第二節 『モリソン戦史』から見た「十・十空襲」と読谷山


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沖縄近海へ迫る第三八空母機動部隊

1944年10月10日空襲の第38機動部隊 航跡図
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 前掲のモリソン戦史『レイテ』の「台湾空襲」の項によると、第三八空母機動部隊の第一戦隊は赤道を越えニューギニア島の近くで、南緯二度付近、東経一四七度付近に散在するアドミラルティ諸島の主島マヌス島(沖縄本島の約二〜三倍の大きさ)の東にあるシーアドラー港から十月四日に出港しています。
 アドミラルティのマヌス島は、日本海軍の主要な航空基地であったニューブリテン島の北東に位置するラバウル海軍航空隊所在地の北西に位置する島です。一時期、同島を日本海軍第四艦隊(南西方面艦隊)が占領する計画を持っていましたが、兵力不足によって見合わせました。その後、なぜか陸軍の補給連隊が上陸占領しています。補給連隊は、一個小隊に小銃や軽機関銃が二、三丁しかなく、戦闘能力はゼロに等しい部隊でした。なぜラバウル基地の後方要地に補給連隊が、と疑われる部隊配置をしていたのです。
 米軍は蛙跳び作戦で、ラバウル基地を素通りしてアドミラルティ諸島を艦隊泊地として占領し、ラバウルの日本軍は敵中に孤立してしまいました。武器・弾薬の補給は勿論、食糧の補給さえ出来ない状態になりました。
 シーアドラー港には、もう一つの米空母部隊がいて、この部隊はパラオ群島のペリリュー島への上陸作戦の支援艦隊として九月二十四日に出港し、ペリリューの日本軍攻撃に参加していました。この空母部隊は同島攻略の目途がついたために、十月五日に攻撃を打ち切り、第三八空母機動部隊の第四戦隊として、沖縄・台湾空襲に参加しています。
 パラオの日本軍守備隊の「コッソル水道の米空母四隻は、一日夕刻以後、姿を消した」ということと、「パラオ東方海面の空母三隻は、十月四日に視認できず」(参考文献)と報告されているのは、同空母群のことと思われます。
 米海軍は、パラオ諸島の北東約六〇〇キロ付近にあるウルシー環礁を艦隊泊地として、約一個師団のマリン部隊を上陸させ掃討作戦を実施しました。
 旧南洋庁の資料によれば、同環礁には、一九四〇年(昭和十五)の島勢調査(国勢調査と同様な調査)で、コプラ採取人が一名在住となっています。
 環礁の広さは、帝国海軍連合艦隊が中部太平洋の根拠地としていたトラック諸島の約半分ほどの大きさで、米軍にとって、これから進めるフィリピン侵攻作戦や中部太平洋の日本軍攻撃の有力な海軍基地になると見ていました。
 そのためペリリュー作戦の一部兵力を割いて、上陸占領したのです。同環礁には、日本海軍は機雷を敷設(ふせつ)しただけで放置してありました。
 ある日突然、無線搭載艦からの多数の電波発信を察知して、大本営海軍部は、連日の作戦会議などでも話題にはなりましたが、場所を特定出来ず弱り果てていました。
 それを知っていたのは、海軍部の軍令部次長だけで、言下に「それは、パラオ東方のウルシーだ」と言った。このことは、はからずも大本営海軍部参謀たちが、連合艦隊傘下各部隊の実情や作戦行動を掌握してなかったことを意味するのではないでしょうか。
 そのウルシー環礁を、米第三艦隊旗艦ニュージャージーが第三八機動部隊第二群を率いて出港したのは十月六日です(第一群の出発は十月四日)。アドミラルティの主島マヌス島の東端シーアドラー港を出た第三八空母機動部隊の第一群と、ペリリュー作戦支援の第三八空母機動部隊の第三群がパラオ東方海上で合流して、北上を続けます。
