第三節 『沖縄県史 アイスバーグ作戦』にみる読谷山


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二 沖縄情報

写真及び地図

 上陸予定地の日本軍陣地の撮影は、ゾンネ・ステレオカメラという特殊カメラで行われ、双眼型ステレオスコープ(立体鏡)が力を発揮した。撮影されたステレオ写真は、写真解析チームによって地上物件の高低差が測定でき、さらに立体鏡で覗けば目標地の立体図形が眼前にあらわれる。具体的には慶良間諸島や残波岬〜北谷間の砂浜や環礁を撮影した垂直写真・立体写真、渡具知の砂浜・慶良間諸島・伊江島を沖合いから低斜角撮影した写真、渡具知海岸内陸部を高斜角撮影した写真がある。
 B29による空撮も頻繁に行われた。沖縄本島及び周辺離島は一九四四年九月二十九日・十月十日・十一月二十九日、四五年一月二日・一月三日・一月二十二日・二月二十八日・三月一日・三月十日・三月二十一日・三月二十四日・三月二十六日・三月二十七日・三月三十一日・四月一日・四月二日・五月八日・五月十八日に、八重山は三月十日、宮古は五月一日、南大東島は六月九日に空撮している。この空撮日付の中で、四四年十月十日・四五年一月三日と一月二十二日には南西諸島全域にわたる大規模な空襲があり、四五年三月二十四日から三十一日には米軍本島上陸前の空襲や艦砲射撃があり、四月一日以降は本島上陸戦の最中に撮影している。その他の空撮日付の日では、局地的なものを除き大規模な空襲はなかったものの、B29飛来によって、空襲警報が発令された。また空撮による撮影の外に、上陸予定地には潜水艦による撮影も行われた。
 米軍は作戦地図として以下の地図を作成した。縮尺二五万分の一の地図。道路と地勢が記されたオリエンテーション地図縮尺十万分の一の地図。道路計画地図縮尺二万五千分の一の地図。戦術用地図。地形と地勢、水路、敵軍施設などが明記されており、一〇〇〇ヤード(約九一五メートル)四方の攻撃目標明示方眼がオーバープリントされている縮尺一万分の一の地図。重要地域の地図。地形や地勢や水路の特徴、敵軍の施設・海岸の名称が記されており、二〇〇ヤード(約一八三メートル)四方の攻撃目標明示方眼がオーバープリントされている。
 の地図の一つが、一九四五年二月二十八日付の米軍資料「『沖縄群島』告示第53―45号」に収録されている。なお、この資料は読谷村が入手し、『平和の炎 VOL.8〔沖縄戦直前米軍資料全翻訳〕』として刊行している。
 以下、地図を具体的に紹介する。地図は読谷飛行場のタイトルの縮尺一万分の一のカラー地図、裏面には同縮尺の航空写真がある。等高線は五メートル間隔。読谷飛行場の滑走路・誘導路・掩体壕・電波探知機・探照灯などの施設、さらに同飛行場防衛のための高射砲・機関銃・迫撃砲の陣地、海岸線のトーチカや水面下の障害物など、詳細を極めている。また、米軍上陸地点の海岸を「BLACK」「GREEN」「RED」「BLUE」などと色分けし、それぞれに番号を付け区分している。
読谷村に関する詳細な図面(現物カラー)
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米軍機密資料(現物)の表紙
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 この攻撃目標明示方眼は地上砲撃および地上目標に向けた艦砲射撃、戦略爆撃に使用され、実際の沖縄戦において、「トンボ(小型偵察機のこと)が上空に来ると必ず艦砲射撃があった」という証言を裏付ける。アイスバーグ作戦計画において、沖縄の場所はすべて四桁(例えば首里は7971)の数字で、上陸予定地などの重要場所はさらに細分化して四桁の数字にアルファベットを付け加えていた(例えば読谷村の座喜味城址は8195U、都屋海岸は7992B)。その他、模型地図や防水加工地図、布製地図も作成され、各部隊に配布された。
読谷村に関する詳細な図面(現物カラー)の部分拡大
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 これらの地図は事前に収集していた地図に空撮写真による情報を加えて作成していた。米国議会図書館には戦前の沖縄の地図が所蔵されており、これらの地図をもとに米軍は作戦地図を作ったものと思われる。これらの地図の中には、一八五五年にペリー艦隊が作成した地図をもとに大日本海軍水路寮が一八七三年に作成した「琉球群島之圖」、一九二五年(大正十四)の「那覇市全圖」、さらに驚くべきことには、参謀本部が一九四四年(昭和十九)に作成した軍事秘密の地図「沖縄島及其附近兵要地誌資料図」がある。この地図には、敵の上陸可能な海岸、干潮時の露出砂浜や堡礁、断崖や防波堤の高さ、干潮時の水深、さらに自動車道や戦車道が記されており、これを一見すれば、沖縄守備軍の陣容が分かる。

