第四章 米軍上陸後の収容所


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古知屋地区

 米軍上陸前、沖縄本島南部の住民が多く避難したのが古知屋だった。南風原村からは老幼婦女子七〇〇人が金武村宜野座と古知屋へ疎開したとある(『地方自治七周年記念誌』)。南風原村からの疎開者の一人(助産婦)は次のように記している。
 私たち一家が金武村古知屋に疎開したのは、昭和二十年の三月十日でした。米軍の上陸前から、南風原の住民は、金武村への疎開が進められていました。(途中省略)それから一〇日間位に、ものすごい避難民が古知屋に集中してきました。(『宜野座村誌 第二巻』五七二頁)
 その後、米軍の侵攻により山中へと避難した地元の住民と避難民は、五月中旬頃から再び古知屋周辺の収容所に収容され始める。収容先は潟原・古知屋・高松・前原・兼久のブロックに分かれていた。
 当時の状況を前述した南風原からの疎開者(助産婦)は次のように記している。
 終戦前後の古知屋は、島尻から送られてきた難民やら、先に来た避難民やらで、ほんとにすごい人間で、足の踏み場もないぐらいでした。高松開墾には、テント建ての難民の収容所もできて、私はますます忙しくなっていました。米軍は、古知屋部落に地域司令室を設置し、住民への食糧配給を行っていました。(同書五七四頁)
 古知屋の「市町村別人口調べ」(仲宗根源和著『沖縄から琉球へ』一二四頁)から十月頃の在住者の出身市町村をみると、那覇市一二〇三人、首里市一〇六九人、島尻郡計一万一九四五人、中頭郡計三三四〇人(内読谷山一四四人)、国頭郡計一五九三人などで島尻出身者が多い。その中でも糸満一四八八人、小禄一五〇七人、豊見城二〇七四人、兼城一三三五人、南風原一一五五人などが多くなっている。「市町村別人口調べ」を引用して仲宗根源和は「われわれ沖縄人が、戦争のためにどんなに、無茶苦茶に引っかき回されて、知らぬ土地におっぽり出されて苦しめられたかという実際の姿が、この数字を静かに見ていくとよくわかります」と記している。
 当時の古知屋の混雑ぶりは、一軒の屋敷に七〇人も入った例もあるほどで「家の中は戸もなくあけっぴろげでした。寝るのも庭先に寝ました。屋敷は避難民がいっぱいで歩けないほどでした。炊事は各自でやっていました。古知屋全体がそうで、家の近くの御嶽の周囲も全部避難民で一杯」だったという(『宜野座村誌 第二巻』五五一頁)。
 また地元潟原の住民は次のように記している。
 戦前の古知屋潟原は、世帯数もわずか十二軒の小さな屋取部落でした。(途中省略)潟原に帰ったのは、六月も終わりごろではなかったかと思います。残っていた家は四軒でした。ほとんど、アメリカ兵によって焼かれていました。人一人いない部落に私たちが帰ると同時に、他市町村からの難民も入ってきました。難民の多くは恩納村名嘉真、名護町喜瀬、幸喜、世冨慶の人々でした。馬小屋、牛小屋、豚小屋まで人の住み家になりました。潟原には一〇〇人近くの住民がいたと思います。避難民の多くがマラリアで、特に、弱っている年寄や小さい子供たちが亡くなりました。(同書五五六頁)

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古知屋市の成立

 一九四五年九月の「地方行政緊急措置要項」の発表により、これらの五地域(潟原・古知屋・高松・前原・兼久)が統合され古知屋市が成立する。九月二十日の市会議員選挙で一五人の議員が選出され、九月二十五日の市長選挙では金城増太郎が古知屋市長に選出されている。
 古知屋市成立前の人口は一万九三二七人で(二七四頁参照)、その後十月の人口は一万九一九四人(三一一頁参照)、翌年一月の人口は九六一七人(三一四頁参照)へと減少している。
 古知屋市が成立する頃には五つの学校も設立された。古知屋初等学校(児童数一〇〇六人)、高松初等学校(同一二七三人)、岡野初等学校(同一五三六人)、真平初等学校(潟原)(同二六二人)、久原初等学校(同五三五人)の五校で、「以上合計児童数四六一二名・教員数一三一名」という人数をみても古知屋地区の混雑ぶりが想像できる。「当時学校といっても設備、備品なく、露天教室で僅か天幕ばりの二、三あるばかりで子供収容所みたいな状態であった」という(『宜野座米軍野戦病院集団埋葬地集骨報告書』より)。当時の人口約二万人のうち、四人に一人が児童だったことになる。
 古知屋での死亡者については「古知屋共同墓地死亡者名簿」(『宜野座村史 第二巻』所収)によりその多さを知ることができるが、地元古知屋の出身者は子どもの死者の多さについて次のように記している。
 古知屋には、中頭や島尻から毎日のように栄養失調の乳児や子供、年よりが運ばれて来ました。彼らは運ばれて来た時から栄養失調で、目ばかりぎらぎらして、死にかけている人たちばかりでした。それで、運ばれて来てから二、三日したらほとんどが死んでいったのです。年よりもいましたが、一、二歳の乳児や四、五歳の子供も多かったです。戦争孤児たちで、戦争で親とはぐれたり、親をなくしたりして身寄りのない子供たちがほとんどでした。病気とか、けがをしたとかではなく、ほとんど栄養失調の子供たちで、ヤーサ死(餓死)で非常にかわいそうでした。墓地は開墾に二か所ありました。戦後、ほとんど遺骨を掘り出してあります。(『宜野座村史 第二巻』五五三頁)
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