第三節 『沖縄県史 アイスバーグ作戦』にみる読谷山


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三 沖縄攻略のシナリオ

 沖縄を攻略するために、三段階のシナリオがつくられた。第一段階は上陸六日前に進攻のための艦船投錨地・水上機基地として慶良間諸島を攻略上陸一日前には本作戦支援のため慶伊瀬島に重砲陣地を設置上陸日、第十軍は沖縄本島西海岸に上陸する陸軍予備師団一個は上陸日及び上陸一日前に沖縄本島南西海岸に上陸すると見せかけ敵を牽制する。第二段階は伊江島を占領して基地を建設し、かつ本島北部を制圧する。第三段階は南西諸島の他の島(伊平屋島、粟国島、沖永良部島、宮古島、喜界島)を占領する。
 当初計画では上陸日を四五年三月一日と設定したが、フィリピン作戦の遅延により三月十五日に変更、さらに三月の天候不良の理由で四月一日に再度変更された。実際の沖縄進攻はほぼ計画通りであったが、伊江島攻略が第一段階(四月十六日)に繰り上げられた。また伊平屋島・粟国島に上陸作戦が敢行されたのが、それぞれ六月三日、九日であった。宮古島・沖永良部島・喜界島には上陸作戦は行われず、武装解除のため沖縄戦終結後に米軍が進駐した。
 また米軍は、沖縄本島西海岸に上陸作戦が展開できない場合の代替案として、中城湾口の島々を攻略し、中城湾に面した海岸や知念半島東海岸に上陸する作戦も計画していた。
 このシナリオで特に日本軍の予想に反したのが、慶良間諸島攻略と沖縄本島南西海岸に対する陽動作戦である。日本軍は米軍の慶良間諸島上陸を想定していなかったために、地上戦部隊を配置せず、近接する敵艦船を攻撃する陸軍の特攻艇部隊を配置していた。しかし三月二十六日に米軍が上陸したため、特攻艇を自ら破壊し、当初の戦術を放棄した。
 一方、具志頭村港川方面に対する米軍の陽動作戦によって、日本軍は米軍上陸地を寸前まで決めかねていた。
 慶良間諸島を占領した米軍は、ここを艦隊の投錨地とし、さらに慶伊瀬島に長距離砲を据え本島に向けて砲撃を開始した。米軍は本島中南部を激しい艦砲射撃・空爆する中、南部の港川海岸において陽動作戦を展開した。一方、水中爆破隊によって上陸地の海岸に設置された機雷や障害物の掃海作業を展開し、そしていよいよ四月一日には圧倒的な援護射撃下、読谷・北谷海岸に上陸し、その日のうちに読谷・嘉手納飛行場を占領した。上陸して三日目には早くも本島を南北に分断した。
 米軍の本島北部進攻は、四月七日名護、十四日本部半島、そして十六日には伊江島に上陸した。なお伊江島攻略は当初、第二段階に設定していたが沖縄攻撃支援と本土攻撃進攻のため飛行場確保を優先したため、第一段階に繰り上げられた。
 米軍主力は日本軍主力が配置されている本島中南部に進攻した。上陸地から宜野湾手前までは破竹の進撃であったが、四月八日以降の嘉数高地・前田高地などの戦線では一進一退の攻防戦を余儀なくされた。主力攻防戦はシュガーローフ(那覇新都心方面)やチョコレート・ドロップ(弁ヶ岳)、コニカル・ヒル(運玉森)などの戦線でも続く。五月二十九日首里を占領し、その後の南部戦線では掃討戦を展開した。六月十八日バックナー米第十軍司令官が糸満の真栄里で戦死した。米軍は、六月二十二日米軍アイスバーグ作戦の終結を宣言し、九月七日には嘉手納で降伏調印式を行い、ここに沖縄戦は実質的に終結した。
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