第四節 「読谷村戦没者名簿」からみた戦没状況


<-前頁 次頁->

三 日本本土での戦没状況

 前掲〔表2〕「読谷村戦没者数・地域別」の日本本土の項目の内訳は〔表22〕のようになる。
 一九四三年(昭和十八)と一九四四年(昭和十九)の鹿児島県の項目が突出して多い。これは船舶遭難によるもので一九四三年(昭和十八)の二五人中一六人は嘉義丸遭難による戦没(奄美大島北方)、八人は湖南丸遭難による戦没(口永良部島西方)である。また一九四四年(昭和十九)の一一一人のうち一〇人は台中丸遭難による戦没(奄美大島北西方)、九四人は対馬丸遭難による戦没(悪石島近海)である〔表23〕。
読谷村戦没者数・日本〔表22〕

画像
船舶遭難による戦没〔表23〕

画像
 嘉義丸遭難事件は、太平洋戦争開始から一年半を経た一九四三年(昭和十八)五月二十六日、鹿児島経由で神戸から那覇へ向かう貨客船・嘉義丸(二三四三トン)が奄美大島笠利岬沖合で米軍潜水艦によって撃沈された事件である。戦況が悪化するなか、本土から沖縄へ引き揚げる出稼ぎ者三二一人が犠牲になった。同年十二月二十一日には、沖縄から本土に疎開する人たちを乗せた湖南丸(二六二七トン)が米海軍潜水艦の魚雷攻撃に遭い沈没、約四〇〇人の船客がエスコート伴走の柏丸に救助されたが、同船も一時間後魚雷攻撃をうけて沈没した。この事件は学童疎開船対馬丸遭難事件の八か月前であるが、日本軍部は沖縄県民の動揺をおそれ、軍事秘密にして伏せていたという。生存者の証言から全容が明らかになったのは、事件後三九年を経過した一九八二年(昭和五十七)六月である。沖縄県の調べでは沖縄からの疎開船三二隻が遭難しているが、全容が判明しているのは対馬丸・嘉義丸・台中丸・開城丸など一三隻にすぎないという。一九四四年(昭和十九)四月十二日には、神戸港から沖縄へ向かう途中の貨客船・台中丸(三二一三トン)が奄美諸島の与路島沖合で米軍潜水艦によって撃沈された。老幼男女約三〇〇人(一説には約一〇〇〇人)の乗客のうち、生存者は一四七人(一説には九〇人)だったという。船客の大半は女性・子ども・病人で、切符の乗船者よりも飛乗り客が多かったともいわれ、その数は定かではない。生存者は奄美大島・古仁屋の陸軍病院と西本願寺に収容されたが、軍事機密保持のために約二ヶ月間軟禁された。沖縄に引揚げ後も、生存者は遭難事件について語ることを禁じられ、憲兵や特別高等警察の厳重な監視をうけたという。
 そして一九四四年(昭和十九)七月七日、南西諸島の老幼婦女子・学童計一〇万人の集団疎開が緊急閣議決定され(本土へ八万人、台湾へ二万人)、八月二十一日、学童七〇〇人余、一般の老幼婦女子一〇〇〇人余を乗せた学童疎開船対馬丸(六七五四トン)が那覇港を出港した。学童疎開としては第二陣であった。八月十四日には先発隊として一三一人が潜水母艦迅鯨によって疎開、無事鹿児島港に入港している。しかし学童疎開船対馬丸は、出港翌日の八月二十二日悪石島付近でアメリカの潜水艦ボーフィン号の魚雷三発をうけて撃沈、乗客約一七〇〇人のうち約一五〇〇人が死亡、生存者は学童五九人、一般一六八人であった。奄美大島の大和村・宇検村・実久村には多くの漂着死体があがったという。読谷山村からは九四名の犠牲者がでた。(以上『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社を参照した。また保坂廣志「平和研究ノート・戦時遭難船舶(沖縄関係)と米潜水艦攻撃」『琉球大学法文学部紀要』地域・社会科学系篇創刊号所収には、表題に関する詳しい記録がある)
<-前頁 次頁->