地形

 沖縄全体
 沖縄本島北部の地形については「大部分が険しい丘陵で構成され、与那覇岳はこの島の最高地点である。標高の高い地域は常緑広葉樹のシイ林や針葉樹林などの植生で覆われている」と概説しているが、中南部の地形については「東海岸は勝連半島と知念半島の両岬と海岸に沿って延びる断崖が特徴であり、岬からは中城湾を見下ろせる。見晴らしの良い高台は南と東海岸に多い。南部地域では高まりが海岸近くまで迫っており、海岸は断崖となっている」と細かい。さらに上陸後の地形利用については「谷間、嶺、断崖、急斜面の台地、サトウキビ畑、それに墓や石造りの建物は遮蔽物として利用できる。地形は壕を掘りやすく、敵軍は戦術的目的で壕を多数掘っている」「段丘や小谷の多い地域は機械化部隊の進軍には障害となる。また雨が降ると、粘土質の南部地域は移動が困難になる。道路網は良好であるが整備状況は良くなく、我軍の車両の通行には耐え得ないと推定される」と分析している。
 読谷山村周辺
 上陸予定地の地形については、地形利用や日本軍配備を含めて、細かく分析されている。特に主要上陸地点の後方(内陸部)にある高まり(高台)や谷間については神経質なほど細かい。米軍は、高まりや谷間を、上陸時や上陸後の進軍中に日本軍から攻撃される場所と認識していた。以下、主な高まりや谷間の地形を要約して具体的に述べる。
 読谷〜北谷の丘陵地帯
 「大部分が比謝川流域の平坦な耕作地と、残波岬に向けて北に延びる海岸平野である。この地域を見下ろす高まりがあるが、その最高地点は北端では内陸部へ約1・5マイル、中央と南側中央部では内陸へ4マイルの位置にある。南端では高まりは砂浜からほぼ垂直に切り立っており、最南端の砂浜から300ヤードの位置まで迫っている。この高まりの中で最も決定的要因を有するのは、南の砂浜から直接そそり立つ形となっているこの南端部分である(筆者注、砂辺付近)。敵軍はそこから我軍の主要上陸地点を側面から突くことができるだけでなく、比謝川流域の開けた平野を見下ろすことができる。我軍がこの高まりを占拠すれば、我軍の南側面を防御すると同時に、島を分断するという我々の任務の大部分を達成することになる。
この丘陵地帯の野里に敵軍の監視哨があり、上陸作戦全体にとって危険な存在である。」
 読谷山(岳)
 「我軍の北部上陸地点から4・5マイル内陸に標高770フィートの読谷山がある。この地域はほぼ全域にわたって険しく、大部分がややまばらな林で覆われている。大体の谷間は非常に狭く、道路もない。上陸地点から石川地峡へ到達するにはこの険しい地形を計7マイルも進軍しなければならない。」
1945年1月22日現在、米軍作成の日本軍守備隊配置図(部分)
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 読谷山(岳)支脈〜座喜味
 「比謝川の河口から直接2・5マイル程内陸に入ったところに読谷山の支脈である尾根が突き出している。この辺は地溝がやや多い。高まりはこの突き出した尾根からおよそ東方向に座喜味付近まで延びており、小峡谷が多い。
座喜味では北側の上陸地点から1・25マイル内陸に入ったところに、比較的小さいが非常に険しい丘陵が連なっている。最高地点は座喜味のすぐ北で標高400フィートで、ここから我軍の上陸地点を展望することができる。」
 比謝川
 「比謝川は天然の障害物であり、その両岸は急斜面で、海に近いところは狭い三角江となっており、河口は幅200ヤード近くある。」
 注目されることは、島を南北に分断する作戦の成否を、「北谷〜渡具知間と石川地峡の奪取であり、ここを奪取してしまえば、敵軍にできるのはせいぜい我軍の作戦の第一段階を遅らせる程度のことであろう」の記述である。実際の沖縄戦では、米軍は破竹の進撃を続け、第一段階の作戦が遅れるどころか、上陸後わずか三日目で沖縄本島を南北に分断した。
  注 一フィート= 〇・三〇四八メートル
    一ヤード = 〇・九一四四メートル
     一マイル = 一・六〇九キロメートル

