第五節 読谷村「戦災実態調査」の分析


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三 県内在住者の「捕虜」について

 県内在住者一万三六三四人について、米軍上陸後の「捕虜」についてみていきたい。ここでいう「捕虜」とは米軍に投降、もしくは保護された住民という意味のもので、「捕虜」という語が本来意味するものからは逸脱するが、当時からこれまでの慣例に従ってこの言葉を用いた。
 住民が「捕虜」となった場所は図―2〔県内在住者の「捕虜」場所〕のようになる。読谷山村内三一四一人、旧美里村・越来村・北谷村・恩納村を含む周辺地域一二六八人、旧金武村七四四人、旧羽地村・名護・本部・今帰仁を含む名護方面三六八人、国頭村・大宜味村・旧久志村を含む国頭方面二八四四人、中南部方面七八人で、この時点での生存者は一万一〇二三人である。全体の一九%にあたる二六一一人が「死亡」となっている。また、米軍の「捕虜」にはならなかったという記載や、「捕虜」となった場所が不明の「場所不明」も、全体の一五%にあたる二一〇〇人いる。
図−2

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読谷山村内での「捕虜」

 読谷山村内では、米軍上陸の四月一日から三日にかけて多くの人が「捕虜」になっている。「戦災実態調査」で日にちが判明している分だけで、四月一日七七九人、二日二四〇人、三日一六六人の計一一八五人になる(表―8〔読谷山村内での「捕虜」〕参照)。主な避難先には波平にある自然壕シムクガマなどがあり、日にちが不明な分も含めると波平だけで合計約一〇〇〇人が「捕虜」となっている。『読谷村史・戦時記録・上巻』には波平での避難の様子が次のように記されている。
読谷山村内での「捕虜」 表−8

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 「避難した人々の数は、アガリシムクに約二〇人、キジムナーガマに約二〇人、チビチリガマに約一四〇人、イングェーガマが約三〇人、シムクガマも合わせると約一二〇〇名が北部への避難もせず字内に留まっている。」
 その大部分が「捕虜」になったことになる。
 また渡慶次集落の地下ほぼ全域に広がっている自然鍾乳洞に避難していた人たちは、四月三日から十五日にかけて「捕虜」になっている(表では渡慶次全体で三四二人)。出入口は六か所から掘ってあったというが、現在では二か所のみ確認している(読谷村史編集室発行『読谷村の戦跡めぐり』二〇〇三年、参照)。
 同じく長浜も集落内で捕虜になった人が多く(四二五人)、集落内にあるカンジャーヤーガマと集落はずれにあるウフガマが主な避難先であった。「ウフガマに避難した人は全員助かったが、カンジャーヤーガマではなかなか投降せずにガス弾を投げ込まれて亡くなった人がいる」と、『読谷村史・戦時記録・上巻』には記されている。
 また村外に避難した後、再び読谷山村へ戻ってきて村内で「捕虜」になった人が二〇九人いる。いったんは国頭方面や周辺地域へ避難したが、米軍上陸後はもはや避難先も安全ではなくなり、再び村内へと戻ってきた人たちである。
 前掲表から、米軍上陸日以前の三月末頃に「捕虜」になったという人が、宇座を中心に七二人いるが、これは米軍上陸日の四月一日以前に上陸海域の機雷除去などを任務とする部隊「機雷防御網と航路標識設営群」「水中爆破小艦隊」(本書一五九、一七一頁参照)などが事前に接近していることから、この部隊による「捕虜」と思われる。この部隊の兵員は「フロッグマン」とも呼ばれていたという。類似の事例は北谷での体験記にも記されている(『沖縄県史 沖縄戦記録1』九八、一二二、一二五頁参照)。

国頭方面での「捕虜」

 国頭へ避難した人の数に対して「捕虜」になった人の数は少なく、国頭方面への避難五四二九人に対して、国頭方面での捕虜は二八四四人である。これには、国頭への避難者のうち七八一人もの人が爆撃や栄養失調、マラリアなどで死亡していることも理由として上げられるが、地図―3〔米軍の北部進攻後の避難経路と「捕虜」になった場所〕に示されるように、北部へ進攻してきた米軍を逃れて南下を続けたからである。その結果、多くの避難民が一時滞留した大湿帯を抜け出る五月から六月にかけて、旧久志村の瀬嵩、大川、二見、久志の一帯で「捕虜」になるケースが多く、さらに金武、恩納、石川と読谷山村めざして南下していく途中に「捕虜」になるケースも多い。また最後まで「捕虜」にならなかったという記載も多く、前掲図―2〔県内在住者の「捕虜」場所〕の「場所不明」が多くなっている。
米軍の北部進攻後の避難経路と「捕虜」になった場所 地図−3

