第四章 米軍上陸後の収容所


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瀬嵩地区

 米第六海兵師団は四月五日に金武村の東海岸線を制圧、七日には久志村瀬嵩に達した。久志村一帯で住民の収容が開始されるのは五月中旬頃である。
 米軍上陸前に国頭村を中心に北部避難した読谷山村民五四二九人中一二五二人は久志村一帯で米軍に保護された。その内訳は四月一八人、五月一三三人、六月二九〇人、七月一七〇人、八月九一人と五月から七月にかけて多くなっている(読谷村「戦災実態調査」より)。
 『村の歩み』(読谷村役所発行)所収の「わが思い出の記」には「六月二十五日の朝、日本軍が負けたとの情報があり、那覇・首里・読谷村その他四・五〇〇〇人の避難民が、白旗を揚げ、安部・汀間部落を経て、瀬嵩で捕虜となり米軍のテント小屋で缶詰や米の配給を受け命拾いしました。栄養失調で後十日はもたなかったでしょう」と記されている。
 七月四日には瀬嵩最大の川筋一帯に連なる山小屋に武装米兵が現れ、住民は小屋を明け渡して山を下りることになった(『地方自治七周年記念誌』『久志村誌』『知念村史』など参照)。こうして地元の住民と難民が収容され、収容地は嘉陽、三原、安部、汀間、瀬嵩、大浦、大川、二見へと広がった。瀬嵩の久志国民学校内にはアメリカ軍司令部がおかれ、後に大浦崎地区に移動した。
 各字は瀬嵩地区司令部直轄のもとにそれぞれ独立した市を形成するが、「これらの市も、人口が多いというだけのことで、行政的には市の形態を備えながらも、政治的には組織も機関もなく政・行一体の形でただ住民の生活保護単位という形にすぎなかった。この形態が永続するものとは何人も考えてはいなかったろう」(『地方自治七周年記念誌』)という。七月には後述する知念地区からの住民移動が始まり、六三三〇人の住民が与那原港や馬天港から米軍の上陸用舟艇LSTで運ばれてきた(本稿「知念地区」参照)。知念地区からの住民移動は八月十五日の日本の降伏で中止になったが、久志村二見には東喜市という新しい市が誕生し、東喜市長には玉城国民学校長だった山口重和が任命された。
 当時の瀬嵩地区内の各市と市長名、および一九四五年八月一日現在の人口は表「瀬嵩地区人口調査」のようになっていた。
瀬嵩・久志地区の区域

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瀬嵩地区人口調査
(『久志村誌』38頁より作成)
市長、人口は1945年8月1日現在、市長は9月まで
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瀬嵩市の成立

 「地方行政緊急措置要綱」の発表(九月十二日)により、九月二十日に市会議員選挙、九月二十五日に市長選挙が行われた。二〇人の市会議員が選出され、豊見城村出身の瀬長清が瀬嵩市長に選出されて瀬嵩市が成立した。瀬嵩市成立により、それまでの各市は区に名称が変わり、九月末時点での知念市、糸満市、中頭郡、地元久志村の住民構成は表「瀬嵩市居住者内訳」のようになっていた(知念市、糸満市は一九四五年末から一九四六年にかけての名称、本稿「知念地区」参照)。嘉陽区、汀間区、東喜区に知念市出身者が多い。
瀬嵩市居住者内訳(1945年9月末)
(『知念村史第三巻』三一九頁より作成)
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 瀬嵩市成立前の人口は「瀬嵩一万九二六三、汀間一万九六一九」(二七四頁参照)とあり、合計すると三万八八八二人になる。その後十月の人口は二万八六八〇人(三一一頁参照)で、翌年一月には一万六九八人(三一四頁参照)へと減少する。
 十一月九日に糸満町、兼城村の住民の集団移動(帰村)が始まり、次いで豊見城、玉城、大里の各村民が帰村していった。豊見城村建設隊として同村出身の市長も率先して移動したため、後任市長には当銘由金が任命された。人口の減少により、一九四六年一月には次に述べる久志市を併合した。
 住民の収容が開始されて間もない頃、瀬嵩地区一帯でマラリアが蔓延し多くの住民が死亡した。瀬嵩公民館に保存されている「墓地台帳」(昭和二十年十一月作製)には、当時の瀬嵩区の収容者(同年八月現在で人口六六六九人)のうち、六一三人がマラリアや栄養失調などで亡くなっている。年齢は六十歳以上と十歳以下が多く、出身地は中、南部の人がほとんどだったという(『証言沖縄戦』琉球新報社参照)。瀬嵩区以外でも東喜区では一六〇人の島尻出身者が死亡し、瀬嵩地区全体での佐敷、知念、玉城村住民の死者は一九二三人にのぼっている(『知念村史』三一五、三二七頁)。
 読谷山村への帰村前の読谷山村民の居住者数は、次の久志地区と合わせて三〇八人(三章五節参考資料2、二六一頁参照)である。
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