第四章 米軍上陸後の収容所


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前原地区

 四月三日に泡瀬方面に進出した米第七師団は、四月九日に泡瀬キャンプをオープン、その後の報告では四月十三日現在の住民数は三二四七人である。米軍は高江洲の南にある下原の名をとって泡瀬周辺地域をシモバルと呼んでおり、四月二十二日の報告ではシモバル地区に六二〇〇人の住民がいると報告している。さらに四月二十九日報告は、中城村当間、津覇の両地区にあらたにつくられた住民地点から、キャンプシモバル、キャンプトウバルに住民を移動していることを報告している(「G2レポート」)。
 また勝連半島に進出した第一海兵師団の四月十五日報告によれば、石川地峡の住民はすべて勝連半島に移されたとあり、具志川村具志川の住民も勝連、与那城両村へ移動した。勝連半島の収容者は当時四万人にも達したといわれるが六月には再び移動の命令があり、具志川村具志川、高江洲方面へ移動、さらに七月には具志川村具志川の住民は全員金武村惣慶、福山方面へ移動した。
 泡瀬飛行場は五月一日に建設が始まり七月には完成している。基地建設のために住民移動が頻繁にあったことの例として、前掲米軍資料は次のように記している。
 当初シモバルに集められた六〇〇〇人の住民は、飛行場建設のために五月十五日から二十日の間に移動させられた。この住民は、数マイル離れた高江洲に移動したが、ここもまた一か月後には、CB基地建設のために大部分が移動となった。勝連半島には、最初二万三〇〇〇人の住民が集められ、それから五月の最後の週に全員移動させられた(翻訳引用者)。(『沖縄県史 資料編9』七頁)。
前原地区の区域

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 当時頻繁にあった住民移動について『地方自治七周年記念誌』には次のように記されている。
 収容所生活で一般にいやがられていたことは全員移動であった。これは作戦上の関係で前原地区内では相当頻繁に行われていた。たとえば宜野湾村野嵩は一九四五年四月二十六、二十七日に一部は美里村泡瀬へ、一部は中城村比嘉島袋へ、そして三週間後には泡瀬は全員具志川村高江洲、仲嶺、川田へ、比嘉島袋は北部へ、勝連村内間平安名は一部は同村南風原へ、一部は具志川村具志川へ移動したが、その具志川部落も一か月ほどしてさらに宜野座地区へ移動を命ぜられたことなどが著しい例である。(四四頁)
 高江洲一帯には早い時期から高江洲市が組織されて市長も任命されているが、当時の状況を浦崎康華の著書から引用する。
 私たちは北谷村桑江の海岸から宜野湾村野嵩を経て美里村泡瀬に連れて行かれて二、三日もすると、米軍は泡瀬に飛行場を新設するとのことで収容所全員が具志川村高江洲に移動させられた。(途中省略)四月十日の朝、高江洲に着くと、すでに数百人の避難民が収容されていた。仲喜洲国民学校の木造校舎は少しの損傷もなく完全に残っており、その職員室には米軍軍政府のこの地区の責任者キーン中尉(被収容者は彼を副官といっていた)が執務していたが、泡瀬から来た高江洲良保、池宮城積宝と私の三人が通訳の二世に連れられてキーン中尉の前に立たされた。彼はこの収容所を高江洲市と称すること、市長に高江洲良保、第一助役に池宮城積宝、第二助役に浦崎康華、そして毎朝八時に校庭に十六歳以上五十歳以下の男女は学校の朝礼のように勢ぞろいして市長、助役、班長らの指示を受けてそれぞれの担当場所へ米兵の引率のもとに行進して班長の指定する場所で芋掘りや建築資材を収集するのが日課だった。(浦崎康華著『沖縄戦とその前後』八二頁)
 この例にも見られるように「地方行政緊急措置要綱」の発表(一九四五年九月十二日)以前には、米軍地区隊長の一存によって市や村の名がつけられ、市長や村長も任命される例が各地区に見られた。さらに浦崎氏の記述は次のように続く。
 高江洲には各地から毎日数百人の避難民がトラックに乗せられてやって来た。しばらくの間に一万二八三七人の収容人員となった。キーン中尉は私に対し助役兼校長になって早く高江洲小学校を開校せよと命令したので米兵と建築班の協力でかやぶき小屋ができあがった。そして四月十四日には約一〇〇〇人の児童を集めて開校式を行った。(同前)
 高江洲校の開校については、六月二十日という記録もあり詳細は不明だが、高江洲市は後述する石川市とともに収容地区のモデルのように見られており、学校なども早い時期から創設された。七月初旬に前原高等学校が創設され、高江洲市が解消し前原市となった後も警察学校(一九四五年十二月)、文教学校(一九四六年一月)、外語学校(一九四六年九月)、農林専門学校(一九四七年四月)などが新設された。

前原市の成立

 一九四五年夏ごろから、米軍は美里村南部、具志川村、勝連半島一帯をさして「前原地区」と呼ぶようになった。地区内には高江洲市、平安座市を含み、『地方自治七周年記念誌』には「前原地区内収容所の高江洲市、平安座市は当初から市と称え、他は村或いは区とも副官の一存でつけていたよう」だとある。
 高江洲市は一九四五年八月三十一日に解消し、九月には「地方行政緊急措置要綱」にもとづいて前原市が成立した。一九四五年九月二十日に市会議員選挙が行われ二五人の市会議員の選出があり、九月二十五日には市長選挙が行われ当銘由伸が市長に選出された。
 前原市成立前の人口は「具志川五六五六人」とあるだけだが(二七四頁参照)、十月には四万一八三人(三一一頁参照)、さらに翌一九四六年一月の人口調査では五万三〇五五人に増加している(三一四頁参照)。
 読谷山村への帰村前の読谷山村民の居住者数は三〇六人である(三章五節参考資料2、二六一頁参照)。

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