第四章 米軍上陸後の収容所


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辺土名地区

 国頭村は米軍上陸前読谷山村の避難指定地となっており、五四二九人の読谷山村民が避難した。『読谷村誌』(昭和四十四年発行)には「国頭村奥間部落に読谷山村仮村役場をおいて此処を中心として比地・桃原・辺土名・伊地・与那あたりまで部落単位の集団避難を実施」したとある。
 四月十二日国頭村に達した米第六海兵師団は、四月十三日には辺戸岬に長距離レーダー設置場所を確保して二十一日に設置、この頃続いていた日本軍の特攻攻撃に対処するのに大きな威力を発揮した。しかし住民は山中での避難生活を続け、五月十三日の報告に「(過去一週間の住民保護の)ほとんどは、島の北部地区で保護された。北部地区には、まだ、軍の管理下にない住民が数多くいる」(「G2レポート」)とあるように、北部地区での住民収容が始まるのは五月以降で、辺土名地区一帯はさらに遅れて七月に住民の下山が多くなる。
 「G2レポート」七月十七日の報告では、本島北部地区に航空機から二種類の宣伝ビラをまいたと記されており、一種類は日本兵向け、もう一種類は住民向けであった。そして七月二十五日の報告では「安波に派遣された偵察隊の報告によると、住民は、アメリカ軍の宣伝ビラを手にし、どこへ行けばよいのか判らずアメリカ軍の指示を待っている」と記されている。
 国頭、大宜味で保護された読谷山村民の収容先をみると、五月から六月までは羽地村田井等、仲尾次や大宜味村謝名城、喜如嘉、田嘉里などに収容されている。七月になると収容地区が拡大され、国頭村奥間、比地、与那、伊地などへの収容が増え、七月二十三日には国頭村桃原へ大量に収容されている(読谷村「戦災実態調査」より)。
 七月には国頭山地の全面的な掃討作戦があり、七月十五日が下山の期限であった。大宜味村では、七月十五日に村長以下多くの住民が白旗をかかげて饒波収容所に降りてきたという。『地方自治七周年記念誌』には次のように記されている。
 七月に入るや、度々の下山勧告に応じないのにしびれをきらした米軍は、隊を編成して山中に分け入って来た。そうして要所々々に立哨し、勧告と探索を続けて、日本軍の斬込隊を捕えると共に住民を収容して無事に下山せしめようと力めるようになった。(『地方自治七周年記念誌』二四頁)
 また喜如嘉収容所の設置については次のような記録もある。
 七月十日、数名の米兵が喜如嘉部落に入ってきて、喜如嘉校に本拠をおいて部落内の橋や道路、川などを測量しはじめた。県道には武装兵が配置され、遠くから警戒していた。そして、七月十二日には数十名の戦闘部隊がやってきて学校に駐屯した。(途中省略)さっそく部落の幹部で構成されていた戦時対策委員会が開かれた。委員一〇名が当山の小屋に集まり対策を協議した。この深刻な問題に対して委員会が出した結論は、衆議一決、「全員下山」しかなかった。(福地曠昭著『沖縄史を駆け抜けた男』三三頁)

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 こうして喜如嘉の部落民は「すでに部落内に他部落の人たちが収容されているが、部落の人は必ず自分の家に入れること」という条件を出して、十六日全員下山したという。
 戦前八〇〇〇人台だった大宜味村の人口は、収容者の増加により一万四〇〇〇人に達したといわれ、さらにマラリアの蔓延により「喜如嘉収容所を例にとると、七月三〇名、八月七四名、九月六二名、十月五六名、十一月三〇名、十二月二三名とわずか五か月半のうちに二六九名が病死している」という(『大宜味村史 通史』二四五頁)。
 国頭村、大宜味村、東村、久志村での読谷山村民の死亡者(昭和二十年)は五九二人にのぼり、四月七五人、五月一一九人、六月九四人、七月一〇七人、八月四九人となっている。このうちの大部分は年よりと子どもで占められており、〇歳から十五歳までの死亡者が一九六人で、六十一歳以上の死亡者は一六一人である(グラフ参照、読谷村「戦没者名簿」より)。
北部地域(国頭、大宜味、東、久志)での死亡者数(昭和20年)
読谷村「戦没者名簿」より作成

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辺土名市の成立

 一九四五年九月に「地方行政緊急措置要項」が発表され、国頭村、大宜味村の各収容地区を統合して辺土名市が成立した。九月二十日に市会議員選挙、九月二十五日に市長選挙があり、市長には山城東栄が選出された。辺土名市成立前の人口は「桃原三万七五三七人」(二七四頁参照)となっている。その後十月の人口は二万九四九七人(三一一頁参照)である。
 十月末には住民の出身市町村への移動が始まるが、住民移動に向けて作成された辺土名市在住者の市町村別人口調査では、知念市一〇五人、糸満市二二四九人、胡差市一九三三人(内読谷山村一四〇五人)、前原市八〇人(いずれも一九四五年末当時の市)などとあり、読谷山村の代表者には元村長知花清の名が記されている(仲宗根源和著『沖縄から琉球へ』一三七頁より)。知花清は前年の国頭疎開に率先して国頭に避難、仮役所などを設置したときの村長であった。
 当時の読谷山村民の辺土名地区での居住状況は、表「読谷山村住民数」のようになっていた。辺土名地区に居住する「外来者」の総数は五七〇六人となっており(前掲書三〇七頁)、読谷山村の一四〇五人は他市町村の中で最も多い人数である。
 読谷山村への帰村前の読谷山村民の居住者数(一九四六年九月付)は一六一人である(三章五節参考資料2、二六一頁参照)。
読谷山村住民数(1945年10月)
(仲宗根源和著『沖縄から琉球へ』三〇八頁より作成)
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