第二節 『モリソン戦史』から見た「十・十空襲」と読谷山


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不用意な沖縄守備軍

空襲と守備隊

 その頃、大東島で四二メートルと吹き荒れた暴風は、十月九日には北海道付近まで北上しました。風が静まるのを待っていた沖縄の第三十二軍は、運天港や瀬底水道に避難していた船舶に、那覇港への帰還命令を出しました。
 第三十二軍の関心は、九日開催の牛島司令官招宴と、翌十日に行われる長参謀長が主務者となる兵棋演習にあったと思われます。牛島司令官は、兵棋演習を行い、対米軍戦への士気を高めるため、傘下の各部隊長や市町村関係者を招待しての宴席を準備していたのでした。したがって、海軍の「花連港東方海上に、敵大艦隊発見……」という情報に対しては真剣に取り上げていなかったのです。
 陸軍航空隊の戦闘機隊が駐屯している陸軍北飛行場(読谷山)では、九日の夕食に軍旗祭と思われる酒も出る特別食が出されました。
 軍旗祭とは陸軍の連隊創設の日で、天皇から軍旗を授けられた日を記念して行われるものです。軍隊内で食事と一緒に酒が出される陸軍唯一の無礼講の日でした。
 こうして飛行場の関係部隊に酒が配られ、将兵らは酩酊(めいてい)して、ぐっすり寝込んだのです。
 宴会をしていたのは、第三十二軍首脳部や北飛行場だけではありませんでした。海軍小禄飛行場でも、日頃の勤労奉仕や徴用、野菜などの供出に対してお礼の意味を込め、村三役や国民学校、青年学校校長などを夫婦同伴で招待し、宴会を部隊内で催しています。
 沖縄では、翌十日の空襲も予知せず「海軍からの情報は疑わしく……」と、酒の勢いで気炎を挙げている最中、敵の米第三八空母機動部隊は、予定の攻撃発起点である北緯二四度から二五度、東経一二九度から一三〇度三分付近の海上を沖縄本島に平行する形で到達しました。
 十月十日のまだ明けやらぬ海上を、航空母艦から一番機が発進したのは、午前五時四五分でした。第三群の主力航空母艦エセックスから北・中飛行場を攻撃目標とする第一五戦闘機隊のさきがけでした(参考文献)。
 米軍の前記の攻撃発起点は、沖縄本島東南端の知念岬から約二八〇キロほどの海上で、米艦載戦闘機の主力グラマンの巡航速度で約一時間足らずの距離になります。
 この米艦載機群に最初に気付いたのは、海軍の電波探知機(レーダー)隊で、「一六〇キロ南東に反射大、敵味方不明……」(参考文献)と、小禄の海軍根拠地隊本部に報告しますが、当時のレーダーは信用されてなく、黙殺されてしまいます。
 その次に敵機を捕らえたのは、勝連の民間監視哨でした。監視哨員になるには、音感教育を受け、音感優秀な者が採用されていました。国民学校では、レコードやオルガンの和音などで、米軍機の識別が出来るような音感教育を施していました。
 勝連監視哨は警察電話を通して、第三十二軍の防空担当部署に「敵グラマンとカーチスの爆音……」と報告しますと「お前らが、なんでグラマンやカーチスと分かる。デマを飛ばすと承知しないぞ」と、怒鳴られる始末でした。
 これは、那覇警察署の防空担当だった人も軍から怒鳴られたと、那覇市史の『沖縄の慟哭』で証言しています。
 米軍機は、本島東南端の知念岬から海上を迂回して、勝連半島上空を通過し、読谷山の北飛行場に殺到しました。
 その模様を『那覇市史資料編第三巻七』の「読谷山飛行場の十・十空襲」(一九七頁)渡慶次※※さんの証言記述から、少し長い文章ですが引用させてもらいます。
 「(前略)……酒もたばこもやらなかった私は、酔っぱらいの看護や食膳の後片づけをして午前零時を過ぎるころ、会は終わったと思います。
 明けて十月十日は偶然にも「十・十空襲」でその前後のできごとなので何とも不思議です。十月九日は飛行場全体が各隊とも宴会をしていたということです。それは、その日の夕食受領のため炊事に行ったとき、その日の夕食は特別に会食用のごちそうとともに、どこの隊でも何本かの清酒が下給品として支給されていることを知っていました。
 中部の読谷山飛行場には、空中勤務者、地上勤務の各部隊、大刀洗陸軍航空廠分室や私たち風部隊など、いろいろな部隊が駐屯しており、その食事を一手に引き受ける大きな炊事部隊があって、私たちは交代で、朝昼、晩の食事の食罐(しょくかん)をもらいに行きました(たばこ、酒、甘味品もそこで支給されました)。
 昭和十九年十月十日午前六時に私は目をさまし、皆さんは昨夜の会の疲れで寝ているので、私一人でめし上げにでも行こうかと思い、服を着替え、部屋で窓の外をながめておりました。午前六時ごろになって、そろそろ作業に取りかかろうとする人たちが管区本部の近くを歩くのが見え、しばらくボサーッとしておりました。
 午前七時前になったでしょうか。突如、ダッダッダダッーと機関銃の音が耳をつんざくように聞こえ、わたしは『ああ、いつもの飛行機の事故か』くらいに思い、窓に近寄ってみますと、飛行機が二機火を吹いてすさまじい勢いで燃えていました。
 (中略)……本部の後方にある気象班のやぐらに立哨していた兵士が大声で、それも悲痛な声で「ジッテキー」「ジッテキー」(実敵、実敵)と叫ぶと当時に、爆弾のさく裂する音が続けておき、空襲だとわかりました。……(後略)」
 地上で飛行場勤務の兵士などが慌てふためいている時、独立飛行第二三中隊では、専任将校の馬場園房吉大尉が単機離陸し、第一次空襲のグラマン機群を追跡して、米艦隊の位置を確かめようとしました。
 馬場園機は、第二次空襲の米軍機と遭遇し、伊江島東飛行場にからくも逃げ切り、撃墜されることを免れました。
 北飛行場では、馬場園大尉機の帰還と報告を待ち兼ねた木村信隊長(大尉)はしびれを切らし、全機出撃を命じ一斉に離陸しましたが、第二次空襲の米軍機に逆に邀撃(ようげき)されました。六機は撃墜され、三機は被弾不時着して大破、一機は炎上させられましたが、一機は辛くも難を逃れました。
 当時、北飛行場には、海軍の双発偵察機「銀河」や空輸中の「ゼロ戦」など約二七機ほどが駐機していましたが、地上で攻撃を受け全機炎上破壊されました(参考文献)。

