第四章 米軍上陸後の収容所


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一 上陸地周辺の住民収容

北谷村砂辺・桑江

 北谷村砂辺では、米軍上陸日の四月一日には住民の収容が開始され数日後に中城村島袋まで歩いて移動させられた。そのときの住民の数は三〇〇〇人に達していたという(『沖縄県史 沖縄戦記録1』八八頁、一一八頁に移動手段が歩きだったと記録されている)。その後砂辺収容所は閉鎖されるが、「G2レポート」(上原正稔編訳『沖縄戦アメリカ軍戦時記録 第一〇軍G2レポートより』三一書房、以下同じ)によれば砂辺収容所の設置は四月二日で、閉鎖は四月四日とある。
米軍上陸と上陸地周辺の住民収容

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軍政チームの配置
(『沖縄県史 琉球列島の軍政』25頁より作成)
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 四月三日までに中城村瑞慶覧で「捕虜」になった三〇〇〇人近い住民は(「G2レポート」では四月七日現在の瑞慶覧キャンプの住民は二八三二人と報告されている)、北谷村桑江に数日間収容された後、四月八日に宜野湾村野嵩へ移動となった。
 戦闘の変化や軍事的理由から住民の移動は頻繁にあったが、その始まりとして北谷からの移動を米軍資料は次のように記している。
 住民の大量移動は、軍政府が砂辺から島袋まで六〇〇〇人を徒歩で移動させた四月六日に始まった。四月十日、軍政府のBチームが六〇〇〇人を徒歩で北谷(桑江付近と思われる―引用者注)から野嵩まで移動させた。(『沖縄県史 琉球列島の軍政』五一頁)

中城村島袋・宜野湾村野嵩

 米第七師団は、四月二日には中城村島袋を突破、翌三日には地元住民の収容を開始した。避難せずに残っていた住民と北谷村砂辺から移動した住民をあわせると数千人の規模になる。六月末までの間に「避難民は、東方面ばかりではない。島尻からも、首里や那覇の方からも大分来た」という。「島袋での生活は、ゆっくりでした。島袋の建物は、部落にいる間は、一軒もこわされていなかった」が、六月末には金武村福山に全員移動となった(本稿「宜野座地区」参照)。その後福山から帰ってきたとき(島袋への居住許可は翌年三月五日―引用者注)には、家は壊されて一軒も残っていなかったという(引用は『沖縄県史 沖縄戦記録1』より)。
 宜野湾村野嵩に収容されたのは、当初瑞慶覧、桑江などのキャンプから移動してきた住民であった。たえず住民の移動があったようで、四月十五日の報告では野嵩キャンプの収容人数は六〇二八人で、四月二十九日には、九八四四人の住民がいたが現在住民は残っていないと報告されている。さらに六月十七日の報告では野嵩中継キャンプの住民はわずかに七九八人である(「G2レポート」)。
 六月には沖縄本島南部の兼城村潮平や豊見城村伊良波の臨時収容所から野嵩や島袋への住民の移動があった(『糸満市史 戦時資料下巻』『豊見城村史 戦争編』参照)。「G2レポート」六月十七日の報告には「過去一週間に、八一五九人の住民がLSTやトラック輸送により、糸満地域からアイランドコマンドの住民収容所へ移動した」とある。「沖縄諮詢会」が発足する直前の人口調査(本書二七四頁参照)に野嵩が記載されており、その人口は二〇一四人であった。一九四五年九月に後述する前原市が成立すると前原市の区域に編入されたが、前原市が解消した後一九四六年四月に再び宜野湾村に改められ、戦後の宜野湾復興の中心になった。
 島袋、野嵩の住民移動について、当時野嵩収容所で作業にあたった一人は次のように語っている。
 米軍は、その頃対日戦が続いていたので、米軍施設の多い地域の住民をすべて北部に移す計画だったようで、その対象になったのが比嘉、島袋、そして安谷屋、野嵩の収容所だった。最初に移されたのが比嘉、島袋で、作業は移住後空き家になっている家屋を壊す作業である。壊した後の材料は、再び山原で仮設住宅に使うということであった。(途中省略)この作業も、住民の北部移住も、安谷屋が全部移住し、野嵩の人口の三分の一くらいが移住したところで八月十五日の日本の降伏となり、中止された。(『那覇市史 資料編第3巻8』二二頁)
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