第二節 『モリソン戦史』から見た「十・十空襲」と読谷山


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コラム

米軍上陸以前に捕らえられた住民

 北谷、読谷山両村の住民や恩納村仲泊、真栄田辺りの聞き取りに「私は三月二十八日頃、米軍に捕まった」、「私は二十八か九日に捕まった」、「四月一日に米軍が上陸したとされるが、その前日に海岸でアメリカーたちを見た」などといった証言があります。
 これは海岸沿いの人たちが語っていることですが、米軍上陸前の行動や装備(艦艇を含め)、人員配置を仔細に見れば納得できます。
 米海軍作戦史の『太平洋の勝利』の巻末にある、米海軍第五八機動部隊の編成の中に、西方諸島攻撃水中写真測量隊(群)と名付けられた艦艇群があります(本書一六九頁参照)。
 所属する艦艇を調べますと、サルベージ艦とか工作艦があり、またTG52―2以下の艦隊(戦隊)番号を持つ機雷除去と機雷防御任務を負っている小艦艇群が二〇個群もいます。この小艦艇群は、機雷除去を任務とする掃海艦群と再敷設防御を目的として、防御網を張る敷設艦から構成されていることが分かります。
 私たちは、米軍は最初に上陸予定地点への艦砲射撃や爆撃で敵方陣地を破壊して後に上陸を敢行すると考えていました。ところが米軍は、上陸予定地点の外回り(イノー外)を、掃海艇などで機雷や不審物の除去作業を行っています。
 かつての日本軍のマレー進攻作戦を見ると、こうしたことはなく、予定地点の水深や地質も知らずに上陸作戦を強行しています。上陸用舟艇は岸から二キロ付近で泥地にはまり動きが取れなくなってしまいました。兵士たちは舟艇を降りたものの、これまた泥地に足を取られ、動きが取れなくなりました。そのうちに、上陸に気付いた日本軍沿岸警備兵の射撃にあって、ばたばた倒されたことが防衛庁戦史に記されています。
 米軍の沖縄本島上陸作戦(アイスバーグ作戦)では、「チャーリー」という名で呼ばれたTG51―2陽動作戦群(本書一七四頁参照)に海兵隊第二師団が乗り、上陸の陽動作戦を行いました。艦砲射撃を南部港川付近に五〇〇〜六〇〇発を加え、煙幕を張り上陸用舟艇が幾度か海岸付近まで接近し、折り返す行動に出たのです(三月二十七日)。そのため沖縄守備軍第三十二軍は、三月二十九日に砲兵主力を港川方面に移動させました。
 第三十二軍が米軍の陽動作戦に乗せられて、砲兵の移動まで行った時、米軍は上陸予定地点に、五〇発ほどの探りを入れる砲撃を加えました。それに対して、日本軍の反撃がないのを確かめると、水中写真測量隊(フロッグマン)がアクアラングを着装して写真撮影を行い、続いて海岸近くまで人力による掃海を行い、掃海終了地点に防潜ネットを張りました。アクアラングを着装した姿が「蛙」に似ていたことから「フロッグ(Frog)」の名がついたのです。
 「フロッグマン」のこうした作業に行き合わせた海岸近くの人が、米軍上陸以前に捕まったり、あるいは米兵を見かけたという人たちだったのです。
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