第五節 読谷村「戦災実態調査」の分析


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四 県内在住者の「収容」について

 米軍は沖縄本島上陸後、各地に住民収容地区を設けた。上陸地である読谷山村では、早くも四月一日には都屋、楚辺、喜名などに臨時に住民が収容された。その後、村内での移動を伴いながら四月から五月までの時期村内での居住が許可され、後には全員、村外に設置された本格的な収容地区へ移動させられた。

読谷山村内での収容

 当初読谷山村内に収容されたのは二〇三二人であった。その内訳は、都屋一三七一人、楚辺三一二人、喜名一四二人、瀬名波六九人、渡慶次五一人、長浜二九人、宇座三九人、高志保一六人、波平三人となっている(図〔読谷山村内での収容先〕参照)。都屋は、シムクガマに避難していた人たち七一八人が四月一日に連れてこられたのを始めとして、大部分が四月一日から二日にかけて「捕虜」になった人たちである。都屋に収容されたのはほかに、波平から一六一人、宇座から一四三人、座喜味から七八人などとなっている(いずれも「捕虜」になった場所)。いずれも滞在日数はほぼ四月十日までの数日間である。当初自然洞窟ティラのガマで寝泊りさせられたようだが、その後は周辺に建てられた米軍のテント小屋で数日間を過ごしたり、空いている民家などで生活している。また楚辺や、あるいは胡差、金武などの村外の収容地区へと移動させられた人も多い。楚辺をはじめ、瀬名波、渡慶次、長浜、宇座などへと村内で一時的に移動した後、胡差、石川、金武、宜野座などの本格的な収容地区へ全員移動させられている。都屋から村内の他の地区へ移動した状況については図「読谷山村内での収容先」に示したようになる。当初の一時的な収容先である都屋、楚辺、喜名から、読谷山北よりの瀬名波、渡慶次、長浜、宇座に多くの村民が移動している様子がわかる。時期的には四月から五月にかけてのことである。
 この時期日本軍は、「菊水一号」から「菊水十号」までの名称で知られる特攻攻撃を主体とした航空総攻撃を実行している。読谷山沖合いに停泊中の米艦船および北飛行場を目標にしたこの航空総攻撃は、陸海軍合わせた総攻撃機数七八五〇機、うち三一%にあたる二四二三機を特攻機が占めている(攻撃機数、特攻機数は服部卓四郎著『大東亜戦争全史』より集計)。この総攻撃の時期とそれによる米軍の被害艦船については、図〔日本軍機による総攻撃と米被害艦船(一九四五年四月〜六月)〕に示した。米軍上陸地に近い都屋や楚辺からの住民の移動は、このような事情があってのことと思われる。
 この時期、都屋や楚辺に一時的に収容された住民の証言に次のようなものが多い(引用はいずれも「戦災実態調査」の「避難コース」「移動コース」の項目から)。
 ・「都屋で一〇日ほど暮らしていたが、友軍の爆撃があり、危ないということで長浜に移された」
 ・「四月一日、シムクガマより捕虜の身となり、都屋の広場に移動させられ約一週間滞在させられた。ここも危ないということで、瀬名波川平に移動させられた」
  (以上都屋に収容された人の記録から)
 ・「四月三日捕虜になり、楚辺に収容される。四月十日頃、日本空軍の夜間空襲が激しく、喜名の部落に移る。四月十五日頃、米軍の命令で金武に移る」
 ・「四月三日、楚辺に収容される。毎夜の日本軍の空襲が激しくなり、四月十日頃石川に移される」
 ・「楚辺に一〇日くらい収容され、日本軍の空襲が激しく、楚辺に収容されていた全員が石川の収容所に連行された」
 ・「特攻隊の攻撃のため当時楚辺に収容されていた避難民はそれぞれ別の収容所に移された」
 ・「四月三日頃捕虜され、楚辺に連れてこられた。日本軍の神風特攻隊による読谷飛行場へ空襲が激しくなったので、四月下旬頃石川収容所に連れていかれた」
 ・「四月二日頃楚辺に収容されていたが、一週間くらいして楚辺の前の海に停泊している敵艦めがけて友軍の飛行機による爆撃が二、三回ほどあって、楚辺は危険だということで、収容されている民間人は全部トラックで石川へ」
 ・「楚辺の屋嘉(屋号)の屋敷に二週間収容されたが、日本軍の空襲が再三あって楚辺は危険だとのことで、楚辺に収容されている民間人は全部トラックで運ばれ石川に収容されることになった」
 ・「楚辺収容所滞在期間中は日本軍の特攻機も飛来した。時に日の丸機にバンザイを叫ぶ人もいた」
 ・「楚辺の収容所にいたが五月下旬頃今度は同収容所が日本軍の特攻隊に攻撃されたため、石川収容所に移動」
  (以上楚辺に収容された人の記録から)
図−3