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国頭方面での「捕虜」 表−9

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 地図〔米軍の北部進攻後の避難経路と「捕虜」になった場所〕は、米軍が北部に進攻してきてからの住民の主な避難経路を、「戦災実態調査」の「避難コース」と「移動コース」の項目から抽出して示したものである。国頭村の避難指定地域から山中を通り東海岸に出て、高江・新川、川田・平良などを経て、大湿帯に滞留する。この人たちが「捕虜」になるのは五月から七月にかけてである(表―9〔国頭方面での「捕虜」〕の旧久志村の項目参照)。一方国頭山中で避難を続ける人たちはさらに遅れて、七月になって山を降り、国頭村桃原や辺土名、また大宜味村喜如嘉や饒波などに収容されている。同表の国頭村、大宜味村の項目は七月がもっとも多く、八月にも一三四人と、依然として多くの人が避難生活を続けていたことを示している。読谷山村を出てから二か月から五か月にもおよぶ長期の山中での避難生活が、栄養失調やマラリアによる死亡者を多く出した原因でもある。
 「戦災実態調査」の項目「避難コース」から、米軍の国頭進攻後の住民の避難に焦点を絞って、その一部を引用して紹介したい。
 ・「辺土名に着いてから山中に入り、六月頃には安波を通って再び宜野座へ行き、最後は中川の避難民小屋に落ち着く」
 ・「三月末、金武村の開墾地にいる親戚を頼りに歩いていったが、金武村も危ないということになり、名護を通って四月二日に辺土名についた。辺土名の山奥に、自分たちで茅葺きの仮小屋をつくって住んでいたが、辺土名にも米軍が来たので山中を歩き続けて、東村、久志村の山中を通過し、七月頃捕虜され、宜野座収容所(大久保)のテントに入った」(以上座喜味)
 ・「〈金武に避難してから〉五月の初め頃、東村川田平良へ向かった。避難民はみんな国頭から中頭へと下ってきたので、一緒に引き返した。久志村瀬嵩で捕虜になった」
 ・「宇良部落に着く(四月三日頃)。奥部落を通り東海岸を南下。五月瀬嵩で米軍の食糧配給を受ける(一か年間滞在)」
 ・「目的地奥間に四月一日頃着く。九日分の食糧配給を受け、宇良部落に行き山を越えて安波に出る。又、山中に入り久志岳、恩納岳、石川岳山中を通り伊波部落に下る。東恩納を通り、安慶名、コザを通り諸見里で捕虜」
 ・「四月三日頃、国頭村宇良へ避難した。それから安波へ出て、そのまま久志村へと移動し、六月頃久志村汀間で捕虜され、瀬嵩に収容された」(以上伊良皆)
 ・「国頭村奥間民家の家に二月〜四月十日。国頭村奥間の住民が作った山の避難小屋四月十日〜八月。八月に避難小屋を焼かれ、米軍の捕虜になる」(波平)
 ・「桃原の東側の小山に壕を掘り、そこに避難していたが、ここもやがて米軍が来るとの情報が入り、四月六日頃の夜、四キロメートル山中の避難小屋へ移動する。七月、米軍は山中へ掃討戦をかけてくるようになり、奥間の避難小屋も焼かれた。奥間の人達も下山したということで、渡慶次の人達とも相談し、一緒に下山して桃原で捕虜になる(七月二十三日)」
 ・「四月二十三日、馬車で国頭村奥部落に避難、二十五日到着。食糧を求めながら東村〜久志村〜恩納村と南進を続け、六月十七日〈読谷山村へ〉帰宅。住民一人たりとも見えず、再び引き返して石川へ向う途中、仲泊で捕虜」(以上渡慶次)
 ・「三月二十三日、卒業式当日だったが、アメリカ軍が上陸してくるということで、昼間は渡慶次部落の防空壕に避難していて、夕方になると老人二人、子供たち五、六人を馬車に乗せて国頭へ向う。昼中は恩納村谷茶の森林や、その他の森に隠れたりして国頭村宇良、安田に一週間程で到着。避難して二か月程して高江新川にてアメリカ軍の捕虜になる」(儀間)
 ・「二月頃荷馬車を利用して国頭村奥間へ避難する。四月頃、東村高江、新川、汀間、瀬嵩等を通り宜野座部落へ避難するも、捕虜にはならなかった」(楚辺)
 ・「四月二日に与那部落に到着。与那部落にはすでに米軍が上陸しており再び山道を通り東海岸に出る。内福地で日本軍と米軍との戦いに巻き込まれる。川田から平良を経て宜野座の山小屋に着く、山小屋が焼きはらわれ着のみ着のままになり六月十三日捕虜になり宜野座の収容所に移送される」
 ・「与那の避難小屋に着いた。着いた時には、米軍上陸の話もちらほら聞かれた。話もつかの間四月五〜六日頃になると小屋近くまで来る様となり、離散騒動が始まるや山奥へと点々としている内遂に東海岸へ出た。日時もはっきりしないまま南下する群衆にまぎれ込み安田〜川田・平良〜有銘と行き遂に山中へ、オーシッタイと南下し、五月頃喜瀬武原で捕虜となる」
 ・「三月二十五日村役場から避難命令出る。夕刻荷をまとめ馬車に乗せ渡具知を出発、三日がかりで国頭村宇良山中へ避難す。一か月位滞在し東海岸の安波へ行き、美作〜新川山中〜美里原へ降り〜川田山中〜有銘と南下した所、米兵が多く南下を諦め逆戻りして西海岸線へと行き辺土名へ又もや逆戻り、比地〜謝名城山中へと避難す。約二か月余滞在し遂に七月下旬白旗(サナギ〈楚辺の方言で「ふんどし」のこと〉)を掲げ山を下り謝名城部落へ投降し収容生活をす」
 ・「三月二十五日村役場の指示に従い与那を目指し、徒歩で西海岸を行き約六日掛りで家族と一緒になった。四月五〜六日になると米兵が小屋まで来るようになったので、山奥へ山奥へと避難を繰り返している内に東海岸の安波に出た。そして南下、新川〜有銘〜山中へ、オーシッタイとさまよう中七月に二見山中で捕虜となる」(以上渡具知)
(引用文中〈 〉内は筆者、他はすべて「戦災実態調査」より)
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