第三節 『沖縄県史 アイスバーグ作戦』にみる読谷山


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七 日本軍の上陸地予想とその後の対応

 一方、日本軍は米軍の上陸地をどう予想していたのか。その経緯とそれに伴う戦術の変更をみることにする。第三十二軍は「捷号二号作戦」を策定した四四年八月時点において、米軍の上陸予想地点を、第一案「大山〜那覇」の海岸、第二案「那覇〜糸満海岸」、第三案「読谷海岸」と判断し、それぞれの作戦計画を立てていた。ちなみに読谷海岸の作戦計画は「第二十四師団をして、敵上陸軍をその橋頭堡に阻止せしめ、この間第九師団および軍砲兵隊を該正面に機動集中して攻撃を準備し、敵の上陸第二日前夜半、軍砲兵隊および師団砲兵の全力をもって橋頭堡殲滅射撃を実施し、これに引き続き後夜半歩兵部隊をもって攻勢に転じ、敵をその橋頭堡において撃滅する」(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』)という、いわゆる水際決戦であった。八原は米軍の上陸地点を三つの案と判断した理由として、「そもそも敵情を判断するには、地形、その他あらゆる条件を基礎にして考察するのであるが、限定は禁物である。敵の確たる上陸は、事前にその意図を偵知するか、あるいは現実に上陸行動を目視して初めてわかるのである」(前掲書)と述懐している。
 しかし、第三十二軍は第九師団が台湾に抽出されたことにより、作戦を水際決戦から戦略持久に変更した。すなわち軍主力を中南部に配置し、その沿岸に上陸する米軍に対しては橋頭堡において撃滅する、もし読谷海岸に上陸した場合は上陸後南下する米軍に対して首里北方陣地において持久し出血を強要する、という作戦を策定した。この作戦のなかで、北・中飛行場の防衛を担当するために、独立混成第四十四旅団主力と長射程砲をもって飛行場使用を妨害する部隊を配置した。
 さらに大本営が第九師団の補充として予定していた姫路の第八十四師団の沖縄派遣を中止したことにより、四五年一月二十六日には独立混成第四十四旅団を知念半島に移動させ、北・中飛行場方面への軍主力の出撃を放棄した。この第三十二軍の北・中飛行場防衛放棄の方針は、上級機関である大本営や台湾の第十方面軍から批判されることになる。結局、第三十二軍は北・中飛行場防衛のために、申し訳程度に前述した特設第一連隊を配置することにとどまった。
 第三十二軍は徹底した戦略持久作戦をとることになった。そしてこの作戦を成功させる鍵として、洞窟陣地の構築と射撃開始の時機を各隊に示達した。特に射撃開始の時機については、米軍が読谷海岸に上陸し南下した場合、戦力を極力温存しつつ、敵を至近距離に引きつけ撃滅する方針をとった。射撃開始の時機が戦略持久作戦の成功の大事な鍵になると考えられたのだ。
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