第五節 読谷村「戦災実態調査」の分析


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二 読谷山村民の県内在住者の避難について

 県内在住者一万三六三四人について、「戦災実態調査」から米軍上陸前の避難先をみると表―6〔県内在住者の避難先〕のようになる。表の「軍人・軍属・他」は、「戦災実態調査」で「兵隊・防衛隊・学徒隊・その他」に分類されている人たちで、一五六九人のうち一一〇八人は戦死である。また、避難先「不明」の八一七人に関しては、後に収容先で出生した二五人もここに含まれており、一二四人が戦没となっている。これらに関しては避難先を特定できなかった。なお戦闘への協力で死亡した「戦闘参加者」および一部の「防衛隊」については、戦没までの避難先が判明しており避難経路等もむしろ一般住民と同じであるから、ここでは一般住民の項に含めた。
県内在住者の避難先 表−6

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県内在住者の避難先 図−1

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 残りの避難先が判明した人たちの避難先は、表に示されるように読谷山村内三四四一人、読谷山周辺村(旧美里村、越来村、北谷村、恩納村)一三六八人、旧金武村方面六五三人、名護(旧羽地村含む)・本部二六六人、国頭方面五四二九人などとなっている(図―1〔県内在住者の避難先〕も参照)。村外への避難が一度もなく、村内にとどまっていた読谷山村民は全体の二五%であるが、村外への避難は米軍上陸がさしせまった三月末ごろから米軍上陸時にかけて多くなることを考えれば、実際にはもっと多くの村民が村内にとどまっていたといえるだろう。当時の役場職員は次のように語っている。「国頭の人たちが奉仕し、避難小屋など建ててくれましたが、米軍が上陸するまで三分の二はまだ読谷にとどまっていました」(『読谷村誌』二七六頁)。
 読谷山村民の最大の避難先は国頭方面であるが、これは前年におこなわれた本土および台湾への県外疎開と同様、県の人口対策としてとられた方策であった。
 『沖縄県史』には次のように記されている。
 「島田知事は、まず人口対策として県民の人口を三〇万に半減させる方針をうち出し、可能なところから具体的に実施した。すでに前年度には十万人を県外へ疎開させる施策がとられていたが、積極的に人口調整にのりだしたのである。かれは守備軍と協議し、決戦態勢をととのえるため沖縄本島の首里・那覇の二市と中頭・島尻の二郡から十万人の老幼病弱者を国頭郡へ移動させることにした。二市二郡からの立退人員は、それぞれ那覇市から一万五七七五人、首里市から五〇七〇人、島尻郡から三万一一七三人、中頭郡から四万〇六七二人という割当もきまり、昭和二十年の二月一ぱいに四万人を立ち退かせ、三月一ぱいに全計画を完了すべく手配された。」(大田昌秀「大正・昭和期の県政」六四二頁、『沖縄県史』二巻所収)
 こうしてきまった県から読谷山村への避難割当は、割当地である国頭村への通知によれば約六三九〇人となっているが、「戦災実態調査」からわかった国頭方面への実際の避難は五四二九人である。その詳細は表―7〔国頭への避難者数と避難地〕のようになる。
 村から各字ごとに「避難指定地域」の割当があったことは、人数のもっとも多い避難先がはっきりと現れることからもみてとることができる。『読谷村史・戦時記録・上巻』八四頁には指定地割当表があるが、ほぼその指定どおりに避難している(地図―1〔避難指定地域〕参照、また住民の避難指定地域までの避難経路については次頁の地図―2〔国頭までの避難経路〕参照)。
 同時に、住民の北部疎開に関して県や村当局がとった対策としては、次のような資料からうかがうことができる。疎開割当地のひとつである国頭村浜の「浜共同店沿革史」は、避難者のための疎開小屋建築の様子を次のように記している。
 「戦局容易ナラザルニ付キ、一月下旬ヨリノ他町村ヨリノ避難民ノ当部落割当数実ニ千数百名ニシテ、其ノ避難者ヲ収容スベク、県ヨリハ国費ヲ以テ山中ノ避難適地ニ九十棟ノ小屋ヲ建設スベク当部落ニ命ゼラレシニ付キ、部落民ハ安谷屋開墾ガ最モ適地トシテ、空襲下命懸ケニテ其ノ建設ヲ急ギタルタメ、一月ナラズシテ四十九棟ヲ完成スルニ至レリ。其ノ建設費住家一棟金八〇〇円、炊事場一棟金四五〇円、便所金八〇円ノ割ナリキ。」(「浜共同店沿革史」、『国頭村史』五三九頁所収)
 また『読谷村誌』(昭和四十四年発行)には、臨時の村役場を設置して避難者の対策にあたったことが記されている。
 「一九四五年一月沖縄戦が近づいてきたので、村民を疎開指定地の国頭村に避難せしめ、村当局も米軍の上陸を見るや昼夜兼行で国頭村に避難し、国頭の山中で戦争の終結を待ったのである。国頭村奥間部落に読谷山村仮村役場をおいて此処を中心として比地・桃原・辺土名・伊地・与那あたりまで部落単位の集団避難を実施し、各避難部落では区長をおいて地元部落と緊密な連携をとって食糧の配給や村民の保護に万全を期していた。」(『読谷村誌』昭和四十四年発行)
 国頭への避難は、県や村当局が推進した計画的なものだったといえるが、三月二十二日に島田知事の国頭への避難を促す指示があり(『国頭村史』五四一頁)、国頭への避難者が急増するにつれて建設された避難小屋には収容しきれなくなる。多くの体験記に記されているように、四月五日頃からは米兵の姿も目撃されるようになり、さらに山中へと分け入っていくことになる。
国頭への避難者数と避難地 表−7 (「戦災実態調査」より作成)

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避難指定地域 地図−1
各字への割当については『読谷村史・戦時記録・上巻』p84
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国頭までの避難経路 地図−2
国頭までの避難経路 地図−2
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国頭への避難の例(一部)
 ・「三月二十五日村役場の指示に従い昼下り荷をまとめ家族三人で与那目指し、徒歩で喜那〜山田〜名護〜羽地〜奥間〜と西海岸を行き約一週間がかりの行程で与那の避難小屋に着いた」
 ・「三月二十五日の午後、北部に避難するようにとの命令が出て、馬車に荷物を積み、現在の五十八号を日中は隠れて、夜だけ歩き続けて避難。二晩目の明け方桃原に着く」
 ・「村の避難命令により三月二十五日渡具知を出発、伊良皆通行止めで屋良を経て石川に向かう。石川橋が破壊され通行できず、山城、金武、喜瀬武原を通り西海岸に出て与那部落に向かう。四月二日に与那部落に到着」
 ・「三月二十五日、国頭村宇良向け出発。石川を通り、東海岸を北へ進み、安波、奥、目的地宇良に五日間かかる」
 ・「三月二十八日に国頭向けに出発。石川を通り、北へ金武、久志、安田、安波に着く(四月一日)。安波の山中に入り、西海岸の宇良に出る(四月二日)」
   引用はすべて「戦災実態調査」より
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