第四章 米軍上陸後の収容所


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大浦崎地区(久志地区)

 四月五日に辺野古海岸より上陸した米軍は、日本軍の潜水艦基地がおかれていた辺野古海岸域を占領、補給基地として利用し駐留した。その後六月に本部半島に居住する今帰仁村、伊江村、本部町の住民をこの地域に強制移動させた。
 当時本部半島では、住民収容キャンプは作らずに焼け残った部落にそれぞれ住民を居住させて代表者をおき、毎週一回本部(もとぶ)町浦崎(二九九頁地図参照)の事務所で「メイヤー会議」を開いて連絡を取っていたという(仲宗根源和著『沖縄から琉球へ』六七頁)。六月になって本部半島に本部(桃原)飛行場の建設が開始されると、本部半島の住民を太平洋岸に面する久志村の辺野古崎(後に「大浦崎」と呼ばれる)に移動させた。
 本部半島から辺野古崎への住民移動について、軍医ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐は次のように記している。
 忘れてはならないのは、本部半島の北部や西部では戦禍はそれほどひどくなく、多くの住居が破壊を免れたが、アメリカ軍の占領後に強制移動させられたことである。ここでは、四月上旬から中旬にかけてアメリカ軍が浸入してくると、ほとんどの住民は村を捨て、山へ逃げた。二、三日経つと、アメリカ軍に対する恐怖心は消え、自分の住居に戻ってきた。アメリカ軍がすぐ側で野営しているにもかかわらず、住民は平常の生活に戻り、農耕収穫に励んでいた。二か月半もの間、戦闘の始まる前と同じように平和に暮らすことができた唯一の幸運な共同体であった。だが、日本軍の組織的抵抗が終了すると、アメリカ軍は休養のため、本部半島に移動してきた。そのため、住民を移動させることになった。本部半島の住民を受け入れる施設は全く用意されていなかった。約二万人の住民がトラックで東海岸に運ばれ、何もない原野に放り出された。数日してようやく仮の宿舎が与えられるという始末だった。(「沖縄戦と占領は沖縄住民にいかなる影響をおよぼしたか」上原正稔著『沖縄戦トップシークレット』所収)
 本部半島からの移動は今帰仁村字謝名以西の全住民、本部町の字瀬底、崎本部、伊豆味を除いた全住民、本部半島へ避難していた伊江村の住民などであった。こうして移動させられた住民で形成された「大浦崎」地区では、移動前の町村集落別に分かれた生活がしばらくの間行われていたが、人の住まない地での収容生活でさらに奥地の山手からマラリア患者が発生し、死者も相当の数に達したという。

久志市の成立

 一九四五年九月の「地方行政緊急措置要項」の発表で、他市町村の難民や地元の住民が収容された辺野古、豊原、久志、真平もあわせて大浦崎市が成立した。九月二十日の市会議員選挙で二〇人の議員が選出され、二十五日の市長選挙で本部町出身の仲里松吉が大浦崎市長に選出された。大浦崎市はその直後の九月末には久志市に名称変更され、引き続き仲里松吉が久志市長となった。
 大浦崎市成立前の人口は「大浦崎二万二四七〇、久志八〇九六」(二七四頁参照)とあり、合計すると三万五六六人になる。十月には人口二万九〇二七人(三一一頁参照)へと減少し、翌年一月には八一〇七人(三一四頁参照)へとさらに減少している。人口の減少は十月に那覇市牧志、壺屋、具志川村金武湾への住民の移動があり、十一月には本部町、今帰仁村、名護町の住民の移動、さらに中南部の住民の移動があったためである。人口の減少した久志市は一九四六年一月に瀬嵩市と合併して、久志市の市役所事務所は瀬嵩市久志出張所となった。

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