第四章 米軍上陸後の収容所


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五 捕虜収容所

 「G2レポート」報告で日本兵捕虜(PW)の数が増えてくるのは六月十三日以降である。この日小禄の日本軍(海軍)は壊滅した。米第六海兵師団は六月十三日の報告で「小禄半島」制圧を宣言、未確認情報とした上で八五人の日本兵を捕虜にしたことを報告している。米国陸軍省編『日米最後の戦闘』によってこれを補えば、六月十二日とその翌日に投降した日本兵は一五九人で「捕虜になった日本兵としては最初の大きな集団である」としている。「G2レポート」六月十七日の報告では、摩文仁方面に進出した米第七師団が「戦車の拡声器を使い、投降勧告。日本兵一五人、軍夫六〇人、住民五〇〇〜六〇〇人が投降、この大量投降は、沖縄の日本軍の組織的抵抗の破綻を示す初めての兆候である」と記されている。
(林博史『沖縄戦と民衆』338頁より作成)

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 グラフ「日本軍PW(捕虜数)」によれば、六月十二日までの日本兵捕虜は八一六人、「労役兵」を含めても一三八六人だが、六月二十四日には五八四二人、「労役兵」を含めると八六九六人に増え、六月三十日には七四〇一人、「労役兵」を含めると一万七四〇人に達している(林博史著『沖縄戦と民衆』三三八頁参照)。グラフのデータは六月で終わっているが、その後捕虜は八月の戦争終結後も続き、十二月には労役兵を含む捕虜数は一万六三四六人である(上原正稔訳編『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』四〇六頁)。
 六月頃に南部戦線で捕虜になった軍人・軍属の大部分は、いったん糸満、兼城村潮平、豊見城村伊良波などに設置された一時的な収容所に収容された後、屋嘉の捕虜収容所へと送られた。豊見城村田頭には軍人・軍属専用の捕虜収容所も設置され、六月十九日頃には約三〇〇人の捕虜が収容されていたという(『豊見城村史 第六巻戦争編』六一四頁)。
 嘉手納の捕虜収容所を経由して屋嘉に移動した例も多い。読谷山村出身の池原※※(字古堅)は六月二十日頃、南部の喜屋武あたりで捕虜になり、嘉手納収容所に移されたという。
 私は六月二十日頃捕虜になり、どこだかわからないが芋畑を金網で囲っただけの場所へ連れて行かれた。それから嘉手納航空隊の野国あたりの捕虜収容所に連れて行かれた。そこにいたのは一日か二日ぐらいで、そこからさらに屋嘉の収容所に連れて行かれた。屋嘉には十日ぐらいいたかなあ。七月三日(ママ)頃ハワイに送られた。裸組だった。(聞き取り調査より)
 嘉手納の捕虜収容所には当初伊江島で捕虜になった日本兵(沖縄出身者含む)が収容され、五月中旬には日本兵、朝鮮出身者、沖縄出身者あわせて五〇〇人くらいいたという。当時伊江島から嘉手納の収容所に送られた山田有昂は次のように語っている。
 昭和二十年四月二十一日、伊江島の守備隊は全滅し、島からの脱出を計画するが失敗し、五月二十一日に捕虜になりました。それから四日後の五月二十五日だったと思います、嘉手納の捕虜収容所に送られてまいりました。そのとき嘉手納には四〜五〇〇人の日本本土の兵隊、それに韓国、沖縄の兵隊が収容されていました。私たちが入ったときには捕虜で一杯になっていまして、収容しきれない状態でした。それで一八〇人くらいの捕虜がハワイに移送されました。(金武町役場『戦後五〇周年 金武町平和推進事業報告書』平成八年より)
 これが沖縄出身の捕虜がハワイへ移送された第一陣で六月十日頃出発している。その後残りの捕虜は屋嘉に移され、屋嘉にはその後も次々に移送されてくる捕虜が増えたため、六月二十七日頃、第二陣として約一五〇〇人の沖縄出身者がハワイに移送された。移送後七月頃の屋嘉捕虜収容所は、全体で七〇〇〇人ぐらいの捕虜がいたという。さらに第三陣として約一五〇〇人の沖縄出身者がハワイに移送されたのが最後で、このときハワイに送られた渡久山朝章(当時学徒隊、比謝矼)が記した当時の記録によれば七月五日の出発だった。ハワイへの移送を終えた後の屋嘉収容所の沖縄出身者は一〇〇人ぐらいだったが、七月十四日には六六三人に増えている(『那覇市史 資料編第三巻八』所収「屋嘉捕虜収容所」参照)。

