第二節 『モリソン戦史』から見た「十・十空襲」と読谷山


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「十・十空襲」直前の沖縄守備軍の状況

 太平洋を島伝いに上陸作戦を行い占領する米軍の戦法は、次のようなものでした。まず艦載機による空襲で日本軍陣地、それも飛行場を含む対空・対艦陣地を空からの攻撃で無力化し、制空権を握ると戦艦などの護衛艦隊からの艦砲射撃に移り、最後に輸送船団から上陸部隊が進攻するというものでした。
 大本営が「沖縄を不沈空母に」と号令をかけて、多くの沖縄県民を動員して作った飛行場には、どれくらいの戦闘機が常駐していたのでしょうか。
 当時北飛行場には、台湾へ移動した第八航空師団傘下の独立飛行中隊が、四個小隊一二機(一式「隼」戦闘機と三式「飛燕」戦闘機)が、飛行場建設に協力した第三十二軍への謝意のつもりで、師団移動後も残されていました。
 あとは海軍の銀河という双発の偵察機九機と、海軍小禄飛行場の艦上偵察機などでした。また、空輸中の海軍零(ゼロ)式戦闘機も多少、北飛行場に翼を休めていたようです。実際に戦闘が出来るのは、前記の第八航空師団所属の独立飛行第二三中隊だけで、米第三八空母機動部隊の艦載機群一〇八一機を迎え撃つ常備の戦闘機は一二機編成の一個戦闘飛行隊だけだったのです。
 さらに悪いことには、米軍機動部隊が補給を終え沖縄に向かって最大速度で接近を始めた八日に、小禄の海軍飛行場や北飛行場から飛び立ち全軍の目となるはずの索敵機の索敵・哨戒の飛行コースが六コースから四コースに減らされました。
 日本軍も米軍も、ともに重視していた北と中の両飛行場の対空陣地は、高射砲が四四門、高射機関砲四〇門、高射機関銃三六丁、レーダー二基(うち一基は修理中であったが、十日午後二時より運用、もう一基は空襲直前に運用を中止していたが、空襲で運用を再開)、自慢していた伊江島周辺でも、本部町渡久地を含めて、高射砲一一門、高射機関砲一二門にすぎませんでした。
 那覇地区は、独立高射砲第二七大隊の第一中隊と第二中隊で一二門が、天久台付近と那覇港南の高台に配置されました(防衛庁戦史から抜けている他の高射砲部隊は国場高台、南風原村津嘉山付近に配備されていました)。
 また、第三十二軍の対空レーダー(首里)は、北東部から東を小さな丘に遮られ、北の一部、西側、南方向の半分ほどしか電波の照射ができない位置に設置されていました。
 その他に、海軍の高射砲台が飛行場を囲むように、計九門が配備されていた、と防衛庁戦史に記述されています。
 これを米第三艦隊の旗艦ニュージャージーの対空防備と比較して見ることにします。(主砲を除く)五インチ(一六・八センチ対空・対艦両用)高角砲二〇門、四〇ミリ機関砲八〇基、二〇ミリ機関銃五〇基と、高射砲は北・中両飛行場の半分だが、四〇ミリや二〇ミリの機関砲や機関銃は倍以上装備されています。
 第三艦隊の旗艦とはいえ、一艦が陸上基地の倍以上の機関砲や機関銃を装備しています。さらに、威力を発揮するのがVT信管と呼ばれる近接信管で、命中しなくても目標近くで爆発し、目標を撃破する(沖縄戦では、特攻機に対し、距離、高度七〇〇メートルで爆発)ことができるような弾も使用されていました。その弾が爆発することによって、弾幕を張り、それをくぐり抜けるのは至難の技と言われていました。
 こうした対空砲火の強化は、一九四一年十二月八日の日本海軍航空隊の真珠湾奇襲攻撃からの教訓として、以後建造される各種軍艦に取り入れられたものです。
 日本軍は、真珠湾やマレー沖海戦で果たした航空機の威力を正当に評価せず、依然「大艦巨砲主義」に頼っていました。それは先にも述べたレーダーについても、同じことが言えると思います。
 米海軍第三八空母機動部隊の夜間戦闘機は全機レーダーを装備していましたし、空母ハンコックにもレーダー装備の爆撃機が一二機搭載されていたのです(レーダーの発明者は、東北大学の八木工学博士)。
 また、別掲の資料にあるようにF6Fグラマン戦闘機の武装を解き、代わりに写真機を乗せ、次期作戦と想定している「アイスバーグ(沖縄上陸)」作戦のために、各航空母艦に二〜三機の写真偵察機として配置しています。
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