側にまで強い波を残していた。
 十月七日の日暮れ前、サイパン島の西約三七五マイル(約六〇〇キロ)付近で、第三八空母機動部隊の第一戦隊から第四戦隊までの全艦艇が合流し、白い航跡を引いて進む様は、まるでトーマス・グレイが詠った詩のようだった。
 …たてがみを靡(なび)かせ、雄々しく天空を駆け抜ける馬よ、四方(よも)に轟くひづめの音は雷(いかずち)のように響き 軍艦(いくさぶね)が波を切り裂き打ち砕いて進む音にも似る 純血な馬よりほか この艦(ふね)と比べられるものが無いゆえに……。
(と、著者のモリソンは新鋭戦艦ニュージャージーや、米太平洋艦隊のほぼ全ての空母を集めて編成された第三八空母機動部隊の勇姿をトーマス・グレイの詩を引用して称えている。)
荒波の中での給油1944年10月8日
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 合流の後、戦略気象通信により大東島付近を通過した台風の余波を避け、第三八機動部隊は右へ転舵し、北緯一九度、東経一三九度付近で、第三艦隊付きの九隻のタンカーを中心とする補給艦隊から十月八日、丸一日を掛けて燃料その他の補給を受けた。台風の余波で波は大きくうねり、一万トンを越すタンカーの甲板は波に洗われ、厳しい操船を強いられる困難の中、全艦艇への補給は続けられた。
 第三艦隊の参謀たちは、沖縄に向かっている第三八空母機動部隊の攻撃目標を隠すため、巡洋戦艦チェスター、同ペンサコラ、同ソルトレイクシティと六隻の駆逐艦を率いているアラン・E・スミス少将に、小笠原諸島の端に位置するマーカス島(南鳥島)への砲撃を命じた。スミス少将に率いられた別動隊は、台風の余波をうまく利用し、十月九日の夜明けから日暮れまで数回にわたって同島を砲撃し、また、レーダー妨害用の錫(すず)テープの切れ端を花火のように打ち上げたが、日本軍は沈黙を守ったままだった。
(原文では、ここにハルゼー第三艦隊司令長官名と旗艦名以下二二行にわたって第三八空母機動部隊の艦船名が入っている。整理して本稿末に掲載した。本書一六〇頁以下参照)
 この陽動作戦は失敗したかに見えたが、北回帰線に沿って哨戒飛行をしていた鹿屋基地を飛び立った二式飛行艇(二式大艇)が、テニアン基地を飛び立ったアメリカの哨戒爆撃機(B24)に同日の午前八時四十五分頃、硫黄島と沖大東島の中間付近で「敵機と交戦中」との無電を発信する暇もなく撃墜された(正確な位置は北緯二三度四五分、東経一三七度三〇分である)。
 佐世保鎮守府司令長官は、哨戒機の通信が絶え、帰着時刻になっても到着しない二式大艇を、敵機動部隊と遭遇し、撃墜されたものと判断して、九州と沖縄の全海軍航空部隊と関係各方面へ通報した。
 その頃第三八機動部隊は、撃墜現場からおよそ二二五マイル(約三六〇キロ)南西方向に離れた海域にいて、設定された目標(沖縄)に向かって全速力(艦隊速度二五ノット)で波を蹴っていた。
 こうした諸状況を見ると、十月十日の空襲は全くの不意打ちではなかったが、かなりの打撃を日本軍に与えたことになる。第三八機動部隊(大東諸島と沖縄本島よりの中間の攻撃発起点を飛び立った航空機)は夜明けから日暮れまでに延べ一三九六機が出撃し、破壊された船舶は、潜水母艦一隻、水雷艇一二隻、小型潜水艦(特殊潜航艇)二隻、貨物船四隻、補助船艇の多数を破壊撃沈の損害を与えたことになる。
 我がパイロットたちの戦果報告よりも多くの損害を日本軍に与えた。日本軍は、これまでも自軍の損害をけして公表したことはなく、「我軍の損害軽微なり」と数値を挙げることはなかった。
 日本軍側の損害は、我々の公表した「航空機一一一機」という数値にかなり近い数を失っているはずだ。我々の損害は航空機二一機、パイロット五名、水兵四名だった。
 沖縄本島の西側海域に配備された護衛潜水艦スターレットは、撃墜されたパイロットを六名救助した。最初の東京空襲作戦に参加したB25爆撃機を搭載発進させた空母ホーネットと、通商破壊作戦に従事している潜水艦以外に、日本の勢力圏内に入り込んだ水上艦艇は、この第三八空母機動部隊が最初である。
 米軍の一番近い根拠地といえば占領したばかりのサイパンだが、そこは沖縄から一二〇〇マイル(約一九二〇キロ)も遠く離れた場所で、そこから我々は前進し、攻撃を加えているのである。
