第四章 米軍上陸後の収容所


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胡差地区

 米第七師団は、上陸の翌日四月二日に越来村嘉間良を占領して占領地域一帯の住民を収容した。嘉間良の字民は疎開して不在だったので、当初収容されたのは、読谷山村や美里村の避難民だったという。米軍資料には「上陸の最初の日に楚辺の約一〇〇〇人の住人が隠れ場所から出てきて保護された。C‐1(軍政チーム)は仮の施設をつくり、その後コザの近くの恒久的なキャンプに移動した」(『沖縄県史 琉球列島の軍政』四二頁)という記述があり、また「戦災実態調査」では、上陸初日に都屋に収容された約一〇〇〇人の住民の移動先には嘉間良や室川などの地名が出てくるから、楚辺を経由して住民の移動があったことは間違いないようである。ただし「戦災実態調査」で確認できた読谷山村から胡差地区への移動は、全体でも一八五人であるからそれほど多くはない。
 嘉間良の収容所はその後難民が増えて越来、室川、安慶田を含めた四部落に拡大されキャンプ・コザと呼ばれる収容地区を構成するようになる。当時米兵の陣営地となっていた美里村古謝をスモールコザと呼び、嘉間良を中心とした収容地区をビッグコザと呼んでいたことから、「コザ」という地名が定着したようである(『コザ市史』四六五頁)。米軍が作成した一九四五年四月と八月の地図(読谷村史編集室所蔵)では、美里村古謝の位置にも、嘉間良を中心とした地域にも「koza」と記載されている。
 キャンプ・コザの収容者数は五月末に五〇〇〇人に達し、「これらの避難民達はみんな一様に、米軍の作業服をつけ、軍靴をはき、表面は極めて明るい表情をしていた」という(『地方自治七周年記念誌』)。
 六月十日に臨時村制が施行され越来村となった。このときの村長には読谷山村出身の元県会議員比嘉幸太郎、副村長には美里村の仲地庸之が任命されている。「この臨時行政時代の越来村が、村長、副村長が越来出身でなく、読谷村、美里村出身というように、他村民によって、行政が行われたということは、後のコザ市の性格を形成する一要素になると考えられる」と『コザ市史』(四六四頁)は記している。
 沖縄本島南部で戦闘が終結する六月下旬になると、南部から続々と負傷者や住民が運ばれてきて、学校、病院、孤児院なども拡充されていった。

収容地区の移動計画

 一九四五年八月十五日に発表された「仮沖縄人諮詢会設立ト軍政府方針ニ関スル声明」は、「軍政府の目的は、戦争遂行上の制限範囲内において住民に関し左の事項を実行することにある」として、「沖縄の全人口を臨時に左の九区に移転すること」を指令している。そこにあげられた住民の居住区域と予想人口は、「前原区域三万、漢那区域三万、古知屋区域三万、瀬嵩区域五万、辺土名区域四万、石川区域二万五千、宜野座区域四万、久志区域三万五千、喜如嘉区域四万」の九区で、コザ地区や後述する田井等地区は含まれていない。沖縄本島の南部一帯と本部半島までの西海岸一帯からは住民がほとんど移された状態である(地図参照)。

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 沖縄本島以外の宮古島、喜界島、徳之島などの占領とそこへの基地建設を予定していたアイスバーグ第三期作戦は早い段階で(宮古島占領は四月二十六日に)中止されている。この中止は沖縄本島での住民移動にも大きな影響を与えた。当初の基地建設全体計画は変更となり、当初沖縄本島に八、伊江島に三つの本土攻撃用滑走路建設を予定していたのが、沖縄本島に一八、伊江島に四つに変更された。最初に完成した滑走路は読谷山村の中距離用滑走路(読谷飛行場二一〇〇メートル)で六月十七日に完成している。六月末までに残波岬の長距離用二五五〇メートル(実測二三五〇メートル)滑走路(ボーロー飛行場)は一五パーセント完成、泡瀬、金武の滑走路は使用開始前にあり、普天間と嘉手納の滑走路が工事中という状態であった(いずれも米軍着工の滑走路)。
 キャンプ・コザで毎週一回開かれていた軍との連絡会議で、「軍は作戦上の必要から、コザにいる全避難民を北部に移動させることに決定した。一週間以内に移動の準備を整えるよう、全住民に伝達してほしい」(『地方自治七周年記念誌』四八頁)と宣告されているのもこのような事情によるものと考えられるが、八月十五日の日本の降伏で中止になった。
 他の収容地区でも四月から七月までの時期は頻繁に収容住民の移動が行われている。これは沖縄本島で保護された住民が増加したことによる移動というよりはむしろ、米軍の飛行場建設および軍事的理由による再移動であったことを強調しておきたい。米軍資料 "Report of Military Government Activities for Period From 1 April 1945 to 1 July 1946." には次のように記されている。
 軍事上の必要と基地建設計画によって、住民は地域から地域へと次々に移動させられた。この移動は、初めは住民集積地点に向かっての移動だったが、やがて人口の多い沖縄の南部方面から比較的山がちで不毛な(barren)国頭方面への移動に変わっていった。けれどもこの傾向がまだそれほど明確にならないうちから、住民はフラフラとあちこちに移動を余儀なくされた。というのはさまざまな命令が出されては取り消され、それにともない住民収容地域も開かれるとやがて閉じられ、それからまた開かれるのくり返しだったからだ。基地建設の計画は、拡大され、修正され、それから削減され、しばらく見合わせるという変更の連続だった。それで住民はその間もつねに移動しなければならなかった(翻訳引用者)。(『沖縄県史 資料編9』六頁)

胡差市の成立

 八月十五日の日本の降伏で胡差地区の移動は中止になった。八月二十日には沖縄住民側の戦後最初の中央政府的機関となる「沖縄諮詢会」が発足したが、名前のとおり米軍政府の諮問機関でもあった。そこでなされた最初の諮問が「地方行政緊急措置要綱」で、これが沖縄の戦後の出発ともいえる「市およびその地区」を規定し、沖縄本島には一二の市が成立した。そのひとつが「胡差市」で、当初は「古謝市」の字が当てられたりもするが後に漢字名の胡差市に決定した。九月二十日の市会議員選挙で一五人の市会議員、二十五日の市長選挙で仲地庸之が胡差市長に選出された。

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 早くも十月には各収容地区からの「帰村」(元住んでいた村への移動)が開始され、米海軍政府指令第二四号(十月十四日付、三一二頁参照)によって旧中頭郡の宜野湾、浦添、中城、西原、北谷、読谷山、越来の七村は胡差市に編入された。十一月には田井等地区から越来村の人々が移動(帰村)してくるとともに北谷、読谷山、中城、西原村の難民も集まってきた。各村村長も任命され、読谷山村長には知花英康が任命されている。
 胡差市成立前の人口は一万一七六二人(二七四頁参照)で、その後十月十日の諮詢会社会事業部調査によると一万七九一四人である(三一一頁参照)。
 読谷山村への帰村前の読谷山村民の居住者数は七六二人である(三章五節参考資料2「一九四六年九月付人口調査」、二六一頁参照)。
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