第四章 米軍上陸後の収容所


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四 軍政地区の変更(一九四五年九月以降)

 一九四五年九月の「地方行政緊急措置要綱」によって沖縄本島に一二(糸満市も加えると一三)の市が成立したところまで前節で述べた。当時の市長名(市長選挙直後)と各市の人口は図「諮詢会社会事業部調査(一九四五年十月十日)」のようになっていた。
 一二市成立後の十月一日には米海軍政府指令第一二号「軍政地区の設定」によって、沖縄本島一二の住民居住区と離島の四地区に加えて許田、本部(もとぶ)を新たに追加、軍政地区を一八とした。これにより大浦崎地区に強制移動となっている今帰仁、本部(もとぶ)の住民および田井等、古知屋地区に居住する名護町の住民の移動が可能になり、指令第一三号では「地区隊長は、新設の許田、本部(もとぶ)両地区の前任者で同地区内の居住可能場所への帰還を希望する住民の数を、できる限り速やかに当本部(ほんぶ)に報告されたし」と指示している。十一月初旬には今帰仁村、本部町、名護町の住民がそれぞれ地元に帰っている。しかし同指令で「六号線以南の区域で軍政府に追加割当てされた区域は、今のところない」とあるように、石川、仲泊を結ぶ軍用道路六号線より北に住民を居住させるというこれまでの基本方針は変わらなかった。
 沖縄本島の全域が軍政地区として設定されたのは米海軍政府指令第二四号「地区及び地区境界の変更」(一九四五年十月十四日)によってである。同指令は「(指令第一二号で)設定された軍政地区を、一九四五年十月二十一日を以て、左記のとおり変更する」として、辺土名、田井等、久志、宜野座、石川、前原、コザ、知念、糸満の九地区を設定した(次頁図「海軍政府指令第二四号」参照)。いくつかの地区が統合され許田地区、平安座地区、漢那地区、古知屋地区、本部(もとぶ)地区、瀬嵩地区は廃止された。
 十月二十三日には市長選出後初の第一回市長会議が石川の諮詢公会堂で開かれ、初めて住民の旧市町村への全面的な移動が取り上げられた。そして米海軍政府指令第二九号「住民再定住計画及び方針」(十月二十三日付)で旧市町村への移動が許可され、同指令には次のように記されている。

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 1 この指令は、元の家屋敷に帰ることを予想される者全部を含めて、沖縄島民を各自の前住地に移動させ、仮住居を提供し、できる限り恒久的構造に近い個人建築の家屋又は団体建築の家屋に住まわせ、軍政府の使用し得る耕地全部を耕作させることを目的とする。なお、移動は一九四六年一月一日までに完了することになっている。(『アメリカの沖縄統治関係法規総覧W』月刊沖縄社、二一頁)
 その後十月三十日に中城村安谷屋への移動が許可された(指令第三八号)のをはじめとして、十一月には各収容地区からの帰村が活発になる。

市の廃止

 住民の移動によって市の構成は根本から揺らいだ。それまでの市の組織が現状に合わなくなったことを認め、十二月四日付指令第五八号「村行政の組織」は、現在の「市長」という名称を廃止し、戦前の行政機構へ復帰することを発表している。
 2 戦前の沖縄の地方行政単位は、村、町、及び市から成っていたが、現在の軍政府地区には、石川地区と前原地区に分割されている美里村を唯一の例外として、全単位が包含されている。この指令の意図する地方行政は、軍政の実情に合わせて改めた戦前の村の組織に基づいて組織する。
4(c) 地区最高の住民代表は、現在、市長と呼ばれているが、これは地方長(地区指導者)に改められることになっており、(途中省略)市長という職名は該当しなくなったので廃止する。(前掲書、四二頁)
 人口の減少した二、三の市は統合、解消し、市に代わって地区を代表する地方事務所の組織が発足した。一九四五年末時点での九地区の「地方長」は次表「地方長」のようになっていた。
地方長(1945年末)
『沖縄市町村三十年史』上巻36頁を参照した。
また宜野座地方長に関しては、『宜野座村誌通史編』448頁を参照した。
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人口調査(1946年1月15日)
仲宗根源和著『沖縄から琉球へ』153ページより作成
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 さらに一九四六年一月二日には指令第八五号「辺土名及び久志両地区の廃止」で辺土名地区、久志地区を廃止して、それぞれ田井等地区、宜野座地区へ編入することを指令している。また地方事務所を代表する「地方長」の名称も、一九四六年一月二十五日に「地方総務」へと変更されている(仲宗根源和著『沖縄から琉球へ』一六六頁)。
 この時点での人口移動を示す資料として、『沖縄から琉球へ』所収の一九四六年一月十五日付の人口調査をあげておく(図「人口調査(一九四六年一月十五日)」)。沖縄本島中南部の住民が多かった瀬嵩、古知屋、宜野座、漢那から知念市、糸満市へ、また久志市から田井等市へ、宜野座市から前原市へそれぞれ人口が移動していることがわかる。
 戦前の行政機構への復帰は一九四六年四月四日に行われた各市町村長の任命式でスタートした。沖縄諮詢会の推薦にもとづいて米軍政府が任命し、任命式は石川市で行われた。読谷山村長には引き続き知花英康が任命されている。このとき任命された各市町村長とこの時点での各地方総務が一九四六年四月十日付ウルマ新報に発表されている。各地区と構成市町村の関係を示すため、各市町村長名は省略して掲載する(表「各地区総務と市町村長任命」参照)。
 このとき読谷山村はまだ帰村の許可が出ていなかったため、住民は各居住区に分散して居住しており、越来村に読谷山村仮役所が設置されていた。読谷山村への居住許可が出るのは一九四六年八月で、住民の集団移動(帰村)は十一月から始まった。
 一九四六年六月二十八日付うるま新報(ウルマ新報より改題)は、胡差地区内に居住する各村民の移動(帰村)が読谷、北谷を除いてほぼ完了したことを伝え、各村長の談話を掲載している。帰村の許可が出ない読谷山村長知花英康の談話は、「当村の旧来の名称読谷山の山を除き 今後読谷(ヨンタン)と村名を改めます」と記されている。
 読谷山村の名称が現在の読谷村に変更されたのは一九四六年十二月十六日だが、その前に越来村の仮役所での決定があったようである。また同じく帰村の許可が得られず、越来村嘉間良に北谷村仮役所をおく北谷村長新垣実は、「生活の根拠はなんと申しても生れ故郷もしくは故郷近くの山川草木に帰れることです(途中省略)今は一日千秋の思いで帰郷を待つのみです」と述べている。
各地区総務と市町村長任命(1946年4月10日付ウルマ新報より)

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