第三節 『沖縄県史 アイスバーグ作戦』にみる読谷山


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おわりに

 読谷村渡具知・泊城公園には沖縄戦終結五十周年の一九九五年に読谷村が建立した「米軍上陸の地」碑がある。この碑文の両側には「米軍の上陸方向を示す」読谷村の地図と「軍事物資を陸揚げする米軍」の写真が刻み込まれている。この地に立つとアイスバーグ作戦が見える。
 読谷村はアイスバーグ作戦の象徴的な村である。この作戦の目的の一つに「日本本土に対して間断なく軍事的圧力をかける」ということがあり、そのために占領した読谷飛行場の拡張・整備をしたり、新たにボーロー飛行場を建設して、本土空襲の出撃基地にした。また、広大な物資補給所の建設などが行われ、それらの基地施設は戦後まで尾を引き、村復興の阻害要因となった。
 米軍上陸直後、村内比謝には海軍軍政府が樹立され、後にマッカーサー元帥の読谷飛行場飛来等々、読谷村は米軍支配の出発点ともいうべき場所でもある。
 そして、これらの出来事を米軍補助飛行場に残る掩体壕は見ていた。掩体壕はまさに物言わぬ「歴史の証人」である。
比謝川河口を見下ろす地点に設置された「米軍上陸の地」碑
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 読谷村は米軍の上陸地となったため、他市町村とは様相が異なる沖縄戦体験をすることになった。本島中南部に比べて住民の戦死者の比率が低いのは、村当局の指導と日本軍の立ち退き命令によるもので、結局日本兵と住民とが雑居する状態になかったためである。ただし、戦場となり、焦土と化した悲惨さには変わりはない。このことを教訓にして建立された「米軍上陸の地」碑に「この美しい海岸が二度と再び如何なる軍隊の上陸の地ともならないことを村民は祈念する」という文言が刻まれている。この言葉は読谷村の沖縄戦を理解する大事な視点である。
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