第二節 『モリソン戦史』から見た「十・十空襲」と読谷山


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コラム

残波岬を起点とするレーダーピケット艦一六か所の配置図

 米軍は、読谷山海岸に上陸すると、四月六日残波岬を起点として一六か所にレーダーピケットを設置しました。
 米軍が沖縄への進攻を始めてから最初の日本軍特攻機による米軍側の被害(犠牲)は、合計八〇〇名余の死者と六〇〇名余の行方不明者を出した三月十九日の空母フランクリンと同ワスプの二隻でした。この二隻の空母は、沖縄作戦に向かう途中、日本軍の特攻機に捕まり空母フランクリンは大破、二機の特攻機に突っ込まれ七二四名の死者と二六五名の行方不明者を出したのです。
 この図にあるようなレーダーピケットを配置する四月六日までに、四二隻の大小艦艇が被害を受けました。この被害は、沖縄戦の全期間を通じて、特攻機による米軍被害の約三分の一を占めています。
 このレーダーピケット艦の配置により、四月七日からは特攻機による損傷艦艇が激減しています。一方でレーダー積載艦が特攻機の的になったことは否めず、駆逐艦の損傷が増えています。

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 海上のレーダーは、残波岬からレーダー艦まで約一〇〇キロ余、レーダーの性能を日本軍のレーダーと同じと見て、約一六〇キロの到達距離とすれば、特攻機は、鹿児島県知覧や鹿屋基地を飛び立って三〇〜四〇分後(種子島か屋久島付近)には、米軍にキャッチされていたと思われます。
 米軍は、ゆうゆうと迎撃態勢を取れる時間(約一時間半から二時間)があり、レーダーで判別した特攻機の飛行高度より上空で、待ち伏せ攻撃が出来ることになります。
 四月十六日、北部攻撃軍の海兵隊が本島北端の辺戸岬に達すると同時にレーダーを設置しました。レーダーピケット艦に代わり、辺戸岬のレーダーが働き始め、レーダーピケット艦の被害も減りました。
 さらに、VT信管(近接信管)の発明により、例え命中しなくても、日本軍機を撃墜することが出来るようになったことで、特攻機からの被害がさらに減少しました。
残波岬写真中央が20型早期警戒レーダー(1945年6月27日撮影)。
前方は高射砲サーチライト、後方は第2高射砲大隊G中隊の砲座。
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