伊江島で

 「また、勤労奉仕で伊江島飛行場に動員された羽地村青年学校の生徒たちは、十日の朝、滑走路の地ならしをしていると、係りの兵隊が来て『今日は、演習がもうじき始まるので、滑走路から出て、座って演習を見学しろ』と命じられました。全員が滑走路外の草地に座って見学をしていたら、隣に座っている友達がもたれかかってきた。見ると、頭から血を流して死んでいる。それから大騒ぎになって、敵機だと逃げ出しました。この日、一番多くの死傷者を出したのは、羽地青年学校の生徒たちでした。
 徴用労働で、伊江島に来ていたなかで、死傷者なしという村もありました。それは金武村からの徴用者たちでした。
 午前七時頃、徴用作業のため飛行場に出て来た金武の人たちのうち、前の年(一九四三年=昭和十八)に移民先で米軍空襲を体験した、サイパン帰りの一人が、南の方、読谷山の方角に上がる煙を見て『あれは、高射砲の弾の煙だ。空襲だ』と言って『早く逃げないとダメ』と村人に言い始めました。
 彼女の言葉が終わるか終わらないうちに、敵機が飛行場目掛けて突っ込んで来た。みんな我先に逃げ出し、金武村の人たちで、負傷したり死んだ人はいない。
 また、ハワイからの移民帰りのおじさんも『あれは友軍機ではない、星のマークは米軍機だ』と叫んで、みんなに逃げるのを勧めていました。」(『金武町史戦争編』)

その他各地の被害

 本部港は、飛行場建設の資材、徴用者や軍隊の食糧・弾薬・燃料の積み出しで、人や物の出入りが激しくなり、にわか景気で潤っていました。
 市場には、伊江島に積み出す弾薬や燃料が集積されていました。また、町の後背地の高台には伊江島に向かって、瀬底から備瀬岬まで見通せる監視哨が作られ、米軍機に対する備えとしておりました。
 難を言えば、東、南、西には山が連なり、三方向からの敵襲には、襲われる瞬間まで気付かない位置に監視哨は作られていたのです。
 本部(もとぶ)は、伊江島とほぼ同時に襲撃され、市場の中に野積みされていた弾薬が直撃を受け爆発し、警察、郵便局など主要な建物、公共施設が全焼し、連絡不能となりました。
 また、鰹漁船が漁の途中に銃撃され、死亡者が出る事件が起こりました。エンジンが止まり漂流しましたが、三日後にやっとエンジンを修理し帰ることができました。
 瀬底水道に停泊していた潜水母艦「迅鯨(じんげい)」と水上機母艦「神威」は、米軍機の波状攻撃を受け撃沈されてしまいました。この二隻は、運天港に特殊潜水艦と呼ばれていた、海軍呼称の「甲標的」を運んだ後でした。
 運天港の潜航艇基地も爆撃を受け、二隻が沈没、魚雷艇一三隻沈没、海軍籍の「立神」と一五八号輸送艦、五八号駆潜艇、掃海特務艇として海軍に徴用されていた「新浦丸」も撃沈されました。
 北飛行場での航空機の損害は、陸軍の資料(参考文献)では次の通りです。陸軍三式戦闘機と一式戦闘機、計一二機、海軍の銀河一三機、彗星六機、ゼロ式戦闘機一機(注記 参考文献と陸軍の資料参考文献とでは数値が一致していません)。
 小禄海軍飛行場では、九六式陸上攻撃機三機、一式陸上攻撃機一機、ゼロ式戦闘機八機、そのほかに陸軍機五機が、地上で銃撃を受け爆発炎上しました。
 読谷山村親志付近の谷間には、飛行場部隊の食糧・弾薬・燃料を分散格納する壕が掘られていました。ここでは、第三十二軍の「……疑わしく……」という命令よりも早く、出来上がった壕に必需品を分散格納したために、滑走路や駐機場の飛行機や建物などのような重大な被害は出なかった、と報告されています。
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