 六日遅くか七日早朝、マリアナ近海で遊弋(ゆうよく)哨戒にあたっている空母群(第三八の第四群)を合わせる大艦隊となりました。この空母群は、サイパン攻撃とガダルカナル島攻防戦の時は、第五艦隊に所属していました。
(遊弋・ゆうよく 艦船が同一海上を往復して待機すること。)
フィリピン作戦を終えてウルシー環礁に停泊する第3艦隊空母群1944年12月8日
前からワスプ、ヨークタウン、ホーネット、ハンコック、タイコンデローガ
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 空母第一群は、正規空母ホーネット、ヨークタウン、軽空母ベローウッド、同バターン(日本海軍の潜水艦がウルシー偵察の時、空母一隻と報告した故障空母か、沖縄・台湾空襲に参加せず)からなり、同第二群はバンカーヒル、ワスプ、軽空母のモンテリー、同カボットで、第三群はエンタープライズ、レキシントン、軽空母のサンジャシント、同プリンストンで、同四群はエセックス、軽空母ラングレイ、同コウペンスで構成されています。合計すると正規空母七隻、軽空母八隻を中心とする艦隊なのです。
 それが第三八空母機動部隊に合流すると、第五艦隊の指揮編成下を離れ、第三艦隊の艦隊番号へと変わり、新たに空母などの編成替えが行われています。
 八日には、ハワイからやって来た第三艦隊所属の第三〇―八(艦隊略称・第三艦隊第八補給グループの意)洋上補給群と無線統制のなかで合流し、まる一日かけて一二隻の給油艦(タンカー九隻含む)から全艦隊が補給を受けています。
 七日は、大東島に風速四二メートル余の暴風が襲っていました。この台風は、ウルシー環礁付近で発生した熱帯低気圧が北上し、台風となったものでした。
 台風を避ける意味もあったでしょう。機動部隊は、沖縄へのコースから北東へ大きく針路を変更しています。台風の余波で、補給海域では荒れた状態での補給作戦でした。
 この時、日本海軍の潜水艦に発見され、潜水艦は「花蓮港東方洋上に米大艦隊発見」の電報を打ちました。空母だけで(補給群の護衛空母を含めて)二八隻と戦艦六隻、巡洋艦一四隻、駆逐艦六〇隻以上という、日本海軍潜水艦にすれば連合艦隊の比どころではなく、これまで見たこともない大艦隊でした。
 大本営は数日前から、突然消えた艦隊(無線艦所)の行方を探していました。それは、パラオ守備隊から「パラオ本島北側のコッソル水道から、二、三の小艦艇を除いて、空母が姿を消した」との電報を受けたからでした。潜水艦からの電報を受けた大本営は、台湾軍や第三十二軍などに、警戒電報を打ちました。
 台湾軍や海軍からの警戒電報に対して、沖縄の第三十二軍は「海軍からの電報は、疑わしく……」と、台風来襲で運天港や瀬底水道に避難していた艦船に、台風通過で波が静まった九日、空襲前日に当たる日に、那覇港へ帰ることを命じました。
 その頃、補給を終えた第三八空母機動部隊は、北西へ針路を取り、艦隊速度二四〜二五ノットの高速で一路沖縄を目指していました。
 台風が過ぎ去った秋空を、鹿児島の鹿屋海軍基地を哨戒のため飛び立った四発(四つのエンジンを積んだ)の二式飛行艇を、占領したばかりの南洋テニアン基地を発進したB24哨戒爆撃機が「ヒ、ヒ、ヒ(敵飛行機発見)……」の緊急電を打つ間も与えずに、硫黄島と大東島の中間点付近で撃墜しました。
 鹿屋基地では「無線機の故障だろう」と、飛行艇の帰着時間まで待つことにしました。しかし、時間になっても帰って来ない飛行艇は撃墜されたものと判断し、前記の警戒電報を、沖縄、台湾などの関係方面に打ちました。それを第三十二軍は「疑わしく…」と黙殺したのでした。
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