第三節 『沖縄県史 アイスバーグ作戦』にみる読谷山


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一 アイスバーグ作戦の策定

 当初、米軍は台湾攻略計画としてコーズウェイ作戦を策定していた。台湾攻略と日本軍占領下の中国や日本本土進攻の足掛かりとなるコーズウェイ(堤)を意味する戦略的位置付けであったと思われる。ところがフィリピン進攻の時期や米軍兵力との関連により台湾作戦は棚上げされ、代わって沖縄作戦が浮上した。
 一九四四年十月三日、統合参謀本部は沖縄作戦の立案を太平洋地域総司令部に指示した。それを受けて、早くも同月二十五日には太平洋地域総司令官ニミッツ元帥がアイスバーグ作戦計画を明らかにし、四五年一月六日にはアイスバーグ作戦計画の概要をまとめ、各部隊に通達した。その後関連部隊に計画をおろし、何度か修正や追加をしたが、当初計画の基本に変化はなく、むしろ関連部隊との連携や協力態勢が反映され、より質の高い作戦計画が策定された。
 アイスバーグ作戦の目的は、日本本土ならびに周辺海域から接近する敵機を攻撃する。東シナ海をはさむ地域における今後の作戦支援。日本軍の海上及び航空通信を遮断する。以上のことを遂行して軍事基地を確保する東シナ海から中国沿岸及び揚子江流域にわたる海上及び航空通信の安全性を確保する日本に対して間断なく軍事的圧力をかける。この三点である。特には実際の沖縄戦において米軍は、上陸以前から度重なる攻撃を加え、上陸後は直ちに読谷・嘉手納飛行場を占領し、本土空襲のための爆撃機基地を建設したことでも、その目的の一端が分かる。
 アイスバーグ作戦は米陸海空軍統合作戦計画として策定され、太平洋地域総司令官ニミッツ元帥が総指揮官であったが、実際は第五艦隊司令官スプルーアンス海軍大将が指揮をとり、太平洋水陸両用軍司令官ターナー海軍中将も指揮下においた。参加兵力五四万八千人、軍艦三一八隻、特務艦船一一三九隻は第二次世界大戦の中でも最大規模の編成軍であった。なお上陸軍の兵力はバックナー中将米第十軍司令官が率いる一八万二千人であった。
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