第二節 『モリソン戦史』から見た「十・十空襲」と読谷山


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日本軍の反撃

 十・十空襲後、沖縄を中継基地として、全国各地の基地から攻撃機を集中し、台湾沖での航空決戦の準備をしました。しかし、攻撃隊の操縦士は未熟な者が多かったのです(本書「元特攻隊員座談会」の項参照)。
 米軍機にはレーダーが装備されていましたが、反撃をする日本軍機にはレーダー装備の攻撃機はありませんでした。
 日本海軍の『海軍捷号作戦1』(防衛庁戦史)には、沖縄を中継基地とした航空機の総数は、沖縄を襲った米軍艦載機総数の約一〇分の一の一三〇機余りです。
 レーダーはなく、総機数は敵に及ばず、未熟な操縦士で敵に立ち向かわざるを得ませんでした。
 まさに歴戦の操縦士は少なく、攻撃参加の操縦士の中には、単独飛行はできるが「ドッグファイト」と呼ばれる空中戦や、魚雷発射などの洋上での戦闘経験のない者がそのほとんどでした。海軍航空隊で訓練中の者や、教導飛行団での訓練も一〇〇時間以下の者たちでした。
 それは、豊田連合艦隊司令長官が「岩にぶっ付けられる卵」と嘆いたのも無理のない話です。沖縄の各飛行場を飛び立った、百数十機の飛行機を二度と目にすることはありませんでした。
 それ以来、日本軍機が飛行場を使うことはほとんどなく、翌年四月一日の米軍上陸で、県民人口を上回る徴用労働で構築された北・中飛行場を始め、沖縄じゅうの飛行場は米軍に占拠され、私たちの上に爆弾や機関銃の雨を降らせることとなったのです。
ここまでの参考文献は次の通りです。
第二次世界大戦米海軍作戦史第一二巻『レイテ』
防衛庁戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
防衛庁戦史叢書『海軍捷号作戦1』
『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』
『中部太平洋陸軍作戦2』
『那覇市史 資料篇第三巻七』
伊江村教育委員会『伊江島の戦中・戦後体験記録』
『金武町史 戦争編』
『読谷村史 戦時記録上巻』
沖縄県公文書館蔵「十・十空襲記録(米国防省文書)」
『沖縄戦と民衆』林 博史著(大月書店 二〇〇一年十二月)
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