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図−4
〔本書185頁参照〕
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 都屋は四月一日から約一〇日間くらいと滞在期間が短いため、特攻機の攻撃に関する証言も少ないのに比べ、比較的長い滞在となった楚辺ではこのような証言が多くなる。
 読谷山村内での移動と並行して村外への移動も行われているが、最終的には村内へ収容された人たちはほとんどすべてが村外へと移動させられた。その主な移動先は胡差、金武、宜野座、石川で、胡差へ一五八人、金武へ九五一人、宜野座へ二四人、石川へ八〇三人となっている。また村内の収容所で死亡した人が一三人、村内収容所以降の記載がない人が五九人いる。

本島内一二の収容地区

 米軍が本島上陸後に設置した本格的な収容地区とはいわゆる「十二地区」と呼ばれる地域で、知念・前原・胡差・石川・漢那・宜野座・古知屋・大浦崎・瀬嵩・田井等・辺土名・平安座などの各収容地区がそれにあたる。一九四五年九月には、各収容地区で一斉に市会議員選挙(二十日)、市長選挙(二十五日)が行なわれ、一二市が成立したことで知られる。
 県内在住の読谷山村民一万三六三四人の米軍上陸当初の収容先は、読谷山村内二〇三二人、胡差地区および前原地区一八五人、石川地区二〇七六人、金武地区および宜野座地区二二八三人、田井等地区五七二人、瀬嵩地区および久志地区六一〇人、辺土名地区一〇五四人で、他に収容先不明を含む「不明その他」二二一一人、収容以前の死亡二六一一人であった(図―5〔県内在住者の収容先〕参照)。このうち読谷山村内への収容は一時的なもので、前述したように後に村外へと全員移動させられている。
図−5

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 仲宗根源和著『琉球から沖縄へ』所収の「辺土名市居住外来者分布(一九四五年十月付け)」によれば、辺土名市(地区)に居住する読谷山村民は一四〇五人で全市町村の中でもっとも多い。全市町村の合計が五一〇二人であるから、辺土名地区に一時的に居住する読谷山村民の割合が高かったことを示している。
 読谷山村内に収容された人たちが村外へと移動させられた後、県内在住者一万三六三四人の収容先の内訳は、胡差・前原地区三七七人、石川地区四六二六人、金武地区二四〇七人、宜野座地区八〇九人、田井等地区二六九人、瀬嵩・久志地区二七四人、辺土名地区三五六人などとなっている(図―6〔県内在住者の収容先(2)〕参照)。全体の半数が石川、金武に集中している。収容先不明を含む「不明その他」が一四八四人、死亡が三〇三二人である。
 また一九四五年六月から七月にかけて、主に屋嘉捕虜収容所から沖縄出身軍人・軍属のハワイへの移送があった。第一陣が六月十日頃一八〇人、第二陣が六月二十七日頃約一五〇〇人、第三陣は七月五日頃約一五〇〇人ということである。「戦災実態調査」でわかった読谷山村からのハワイへの移送は、八二人の軍人・軍属・学徒隊であった(次表―10〔ハワイへ送られた捕虜〕参照)。年齢別にみると十五歳から二十歳二一人、二十歳から三十歳二七人、三十歳から四十歳二二人、四十歳以上一一人、年齢不詳一人となっている。この人たちは二か月から約一年半のハワイ滞在の後、沖縄へと送還されているが、この時期の読谷山村はまだ居住が許可されたばかりで(読谷山村への居住許可は一九四六年八月、住民受け入れが始まるのは十一月)、再び石川などの収容地区での生活となった。
図−6

