第五節 読谷村「戦災実態調査」の分析


<-前頁 次頁->

一 「戦災実態調査」と読谷山村の人口

 「戦災実態調査」の分析に入る前に、一九四四(昭和十九)年当時の読谷山村の人口をその基準として提示しておきたい。
 戦前の人口に関する詳しい資料は少なく、国勢調査では昭和十五年の人口は一万五八八三人としかなく(表―3〔国勢調査〕参照)、これには、当時の海外移民や本土出稼ぎ者、村外在住者等は含まれないものと思われる。大正九年から昭和十五年までの戦前の国勢調査は「現在地主義」をとっており、調査の時点で調査地域に不在の者は「現在」しない者とみなされ、当該地域の人口にはカウントされないからである(東洋経済新報社『人口統計総覧』一〇〇一頁参照)。参考までに大正十五年の「県外移民者数調」(『文献にみる読谷山』三七九頁所収)をみると、「外国移民」、「内国移民」あわせて一二五八人の移民者がいる。今回の「戦災実態調査」は、このような海外、県外在住者の戦争体験も含むものであるから、国勢調査の人口とは一致しない。当時の本籍人口がわかればこれと対照もできるのであるが、戦前の本籍人口がわからない。
 年代にはだいぶ開きがあるが、「大正二年、戸数二八〇二、人口一九〇三九」というデータがある(『村治十五年』一九六二年読谷村役所発行、九七頁、出所は不明)。「戦災実態調査」の総数は一万九一三三人で、その在住地内訳は、沖縄一万三六三四人、本土九六〇人、海外一四八六人、不明三〇五三人となっている(表―4〔戦災実態調査の在住地内訳〕参照)。当時村外在住者も含めた昭和十九年当時の読谷山村民の総数は、ほぼこれくらいの人数になるのであろうか。これを戦後の人口調査ともあわせて考えてみることにする。
国勢調査 表−3

画像
戦災実態調査の在住地内訳 表−4
沖縄 13,634
本土 960
海外 1,486
不明 3,053
19,133
 戦後の人口に関する資料はつぎのようなものがある。まず、戦争直後に県内各避難地区(「収容地区」)で避難生活を続ける読谷山村民の総数を調べたものが最初である。当時役場職員であった仲本政公氏提供によるこの一九四六年九月付けの人口調査は、県内各収容地区に分散居住する読谷山村民の総数を一万四六一一人と報告している(本稿末「参考資料2」参照)。読谷山村への居住許可は、一九四六年八月にいったん決定されるがその後取り消しとなり、再び居住が許可され、県内各収容地区からの読谷山村民受け入れが開始されるのは十一月である。その後十二月までに五〇〇〇人の住民移動が完了する(第一次村民移動)。第二次村民移動は翌年三月に完了、第三次移動が六月完了と続く。住民の移動がほぼ完了した一九四七年末頃の移動済み人口を調べたものが「読谷山村移動済み人口」である(本稿末「参考資料3」参照)。一九四七年十二月付けのこの資料では、読谷山村民の総数を一万四三一六人とした(原本では一万四二九〇とあるのを再計算して修正)。
 この二つの資料から、戦後、県内各収容地区から読谷山村への村民移動がほぼ完了した時期の人口を、一万四〇〇〇人強と考えることができるが、これはデータベースの示す生存者の数一万四一五九人ともほぼ一致する。
 また「戦災実態調査」が示す死亡者の総数は三九六八人で、「平和の礎」刻銘の基となった「読谷村戦没者名簿」(読谷村史編集室作成)の戦没者総数三九二四人(二〇〇二年三月現在)ともほぼ一致している。
 聞き取り調査不能等の理由から生死不明となっているデータが一〇〇六人分あることは前項でも述べた。戦後引き揚げの対象とならなかった海外移民もいることもここでは考慮に入れなければならないが、ともあれ総人数からこの不明分を除いた約一万八〇〇〇人は、戦後の人口一万四〇〇〇人強と戦災で犠牲となった人の数約四〇〇〇人を加えた数と一致する。以上のことから、戦後引き揚げの対象となった海外および県外の在住者も含めた読谷山村の昭和十九年当時の人口は一万八〇〇〇ないし一万九〇〇〇人で、そのうち約四〇〇〇人は戦災で犠牲となっており、戦後の人口は一万四〇〇〇人強となると推測される。
 死亡者の死亡地内訳は、沖縄三〇三五人、本土一八九人、海外七二五人、不明一九人である(表―5「死亡地の内訳」参照)。これは軍人・軍属を含んだ数であるため、第五項で軍人・軍属に関して独立して触れた。また本土および海外での死亡に関しては第六項「本土および海外在住の一般住民について」で触れた。
 以下の二項から四項では、もっとも詳細な聞き取りがなされている県内在住者一万三六三四人に関してみていく。
死亡地の内訳 表−5
沖縄 3,035
本土 189
海外 725
不明 19
3,968
<-前頁 次頁->