第四節 「読谷村戦没者名簿」からみた戦没状況
豊田純志


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はじめに

 『読谷村史』第五巻「戦時記録」編集に向けて、一九八九年(平成元)から読谷村戦災実態調査がスタートした。一九四四年(昭和十九)当時の読谷山村の全字・全戸を対象に悉皆調査をおこない、調査対象は二二字、約三一五〇戸にのぼった。その後一九九三年(平成五)からはじまった沖縄県「平和の礎」戦没者刻銘のための戦没者調査とかさなり、この「読谷村戦没者名簿」となった。
 この調査により総数で三九二四人の戦争犠牲者が明らかになり(二〇〇二年三月現在)、各字別の戦没者は〔表1〕の通りとなる。米軍の沖縄本島上陸(四月一日)によって沖縄本島での地上戦がはじまる一九四五年(昭和二十)が圧倒的に多く全体の七八%を占めている。
読谷村戦没者数・各字別〔表1〕

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 調査は一九三八年(昭和十三)から一九四七年(昭和二十二)に及んでいる。統計がはじまる一九三八年(昭和十三)は「国家総動員法」が施行された年である。一九三八年(昭和十三)までの流れを簡単にみておくと、一九三一年(昭和六)、柳条湖での日本軍による鉄道爆破事件から「満州事変」が勃発し、翌一九三二年(昭和七)には「満州国」を建国、一九三三年(昭和八)国際連盟脱退と、中国との紛争が次第にエスカレートしていく。そして一九三七年(昭和十二)の盧溝橋事件によって全面的な日中戦争へと突入し、この年の十二月には南京大虐殺事件を引き起こしている。翌年の一九三八年(昭和十三)に「国家総動員法」が成立するが、三月二十四日に成立、四月一日公布、五月五日施行という速さである。
 このような事情を反映して、〔表2〕「読谷村戦没者数・地域別」および〔表3〕「読谷村戦没者数・海外」にみるように一九三八年(昭和十三)から一九四二年(昭和十七)までの戦没はほとんどが海外においてであり、その大半は中国での戦死である。
 *本稿執筆の時点で「戦災実態調査」のデータベースはまだ完成していなかったため、いくつか「戦災実態調査」から引用した箇所はすべて手作業によるものです。
読谷村戦没者数・地域別〔表2〕

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読谷村戦没者数・海外〔表3〕

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