屋嘉捕虜収容所

 屋嘉捕虜収容所の開設は、詳細は不明だが、六月頃南部から移送されてくる捕虜が増え始めてからのようである。それまで砂原の上に雑魚寝状態だったものから、出身地別(日本人・朝鮮人・沖縄人)および階級別(将校・一般兵)のそれぞれの棟に分かれた収容所の設営が始まった。この頃屋嘉部落の住民は石川に強制移動となっており、住民が移動した後の部落ほぼ全体をブルドーザーで敷きならして屋嘉捕虜収容所が建設されている。前掲山田有昂は次のように語っている。
 その頃屋嘉の捕虜収容所が準備にかかっていまして、六月の中旬だと思いますが、(嘉手納収容所から)約五〜六〇〇名の捕虜が屋嘉に移動しました。当時、屋嘉捕虜収容所はまだ整地中で半分しかできておりませんでした。(前掲『戦後五〇周年 金武町平和推進事業報告書』)

沖縄出身捕虜の解放

 ハワイへ移送された沖縄出身者は、早い人たちは約二か月間のハワイ滞在の後九月六日頃沖縄に送還されている。さらに十月二十八日にも一一六九人の送還があった。沖縄出身者の屋嘉捕虜収容所からの解放が一九四五年十月二十五日に始まっており、第一陣は二八人が解放された(前掲『金武町平和推進事業報告書』一五三頁参照)。
 十一月七日付ウルマ新報は「沖縄出身捕虜は今や軍政府の監督の下に解放され楽しい我が家に帰りつゝあり。最近ハワイから三六六名が送還され本日迄の収容総員二八四九名(看護婦四名を含む)の中一二一三名が既に解放された」と報じている。
 その後十一月十七日までにほとんどの沖縄出身者が解放され、残るのは離島出身者一三〇人のみとなった。

日本兵捕虜

 沖縄出身者が解放され始める頃から、新設された捕虜収容所に屋嘉から日本兵が移動している。楚辺捕虜収容所(後述)は九月頃新設され、約二〇〇〇人の日本兵捕虜が移動、また牧港捕虜収容所は十月末頃新設され、当初は一〇〇〇人余の日本兵捕虜が移動した。さらに十二月になると約八〇〇〇人の日本兵が宮古島から沖縄本島に移送されてきた。彼らは主に小禄、奥武山、普天間、嘉手納の捕虜収容所に収容された。
 一九四六年四月末現在の沖縄本島捕虜収容所と収容人員は以下のようになっていた。本部(ほんぶ)・屋嘉二八七人、第一支所・牧港三五三一人、第二支所・楚辺二〇七五人、第四支所・奥武山一五六〇人、第五支所・小禄一四五九人、第六支所・普天間七一八人、第七支所・嘉手納二八七四人、入院第九病院等一八七人の合計一万二六九一人である(図「捕虜収容所」参照)。内訳は宮古から移送された日本兵捕虜約八〇〇〇人、沖縄本島関係者約五〇〇〇人だった(松宮克也「沖縄新聞について」《沖縄県立平和祈念資料館『資料館だより』No.10所収》を参照した)。
 五月四日になると屋嘉捕虜収容所から「沖縄新聞」第一号が発行され全収容所へ配布されたが、六月十五日に屋嘉捕虜収容所が閉鎖されると嘉手納捕虜収容所に引き継がれた。屋嘉捕虜収容所の閉鎖により沖縄本島の捕虜収容所は六か所となった。屋嘉捕虜収容所の閉鎖を「沖縄新聞」第八号(昭和二十一年六月二十一日発行)は次のように報じている。
 豫ての予定通り屋嘉収容所は十五日を以て閉鎖された。PWのベースキャムプとして誰もが一度は門を潜ったことのあり想ひ出深いスタッケードであるが十五日全幕舎を撤収ベースキャムプは営倉新入者を加えて八十七名嘉手納へ移りPW事務室等十三名はオバスカムへ残余七十三名は楚辺へ移動し屋嘉収容所は解消した。これで本島のPWキャムプは合計六つとなった。
 一九四六年十月には日本兵捕虜の復員が開始された。第一回の帰国者一七八九人は十月三日に、続いて第二回の帰国者一八〇〇人は十月十七日に出航した。残りの捕虜は嘉手納捕虜収容所に移動し他の収容所は閉鎖した。「沖縄新聞」は十月十八日の第二五号をもって最終号となり、翌一九四七年二月までに全捕虜の復員が完了した(『金武町史 第二巻戦争・資料編』所収「沖縄新聞」を参照した)。
 なお沖縄の住民が軍作業の主力になるまでの当面の間、米軍が労働力として頼ったのがこの日本人捕虜だった。これに関しては鳥山淳「軍用地と軍作業から見る戦後初期の沖縄社会」(『浦添市立図書館紀要 No.12』所収)に詳細な分析がある。

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