第四章 米軍上陸後の収容所


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三 沖縄本島一二の民間人収容地区(一九四五年四月から八月)

 米軍上陸後に保護された沖縄の住民数を表したのがグラフ「保護住民数」である(上原正稔訳編『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』三一書房、四〇七頁より作成)。五月から六月にかけてグラフは横ばい状態を示すが、沖縄本島中部から南部にかけての日米激戦の時期とかさなっており、その後六月初旬から再び増加に転じる。沖縄本島南部で住民の保護が始まるのと、米軍上陸前に住民が避難していた北部で山中からの下山が始まるからである。
保護住民数

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 七月二日には沖縄作戦の終了宣言があり、七月四日には「沖縄軍政府の全組織は、既に、第一〇軍のアイランドコマンドに移されている」と報告されている(「G2レポート」)。沖縄のほぼ全住民が収容されたと思われる時期の、各地区収容人口を示すのが表「軍政本部APO三三一」である(仲宗根源和著『沖縄から琉球へ』一二二頁「一九四五年八月二十五日付文書の綴込にある『軍政本部APO三三一』」より作成)。人口の分布をみるために地図上に表した(図「一九四五年八月以前の人口調査」)。当時の住民の多くが田井等以北と金武村、久志村に集められているのがわかる。
 当時沖縄本島は一二の民間人収容地区に分けられていたといわれる(次頁図「沖縄本島一二の民間人地区」参照)。以下、読谷山村民が分散して収容された一二の民間人地区についてみていく。
「軍政本部APO331」
(仲宗根源和著『沖縄から琉球へ』一二二頁より作成)
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1945年8月以前の人口調査(「軍政本部」APO331より)

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沖縄本島12の民間人地区

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