第四章 米軍上陸後の収容所


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知念地区

 五月三十日に知念半島の新里、佐敷を通過した米第七師団は、六月三日には玉城村百名の近くに達し日本軍がいる南部一帯から知念半島を分断した。佐敷村新里、屋比久、伊原に住民が収容され、六月十日の報告には「他の地域への住民移動に先立って、下親慶原北部から、馬天港にかける知念半島東地区が、アイランドコマンド軍政府管理下の軍政府地区と指定された」とある。その後アイランドコマンドの管轄は佐敷村、知念村、玉城村へと広がり、六月十七日の報告では「アイランドコマンドへ任務が移された時点で、知念半島には、一万二七九五人の住民」がいたと報告されている(「G2レポート」)。
 六月十七日には日本軍との戦闘が続いていた南部一帯でも多くの住民が保護され始め、そのうちの一部は知念半島に移された。知念半島の収容地区は玉城村百名、仲村渠、下茂田、知念村志喜屋、山里、具志堅、知念、久手堅などであった。また兼城村潮平、豊見城村伊良波には臨時の住民収容所が設置され、住民と軍人とを分ける厳しいチェックの後、軍人は捕虜収容所へ、住民は知念半島や沖縄本島中部の宜野湾村野嵩、中城村安谷屋、喜舎場、島袋などに移された(『糸満市史 戦時資料下巻』『豊見城村史 戦争編』参照)。
知念地区の区域

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 「G2レポート」六月十七日の報告ではこの時期の住民移動が次のように記されている。第九六師団地区(東風平、具志頭方面)では「過去一週間に一〇四五人の住民を知念半島に移動した」とあり、第一海兵師団地区では「過去一週間に八一五九人の住民が、LSTやトラック輸送により、糸満地域からアイランドコマンドの住民収容所へ移動した」、さらに第六海兵師団地区では「過去一週間の間に、一日二〇〇〜五〇〇人の割合で、第三海兵軍団の助けを借りて、トラックやLSTで住民を移動している」とある。
 六月中旬の兼城村潮平の臨時収容所から中城村安谷屋への移動を、ある戦時体験記から要約して引用する。
 「兼城村潮平の収容所に着いた。そこには野原にバラ線(有刺鉄線)を張りめぐらし一〇〇〇余の難民が収容されていた」。二、三日すると住民は米船に乗せられ、北谷村桑江の海岸に上陸した。そこからトラックで中城村の安谷屋に運ばれ、「この安谷屋部落は、不思議に戦火を免れて、家屋がほとんどそのまま残っていた」。安谷屋には三万人余の住民が収容され、市長(メイヤー)も任命されていた。「安谷屋収容所にいたころ、金武村中川収容所への移動が、米軍隊長より発表され」、「米軍による中川収容所への移動計画は、避難民の意思におかまいなく進められた。七月中旬から米軍のトラックで輸送が始まり、八月初旬までに三万人余りの移動が終わった。」(山川泰邦著『秘録沖縄戦史』読売新聞社、二一一〜二二六頁より抄録)
 住民居住区となった知念地区では、焼け残った一軒の屋敷に一三〇人もの人々が居住した例もあったといい、当時の人口(最多時)は表「知念地区収容者数」(前頁地図中の表)のようになっていた。
 七月になると知念地区から北部の瀬嵩地区への住民の強制移動が始まった。上陸用舟艇LSTによって与那原港や馬天港を出発、七月十一日から八月十八日までの数次にわたる移動で六三三〇人が久志村の海岸に到着した(表「瀬嵩地区への移動」参照)。八月十五日の日本の降伏で中止されたが、当初の予定ではその後の移動日まで決まっていたという(『知念村史』三一五頁)。
瀬嵩地区への移動
『知念村史』333頁より作成
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知念市の成立

 知念地区からの住民移動は中止となり、「地方行政緊急措置要綱」をうけて九月二十日に市会議員選挙、二十五日に市長選挙があり正式に知念市が発足した。行政区は知念村久手堅、知念、具志堅、山里、志喜屋、玉城村百名の六区となっていた。市長には親川栄蔵が選出され、知念村志喜屋に市役所がおかれた。
 知念市成立前の人口は「新里四六四人」とあるだけで(二七四頁参照)、これがいつ頃をさすのかは不明である。知念市成立後の十月の人口は一万七九一四人である(三一一頁参照)。
 十月には米海軍政府指令第二四号「地区及び地区境界の変更」によって、南風原村、大里村、佐敷村、東風平村、具志頭村、知念村、玉城村の七村が知念市に編入された(三一二頁参照)。その後十一月七日から瀬嵩市へ移動した住民の知念市への再移動が始まり、翌年一月までに知念市七村で一万九〇〇人の住民が移動してきた(『知念村史』三二三頁)。同時に住民居住区も広げられ、玉城村船越、大里村目取真、大城などへの居住が許可されたが、大部分は限られた居住区での仮居住を余儀なくされた。
 一九四六年一月十五日の人口調査では知念市の人口は四万二三一五人である(三一四頁参照)

糸満地区の発足

 米海軍政府指令第二四号(十月十四日)「地区及び地区境界の変更」では糸満地区が新たに設けられ、真和志村、那覇市、首里市、小禄村、豊見城村、兼城村、糸満町、高嶺村、真壁村、喜屋武村、摩文仁村の二市一町八村が糸満地区に編入された。

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 一九四五年九月八日に糸満地区の兼城村に一部の住民の居住許可が出たのをはじめとして、十月二十三日には金武村古知屋在住の住民の糸満地区への移動が決定した。古知屋地区隊長のブランナー大尉が糸満地区隊長に転任し、十一月四日には糸満町、兼城村への住民移動が始まった。同時に糸満市長も任命され(糸満市長玉城瑩)、二市一町八村を含む糸満市が発足した。
 沖縄諮詢会の資料に、十二月五日現在の糸満市の状況が次のように記されているという。
 糸満市の建設工作は、ブランナー大尉及びサイドマン中尉の音頭で、玉城市長力強く采配を振り、各課陣容を整えて着々と進捗しているが、既に人口は旧糸満町約五〇〇〇名、兼城三〇〇〇(ママ)名、ツボヤの特殊業者(ツボヤ焼きの職人)一二五名となっているが、更に旧豊見城村内への移動も始まり、本月(十二月)中には各区(糸満、兼城、豊見城、ツボヤ)を通じて一万七〇〇〇名の新規受入をなすべく準備が進められている。(仲宗根源和『沖縄から琉球へ』一三六頁)
 その後十二月十九日付ウルマ新報では「十二月八日現在で既に糸満五六二二名、兼城三五〇名、豊見城二三〇名、壷屋一三〇名を算し」たとある。
 一九四六年一月十五日の人口調査では糸満市の人口は一万九九四七人となっている(三一四頁参照)。
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