上陸予定地の水路・海浜

 上陸予定地の海岸線については、「残波岬から南に伸びる全長一万五千ヤードの海岸線である。同海岸線で上陸作戦が可能な海岸線の長さは実質的に八九五六ヤードとみなされる。比謝川の北側の長さ一〇〇〜九〇〇ヤードの海岸一六ヶ所と比謝川の南側の長さ一〇〇〜五〇〇ヤードの海岸一一ヶ所」があり、「海岸全体を浅い裾礁」に囲まれ、水深は「干潮時にはほとんどが三フィート未満。堡礁があり深い所もある」とし、裾礁と海岸線の距離は「北端で一三〇〇ヤード、南端は二〇〇ヤード、平均三〇〇〜四〇〇ヤード」あり、「比謝川河口から沖合に向かって可航水路がある」と分析している。
 さらに海岸の内陸部についても、「奥行きは三〜三〇ヤード、その大部分がサンゴ礁の砂に覆われている。所々海に突き出した岩がある。海岸の全長のうち半分以上の所には後方に木ややぶから成る細い樹木帯がある。海岸の勾配は南側では緩やかから中程度、北側では中程度から急斜面となっている。舗装されていない道路が網の目のように走り、各村から一本以上の道が出ていて、大きな道路網につながっている」と分析している。

