第三節 『沖縄県史 アイスバーグ作戦』にみる読谷山


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八 米軍上陸前後の日米両軍

 アイスバーグ作戦は、米軍がこれまで太平洋の島嶼戦で学んだ戦術の総決算であり、米軍の地上、海上、空中の最大集中統合作戦として計画された。したがって上陸部隊である米第十軍の主要部隊は島嶼戦を経験した部隊で編成され、しかも上陸演習や訓練をガダルカナル島やサイパン島などで実施した後、沖縄に派遣された。
 これより、アイスバーグ作戦により編成された沖縄攻略部隊の上陸前後の戦闘模様を『日米最後の戦闘』から要約して紹介する。四五年三月二十三日、米軍艦載機による空襲が始まった。二十四日は空襲と初めての艦砲射撃が始まり、以後空襲と艦砲射撃が断続的に実施された(読谷山村での艦砲射撃の始まりは二十五日との住民による記録がある。さらに「戦況手簿」によると二十六日との記載もある)。その間米軍は渡具知海岸をはじめとする海域に日本軍が敷設してある機雷の掃海作業(「回数は七五回、掃海海域四千八百平方キロ」)を実施した。海岸の障害物や機雷の爆破作業は水中爆破隊が担当した。その作業は危険を伴うため飛行機や艦砲の掩護射撃や煙幕を利用しながら行った。
 アイスバーグ作戦計画には、この水中爆破隊の任務を「指定の海岸に至る海路の偵察と、海岸への接近路にある天然及び人工障害物の位置確認、上陸艇の通路を開くための水中破壊工作、指定海岸までの上陸部隊の先導など」とし、さらに偵察連絡観測員の任務についても「敵と地勢、母体部隊が上陸し内陸へと進軍する際に通過する海岸の防衛設備、海岸から内陸部への通路、海岸隣接地域の地勢に関する情報を入手する」ことが明記されている。実際の沖縄戦において、「米軍上陸」前に「米兵を見た」という住民の証言や元通訳兵の「上陸時の海岸上の高台には、米軍が上陸用目印として、木板に三角や四角がデザインされたプラカードのような物が立てられてあった」(『読谷村史 戦時記録 上巻』)からして、アイスバーグ作戦は計画通りに実行されていた。恐らく「上陸用目印」の木板プラカードには、米軍各部隊の上陸地点の表示である「BLACK NO.1」「GREEN NO.1」「RED NO.1」などが記されていたと考えられる。このことは米軍が沖縄戦以前に太平洋の島々での上陸作戦を遂行した時と同じである。
 上陸前日の三十一日午前は渡具知海岸で最後の機雷爆破作業、午後からは海岸線や内陸部の日本軍防衛線に対する艦砲射撃を実施した。上陸七日前までに米海軍が撃ち込んだ砲弾は五一六二トンで、それに加えて延べ三〇九五機の艦載機が空爆した。
 四月一日。米軍の沖縄本島上陸の日。夜明け前の五時三十分。猛烈な艦砲射撃が開始された。約二十分間に撃ち込まれた砲弾は、「十二センチ砲以上が五万四千八百二十五発、ロケット弾が三万三千発、曲射砲弾が二万二千五百発」であった。七時四十五分には艦載機が海岸や付近一帯の塹壕をナパーム弾攻撃した。八時二十分、「長さ十三キロにおよぶ上陸用舟艇が上陸地点に向かって進んだ」。この時、上陸地点から陸上九百メートル以内に対して、三十メートル四方に二十五発の割で絨毯を敷くように砲弾が撃ち込まれた。この間、艦載機による上陸地点付近の機銃掃射も間断なく続けられた。八時三十分には第一波が上陸した。その後次々と後続部隊が上陸し、一時間以内には一万六千人の兵が、その日のうちに六万人以上の兵が上陸した。同時に軍事物資の陸揚げ作業も開始され、物資補給基地が次々と建設された。この日の十一時三十分には読谷山(北)飛行場を占領、「夜までに米軍が確保した橋頭堡は長さ千三百メートル、幅四千五百メートル」に及んだ。まさに、「無血上陸」であり、「まるでピクニック気分」の上陸であった。
 この米軍の上陸模様を首里軍司令部壕にいた第三十二軍の牛島満司令官、長勇参謀長ら首脳は記念運動場(御大典記念運動場・現在の首里城公園レストハウス)から眺めていた。そのうちの一人、八原博通高級参謀は「わが軍は一兵、一馬に至るまで、地下に潜み、一発一弾も応射せず、薄気味悪く寂然として静まり返っている。厳たる軍の作戦方針に従い、確信に満ちた反撃力を深く蔵し、戦機の熟するのを、全軍十万の将兵は、息を殺して待っているのだ」(『沖縄決戦 高級参謀の手記』)と、自ら策定した戦略持久作戦における米軍の「無血上陸」は了解事項であり、むしろ上陸後の戦機に期待を賭けていた。
 この日の八時四分、沖縄方面根拠地隊は天一号作戦部隊宛に「北飛行場上陸予想点ニ対スル艦砲射撃ハ熾烈ヲ極メツツアリ 尚朝来飛行場ヲ銃爆撃シアリ」と打電した。
 四月二日には、大本営において、総理大臣から沖縄の戦況の見通しについて質問された第一部長は「結局敵ニ占領セラレ本土来寇ハ必至」(「機密戦争日誌」)と答えている。
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