第二節 『モリソン戦史』から見た「十・十空襲」と読谷山


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沖縄の日本軍航空基地の建設

 日本陸軍航空本部が、沖縄で飛行場建設を始めたのは一九四三年(昭和十八)夏頃で、読谷山の沖縄北飛行場の建設に着手し、国場組に工事を請け負わせて実施していました。
 一九四四年(昭和十九)三月二十二日、大陸命第九百七十三号で「第三十二軍ノ戦闘序列ヲ令シ且之(カツコレ)ヲ大本営直轄トス」と、大本営陸軍部命令(大陸命)が出され、初代の司令官に渡辺正夫中将が任命されました。
 戦闘序列とは、天皇による戦闘部隊(作戦軍)の編成命令で、具体的な兵種(歩兵、砲兵、戦車、高射砲など)は、参謀本部で立案し、総長名で発令されます。
 作戦軍の編成命令が出されると、その地域は戦場になる公算が大きいといわねばならないでしょう。
 前記の第三十二軍が、沖縄に展開を始めた時も、前年から建設が始まっていた飛行場群で完成されたものは一つもありませんでした。
 当時の飛行場建設にしろ、道路作りにしろ、建設用重機械、ブルドーザーやグレーダーなどはなく、そのほとんどがスコップと鶴嘴(つるはし)でした。運搬は、荷馬車にトロッコ、もっこというような人手によるものでした。
 当時沖縄には、金武開墾に四気筒の小型ブルドーザーが一台ありましたが、小禄の海軍飛行場の拡張工事で運転手とともに徴用されました。
 第三十二軍は沖縄展開と同時に、陣地作りを始めましたが、大本営からの催促で、飛行場作りにも兵力を割かなければなりませんでした。
 飛行場作りは国場組の請負から軍直轄の工事となり、各市町村への徴用割り当てが強化されました。徴用は普通二週間で、荷馬車などは、まるまる一か月も徴用されっぱなしという例もたくさんありました。
 防衛庁が作成した資料(参考文献)でも、読谷山の北飛行場を除いて延べ五〇万二三五七名が伊江島東、嘉手納、西原、仲西の各飛行場に徴用動員されています。
 しかしそれだけではなく、宮古、八重山の各飛行場建設にも、本島から徴用動員されています。特に、八重山への徴用では多数の読谷山村民が徴用されました。徴用明けで帰る途中の船舶が久米島沖で十・十空襲に遭遇し、撃沈され村出身者から多数の犠牲者を出しました。
 県民の徴用労働は飛行場建設だけではなく、市町村に駐屯している第三十二軍傘下の各部隊の陣地構築にも、各市町村、町内会、隣組を通じて行われています。この総数は不明ですが、小学校(国民学校)三年生以上が陣地作りに動員されたと、各市町村での聞き取り調査で明らかにされています。
 延べ数で言えば、当時の県人口約六〇万人の数倍の人たちが、陣地作りの徴用労働(労賃あり)や勤労奉仕(労賃なし)の名のもとに動員されました。
注記
 飛行場建設への徴用動員数については、完全に把握できる資料は今のところありません。林博史著『沖縄戦と民衆』、『第五〇飛行場大隊戦闘日誌』、『沖縄方面陸軍作戦』から当時のおおかたの様子を知る手がかりを以下に記します。
 伊江島飛行場建設徴用動員数(一九四四年五月五日〜八月三十一日)という表によれば、この四か月間の動員実数が三万七八四〇人となっています。徴用者は原則として一〇日間働くこととなっており、延人数は三七万八四〇〇人になります。
 また、沖縄本島の東・南・中飛行場に徴用された「労務者」は、五月の一か月間でそれぞれ延べ七万二八四二名、六万九五一五名、六万三〇〇九名であった。五月一日は起工式であり、ほかに雨のため作業を休止した日が各飛行場とも三日間あったので、一日あたりの人数は七六〇六名になる、となっています。
 その結果、沖縄には伊江島三か所(東、中、西)、北(読谷山村)、中(北谷村屋良)、南(浦添村仲西)、東(西原村小那覇)と、拡張された小禄海軍飛行場の八つの飛行場が本島と周辺離島にでき上がりました。
 さらに、宮古、八重山に陸海軍の飛行場が建設され、当時のことばで「不沈空母沖縄」と呼ばれるようになりました。
 県内全域に飛行場が徴用労働で建設され、中継及び戦闘などで収容可能な航空機は、一千数百機を越える状態になりました。
 もしこの航空基地が計画通り動いていたら、米軍にとっては大変な脅威となります。しかし、航空機の生産と操縦者練成がとても間に合わなくなり、一九四四年(昭和十九)の航空機生産は目標を達成するかに見えましたが、機体はできたがエンジンは不合格という、首無し航空機が多数出て、航空機工場に野晒しにされる状態となりました。
 そのため、海軍の飛行予科練習生として航空機操縦に夢を持って入隊した若者たちは、飛行機の代わりに「震洋」というベニヤ板製のボートに爆薬を装着した体当たり用の特攻艇に乗り込まされるようになり、金武村金武や屋嘉に配備されていました。また、高等専門学校や大学などの学業を中断させて召集した「海軍予備学生」も乗り込ませていました。
 ベニヤ板製の自殺ボートは海軍だけでなく、陸軍も「マルレ」という特攻艇を慶良間諸島や北谷村桑江、喜屋武村名城、豊見城村饒波、玉城村堀川、佐敷村佐敷、読谷山村内では比謝川の中流から河口などに配備していました。
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