日本軍兵力と配備状況

日本軍の兵力と配備状況
 日本軍の兵力については、「敵軍は沖縄本島と伊江島に五万五千人(二個師団と一個旅団)の兵員を保有し、大部分は日本軍の中でも最も熟練した兵員であり、かつ最高の指揮官に率いられている。戦車部隊も有し、砲兵部隊も増強する可能性がある。敵軍は我軍の上陸予定日までに六万六千人に兵力を増強し、相当数の沿岸防御砲、高射砲を追加配備し、掩体壕を造り、遮蔽物で覆い隠している」と分析している。兵力については、前述した一九四五年二月二十八日付「『沖縄群島』告示第53―45号」にも五万五千〜五万六千人と記されている。正規兵については大かた当たっているが、実際はこれに、現地召集兵や防衛隊・学徒隊・義勇隊など沖縄から補充した兵約三万余人、海軍(沖縄方面根拠地隊)約一万人を加えて約十万人の兵力であった。
 日本軍の沖縄本島配備状況については「敵軍は沖縄本島南部に強固な防衛線を張るために二個師団を配置し、独立混成旅団等約四千人を名護〜伊江島に配置していることが考えられる」とし、正確な分析をしている。
読谷山村の日本軍
 上陸地域の日本軍の兵力と配置については「上陸地域の防衛に一個連隊を配置し、海岸線から内陸部の高地や砂辺の東南方向の険しい地形の防衛を強化している。また比謝川流域の南北にある険しい地形を遮蔽に機動部隊の配置を計画している。特に砂辺東南の険しい地形は我軍に多大な損害を与え、遅々とした前進を余儀なくされる。また我軍の上陸地域には艦砲射撃の効果の薄い比謝川流域の高まりから砲撃してくる。さらに敵軍は、我軍が前進中、予備兵力を編成して反撃に出ることができ、大部分の兵力を比較的短時間に上陸地域に到着させることができる」と細かい分析をしている。
 なお、上陸地域の兵力について「『沖縄群島』告示第53―45号」は、残波岬周辺の日本軍の陣地を「西海岸のビーチに平行に配置された2つの防衛拠点からなる主な防衛拠点が構築されているように思える。第3の防衛拠点が内陸側に配置されている。この防衛拠点を支援する為の大隊規模の予備防衛線としての役目を担っていると言うよりはむしろ、残波岬の東側の湾とビーチから読谷飛行場に通じる道路を防衛する目的で配置しているように思える」とし、読谷飛行場の防衛陣地については「この防衛陣地は海岸沿いに平行に配置された2つの主防衛拠点から構成される。これらの主防衛拠点は各々海岸沿いの主防衛線に平行に3つの防衛拠点を分散配置している。読谷飛行場の東側には第3の主防衛拠点が構築され連隊規模の予備防衛線が形成されている」と、さらに具体的に分析されている。
参照図
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 「上陸地域の防衛に一個連隊を配置し」は正確な分析である。だが一個連隊といっても航空関係部隊で編成された地上戦闘能力の低い特設第一連隊であった。しかも編成されたのが米軍機動部隊の艦載機による空襲が始まった三月二十三日。編成時の特設第一連隊の任務は「主力ハ敵カ沖縄北、中飛行場方面ニ上陸スルカ若クハ我航空作戦上右両飛行場ヲ必要トセサルニ至ラハ軍命令ニ依リ之ヲ破壊シ島袋附近ニ転移シ第六十二師団長ノ指揮ニ入リ勉メテ長ク中飛行場ノ制扼ニ任ス」(第十九航空地区司令官命令)であった。装備も各部隊に対して一部兵器や弾薬を交付するものの、その量は少なく、各部隊は所在の資材を活用することとし、とても上陸時の米軍物量に抗する戦力ではなかった。まさに特設第一連隊は編成者である八原博通高級参謀自ら「烏合(うごう)の衆」と語っているように捨て石部隊であった。二十六日、第三十二軍は同連隊に対して、一部をもって座喜味付近、主力を読谷山(二二〇高地)の既設陣地により努めて長く北飛行場を制扼する任務を与えたが、三十日になると北、中飛行場の破壊命令が出された。その後、各部隊は戦闘配備につき、上陸した米軍に対して主に夜間斬り込みや対戦車肉弾攻撃を実施するのみであった。そして早くも四月三日、敗走した連隊は国頭へ「転進」した。
 一方、「砂辺東南の険しい地形の防衛」には第二十四師団独立歩兵第十二大隊(一部は読谷に配置)と平安山付近の海軍第十一砲台(通称ウカマジーの海軍砲台。現在嘉手納空軍基地内にその跡をとどめている)が任務についたが、上陸した米軍の猛攻を受け、四月一日には独立歩兵第十二大隊は後退し、海軍第十一砲台も壊滅した。
 米軍は上陸一日目に読谷・嘉手納飛行場を占領し、二日目には東側は中城湾を見下ろす高地と南側は普天間北方まで破竹の勢いで進軍し、早くも三日目には東海岸に到達し沖縄本島を南北に分断した。
 米軍は上陸地域の日本軍の戦術について誤った見方をしていた。日本軍の海岸に構築された「防衛線」と内陸部の三段階に構築された「防衛拠点」は水際決戦の陣地であり、米軍上陸時には戦略持久の戦術をとることによって放棄されていたのだ。「無血上陸」した米軍に対して日本軍は、「予備兵力を編成して反撃にでる」こともなく、ましてや「大部分の兵力を比較的短時間に上陸地域に到達させること」もやらなかった。
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