 硫黄島から九州、韓国、中国東海岸、台湾、フィリピンのルソン島とたどり、線で結ぶと巨大なUの字を逆さまにしたような形が現れる。Uの字の頂点に並ぶ航空基地群は、敵(日本軍)が空の勢力(威力)を象徴するかのようである。
 我々は、その勢力圏に首を突っ込んで行ったのである。それらの航空基地群の中でも琉球列島に構築された航空基地群は、さらに手強いものであった。
 第三八空母機動部隊は、彼ら(日本軍)の港が軍艦によって満ち溢れ、飛行場には戦闘機や爆撃機が所せましと並べられているのを見つけだし、襲いかかったのである。
 日本の連合艦隊司令長官豊田副武大将は(ルソン島の海軍基地を視察の途中にあった)、米軍の沖縄空襲を台湾で知らされた。日吉司令部(連合艦隊司令部のこと)で長官の留守を預かる草鹿参謀長は、第三八機動部隊の沖縄空襲を正しく評価し、十日の午前九時二十五分、長官に代わって全海軍航空部隊に対して「捷一号(レイテ方面)」と「捷二号(台湾方面)」の両作戦の警戒配備を命じた。
 豊田司令長官は、同日午前九時三十分、第六基地航空部隊を率いる第二航空艦隊司令長官福留繁中将に対し「敵を捕捉撃滅せよ」と下命した。
 また、午前十時十九分には豊田司令長官名で草鹿参謀長は、空母「瑞鶴」同「瑞穂」、水上機母艦「千歳」同「千代田」、航空戦艦(戦艦を改造し水上機を搭載)「伊勢」同「日向」に対し、航空機を搭載し、出動可能の態勢で待機することを指示した。
 台湾で足留めされていた豊田連合艦隊司令長官は、決戦に先立って空中戦が始まったことを知り、戦闘部隊の指揮を台湾の仮本部から行うことを決めた。
 マニラにあった南西方面艦隊の三川軍一中将は、豊田司令長官に、台湾への米軍空襲がフィリピン防衛にどのような結果を生むかを厳密に判断して意見書を提出した。
 台湾高雄基地にあった第二航空艦隊(陸上航空)司令長官福留繁中将は、台湾防衛のために、全島にある約二三〇機の戦闘機と九州基地にある日本陸海軍航空隊のエリート部隊のT(陸・海軍の混合爆撃隊)を第三八機動部隊撃滅のために使うことを決めた。
 ところが第三八機動部隊は、台湾攻撃の前にルソン島北部海岸のアパリ航空基地を攻撃するために、目標から三二三マイル(約五二〇キロ)の海域にいた。陣容はマッケイン司令官の第一戦隊とデビソン司令官の第四戦隊であり、ロケット発射機を着装した二二機を含む六六機の艦載機を、午後一時前(十二時四十分)に発進させた。
 敵(日本軍)はロケット弾には抵抗しようもなく、一五機はたちまち撃墜されたが、我方も七機をこの攻撃で失った。また、我が艦隊に襲いかかって来た日本軍機は、艦隊上空で警戒飛行を続けていた護衛戦闘機群(原文CAP= Combat Air Patrol の略)によって三機が撃墜された。
 アパリ基地への攻撃は大した効果を挙げること無く、かえって台湾の日本軍に一息つかせることになり、我々への反撃準備を許してしまったようなものだった。
 その日は、随伴する第三艦隊所属の第三〇洋上補給艦隊第八補給群のタンカー一二隻により朝早くから燃料の補給が始まり、午後六時頃に補給は終わった。しかし、同時に護衛空母群から六一機の航空機と三名のパイロット、一一名の海軍兵士が、新たに第三八空母機動部隊へ補充された。
 十月十一日から十二日の夜、機動部隊は、二四ノット(約四四キロ)の高速で艦隊を台湾攻撃海域に移動させるために北北西に針路をとった。
 翌十二日から三日がかりの大攻撃が始まった。目的は、台湾をこれから始まる(米軍の)レイテ上陸作戦にあたっての日本軍による補給・中継基地にさせないために、軍事的な構築物を徹底的に破壊することにあった。
1944年10月31日レイテ湾海戦を終えてウルシー港に停泊する第38空母機動部隊
(前方は軽空母ラングレイ)
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 台湾から東約五〇から八〇マイル(約八〇〜一三〇キロ)沖の攻撃発起点に、第三八空母機動部隊の全艦艇が夜明け前に到着し、敵が通常行う不意打ちを待ち構えていたが、何事もなく時間は過ぎていった。
 日の出前の午前五時四十四分、台湾と周辺空域の制空権を得ようと第一波攻撃のため四個戦隊に属する空母から、爆撃機、戦闘機などが一斉に発進した。
 この日、第三八空母機動部隊の各空母から延べ一三七八機の戦闘機、爆撃機、雷撃機が飛びたっていった。