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表−10 ハワイへ送られた捕虜
人数
伊良皆 6
宇座 6
喜名 6
儀間 2
古堅 7
高志保 2
座喜味 8
瀬名波 3
楚辺 13
大木 2
大湾 3
長浜 7
渡慶次 9
波平 2
比謝 2
比謝矼 3
牧原 1
合計 82
 「戦災実態調査」よりハワイへ移送された人たちの聞き取り調査の一部を引用しておく。
 ・「屋嘉収容所から昭和二十年七月五日北谷村砂辺よりハワイへ、昭和二十二年一月七日ハワイより帰沖」
 ・「屋嘉の収容所より水釜の収容所に行き、水釜よりハワイのホノルルの山奥の収容所で一か年余り作業させられ、昭和二十一年十月頃ハワイより沖縄へ帰る」
 ・「屋嘉収容所に連行され、昭和二十年七月砂辺の浜よりハワイへ強制連行され約一年半居た。昭和二十二年二月名古屋経由で久場崎収容所に来て、そこから家族がいる読谷村波平へ帰った」
 ・「屋嘉に収容され、ハワイに連れて行かれる。約二か月して沖縄に帰り、家族全員と再会」
 ・「六月十日頃、水釜からハワイへ。終戦直後(昭和二十年八月十五日)沖縄へ。昭和二十年九月、再び屋嘉収容所へ。宜野座の収容所にいた家族と再会」
 ・「屋嘉の収容所へ。七月中旬頃にハワイへ移送され二十一年の十月に沖縄に帰り、宜野座村漢那で家族と共に生活。十一月読谷に帰る」
 ・「金武・屋嘉へ一時収容される。それからハワイに捕虜として連れて行かれる。昭和二十一年の四月頃沖縄へ帰る」
 ・「越来村嘉間良の収容所に連行され、防衛隊と判明されたので翌日は砂辺の収容所に連行、そこに一週間位滞在し六月五日頃砂辺の収容所からハワイに連行されハワイで一年三か月位の捕虜生活をした。昭和二十一年十月頃久場崎に上陸し、石川で家族と一緒になる」
 ・「北谷の収容所で二、三日滞在、そこから屋嘉収容所へ送られた後ハワイへ。三か月位抑留され二十年の第一陣の引き揚げで沖縄(屋嘉収容所)へ、そこから石川→羽地へ家族を迎えに行く」
 ・「屋嘉の収容所に収容され、再び嘉手納の兼久からハワイ(オアフ島)へ移送される。ハワイで約一年半米兵用の洋服等の洗濯係をさせられる。昭和二十二年九月にハワイを出発、浦賀を経て名古屋へ上陸一〇日間宿泊し、コザの犬目屋取へ引き揚げ二日間滞在し石川へ」
 ・「屋嘉収容所へ。六月十日水釜からハワイの収容所へ(五日〜一週間位かかる)。終戦直後沖縄へ(昭和二十年九月頃)。屋嘉収容所にもどる。名簿を頼りに家族の消息を知り、十一月頃家族と再会。家族と帰村」
 ・「屋嘉に収容され翌七月一日ハワイへ。三か月いて屋嘉に戻る。その後石川にいる家族の所へ。昭和二十二年十一月帰村」
  (引用はすべて「戦災実態調査」より)
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