第四章 米軍上陸後の収容所


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石川地区

 第六海兵師団は、四月三日に石川地峡に到達、四月四日には東恩納も確保した。美里村石川に住民が収容されたのは四月三日頃のことで、『石川市史』には次のように記されている。
 米軍は石川を避難民収容となし、読谷、北谷方面その他の避難民を続々と収容し始めた。しかし部落内の人はほとんど石川岳の奥の谷間俗称カーラン小に避難していたから避難民収容所になっていることも知らず、たまたま食糧を取りに来てみると我が家は見ず知らずの難民に占拠されている。(途中省略)難民収容所となった石川は安全地帯として続々避難民が送り込まれてきて、たちまちのうちに万余の人口となった。一番多いのは那覇、読谷、北谷方面の人であった。(『石川市史 改訂版』、八二八頁)
 読谷村「戦災実態調査」によると、読谷山村内に臨時に収容された住民の多くが石川に移動させられている。読谷山村からの移動だけで八〇三人確認できるが、石川地区に収容された読谷山村民の総数は四六二六人に達している。そのうちの死亡者数も一四六人にのぼり、うち四八人は四月から七月の四か月間での死亡で(「読谷村戦没者名簿」)、死亡原因のほとんどは「栄養失調」となっている。石川地区での当初の収容生活も厳しい状況だったことがうかがわれる。
 五月には収容所の委員長に屋我次郎(本名嗣太)が任命され、初等教育部・社会教育部・衛生部・人事部・連絡部など一〇部門が設置された。また戦後最初の学校といわれる石川学院を受けついで城前初等学校(校長山内繁茂)が開校したのは五月七日であった。やがて軍政府により市制が敷かれ石川市(市長屋我次郎)の名称で呼ばれるようになるが、この頃まではまだ宜野座に本部を置く北部軍政地区の一地域でしかなかった。「G2レポート」五月六日報告に「行政管理のため、アイランドコマンド地区は、宜野座本部(ほんぶ)地区と安慶田本部(ほんぶ)地区に分割された」とある。
 六月二十日には金武村伊芸、屋嘉から住民が強制移動でやってきた。

石川市の成立と「沖縄諮詢会」設立

 八月二十日に石川で沖縄諮詢会(八月二十九日に委員長志喜屋孝信を選出)が発足して政治の中心が石川市に移ると、各地区との連絡や会議が石川で行われるようになり、沖縄本島各地から人々が集中した。近くの東恩納には米海軍軍政府も読谷山村字比謝から移ってきた。「その頃の人口を市町村別に見ると、読谷村八九六一人、那覇市七一六四人、北谷村二六六八人、恩納村一七二七人、浦添村五四〇人、首里市四一六人などが大部分を占めていた」(『地方自治七周年記念誌』四五九頁)という。当時の人口約二万五〇〇〇のうち、三人に一人は読谷山村民だったことになる。
 一九四五年九月二十日の市会議員選挙で二〇人の議員が選出され、九月二十五日の市長選挙で横田英が選出されて正式に石川市が発足した。石川市成立前の人口は二万五一三七人で(二七四頁参照)、十月の人口は二万三〇三三人(三一一頁参照)、さらに翌年一月の人口は三万一三四二人(三一四頁参照)である。
 ひめゆり学徒隊として従軍し、摩文仁から久志村二見、宜野座を経て石川へきたという渡久山※※(旧姓古堅)は城前初等学校で教員となった。
 (一九四五年十月頃)叔父は、私が落ちついたころを見計らい、城前初等学校へ連れていき、教員に採用してもらうよう頼んでくれました。その相手は学園の創設者で、しかも私と同村大湾出身の山内繁茂先生だったのです。同校は最初、法令に基づいて設立された学校ではなく沖縄戦最中の一九四五年五月七日に山内先生の止むに止まれぬ子供愛・教育愛によって始められた私設の学園だったのです。その頃、石川は難民収容所となっており、収容された難民の子どもたちの『素行悪シク其ノ訓育ノ重大ナルヲ思ハシメタリ(学校設立当時の状況報告)』という状況だったので、それを見かねて山内先生は、当初四年生までの子どもたちを集めて教育を始めたのです。さて、私の教員への採用のことは直ちに決まり、同時にネービーブルーのナース(看護婦)服と編み上げ兵隊靴が支給されました。石川に難民が増えるにつれ、城前初等学校の後に宮森初等学校や大洋初等学校も開校しました。(渡久山※※「思い出の記」)
 十二月から始まる戦前の行政機構への復帰のなかで、他の「市」はすべて廃止されるが石川市だけ存続した。美里村は北部と南部に分割され、米軍の指令で旧市町村が分割された唯一の例となった。
 読谷山村への帰村前の読谷山村民の居住者数は八〇四八人である(三章五節参考資料2、二六一頁参照)。この時期に帰村せず現在も石川市に在住する読谷山出身者も多い。

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