 ボーガン少将が率いる第二戦隊は、第三艦隊司令長官ハルゼーが座乗する旗艦、ニュージャージー(戦艦)とともに台北、基隆など主要な都市と港湾がある北部を、第一戦隊のマッケイン中将は台湾南部を、第三戦隊のシャーマン少将は台湾中部を、第四戦隊のデビソン少将のグループは高雄地区を中心として、各地の飛行場・港湾など軍事施設を目標にした。
 日本軍の第二航空艦隊司令長官の福留繁中将は、自分の司令部上空で始まった空中戦について次のように述べている。「飛行機が墜落し始めた時、敵機が落とされたと思い、良くやった、大成功だ、と叫んで手を叩いたら、落ちて来たのは日本軍機だったことを知り、『我軍の兵士たちは、堅い岩盤に叩き付けられた卵以外の何物でも無い』」と日誌に書き記している。
 第二航空艦隊司令部の破壊など、日本軍の地上設備は壊滅的なほどに破壊され、我が軍の最初の爆撃で、多くの指導者を含め日本軍の戦力は三分の一を失った。二回目の爆撃では、反撃態勢に入ることのできた兵士(パイロット)は約六〇名程度に落ちていた。第三波の米軍の攻撃に対しては、反撃する者はもう地上に見つからなかった。
 しかし、我が軍の損害も大きく、攻撃に参加した航空機を四八機も失い、ほとんど全ての空母は、日本軍機に一日中追っかけ回され、午後七時以降の夕暮れ時には、雷撃機による一連の襲撃が開始され、夜半に至るまで米軍の行動は制約を受けた。これらの襲撃は、T部隊による沖縄と九州基地からの長距離攻撃だった。
 この日本軍虎の子のT部隊も、四二機の爆撃機が失われたことを福留司令長官も認めている。これらの日本軍機を撃墜したのは、第一戦隊に属する護衛空母カボット並びに第二戦隊の同じく護衛空母のインディペンデンスに所属する護衛戦闘機群と第二戦隊の対空砲火によるものだった。
 十月十三日の夜明けには、第三八空母機動部隊は小港から一一〇度(東南東)方向の約七〇マイル(約一一〇キロ強)にある攻撃発起点に到着した。
 攻撃開始時間は、日の出一時間三十分前の午前六時十四分、連日同じ攻撃パターンで延べ九七四機が出撃し、午前中で全ての攻撃は終わった。攻撃に参加したパイロットたちは、これまで知られていなかった新しい航空基地を発見した。中でも第三戦隊に割り当てられた攻撃地域には、事前に渡された四つの目標以外に、新たに一五の航空基地が発見された。
 第四戦隊の正規空母フランクリンが、所属航空機の収容態勢に入った時に、レーダーに捕捉されない低空で、T部隊のベティー(一式陸攻)四機が襲って来た。
 着艦態勢に入っていたF6FのA・J・ポープ大尉は、直ちに機首を起こし反撃態勢に入り、空母の対空火器とともに一機目を撃墜した。二機目は、外郭防御駆逐艦(原文=Screen。機動部隊の場合は外郭防御陣とか第一線防御陣、または艦となり、レーダーと対空火器を増加武装した駆逐艦。第二線防御陣をディフェンス= Defense=。空母を挟んで護衛する艦をエスコート=Escort=艦と言う)によって撃ち落とされ、三機目は、空母フランクリンの艦首に向かって魚雷を投下したが、撃墜された。
 四機目が投下した魚雷は、空母フランクリンの後部艦底の下を潜り、投下した攻撃機はフランクリンの飛行甲板に激突し、すべりながら甲板を横切り、火の玉となって艦外に落下した。空母フランクリンの被害は、さしたることもなかったが、第一戦隊の重巡洋艦キャンベラは、日本軍の航空魚雷によって大きなダメージを受けた。
 キャンベラの救助活動を行うなか、十月十四日の台湾攻撃は戦闘機一四六機、爆撃機一〇〇機の一回限りと縮小されたものとなった。この縮小された攻撃で、我々は戦闘機一七機と爆撃機六機を失い、第三八空母機動部隊の戦闘能力は低下し、中国の桂林基地の米空軍一〇一〇爆撃隊から一〇九機のB29爆撃機(超空の要塞)と陸軍の護衛戦闘機隊に頼らざるを得なくなり、彼らによって高雄地区の爆撃が行われた。
 この三日間の第三八空母機動部隊の台湾空襲で破壊した敵の航空機は五〇〇機以上にのぼり、四〇隻ほどの船舶を撃沈破させ、弾薬集積所や航空機格納庫、兵舎、工場、商店などを破壊した。
以上はモリソン戦史(米海軍公刊戦史)第一二巻「レイテ」の第六章台湾空襲(八六頁から九五頁まで)の訳である。
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